-----aim-----




 昔、夢が全てかなうと信じてた頃。
 僕の憧れはテレビの中のヒーローだった。
 いつか自分もあんな風になれたらと。
 毎日わくわくしてた僕は、一体どこに行ってしまったんだろう。




 何も事件が起こらないまま昼食を摂り、一番眠くなる時間帯をようやく通り過ぎたところの、今日。
 僕を経由して上げられた先輩の報告書と始末書を読んでいた課長のデスクの電話が初めて鳴った。
 この時ばかりはしっかり刑事課長の顔になり、素早い動きで受話器を取り上げるその口元に、部屋の中にいる人々の視線が集中する。
 二言三言、相手とやり取りを交わした課長が、
「初芝5丁目で傷害事件発生! 怪我人も出てるらしいから、誰か、すぐ行って!」
「行くぞ真下っ」
「はいっ」
 叫ぶのにたったの半瞬遅れて先輩が立ち上がり、僕を振り向いてからそのまま和久さんに向き直って釘を刺した。
「いいです。危ないんで、今回は和久さんはナシ」
 おとなしくしててくださいね。
 むっとした顔で文句を言おうとした和久さんの目の前に人差し指を立てて見せて、先輩は更に不謹慎にも嬉しそうに、にいっと笑った。
「じゃ、行ってきまっす!」
「行ってきます!」
 気をつけてね〜、なんて気の抜けるような声色で声援送ってくれる魚住係長代理とか、頼むから面倒事だけは起こさないでよ〜、なんて極太マジックで顔に書いてある課長とか、そんなあからさまに嬉しそうな顔したらまた怒られるわよ〜、なんてグルメ雑誌をめくりながら背中で語るすみれさんの呟きとか(…って、なんで見てないのにワカルんだろう、すみれさん)に送られながら、僕達は廊下を勢い良く走り出す。
 が、クーラーのよく効いた建物内から外へ、ガラスたった一枚分通り抜けただけでそこは残暑厳しい東京の空の下。
 嘘みたいにキツイ陽射しが容赦なく照りつけて、僕達の足はぴたりと止まってしまった。
 これからこの空気の中を走るなんて、なんだか考えるだけでくらりと目眩がしそうで、目を細め、手をかざし、思わず上を見上げる。
 隣りで同じようなことをしていた先輩が、その表情のまま僕を振り返った。
「……パトカーは……やっぱ、ダメだよな?」
「……ダメでしょうね……。さ、行きましょか、徒歩で」
「……りょおかい……」
 はぁ、と溜め息をつきつつ、先輩が『刑事』の顔になる。
 僕も意識してそれを貼りつけながら、先輩の後を追って走り出した。


「で? どうだったの?」
 太陽から届く光の色も変わり始める、いわゆるお茶の時間過ぎ。
 署に戻った僕と先輩はそろって課長の前に陣取り、先程の事件の報告をしていた。
「だから、傷害だって通報で、しかも犯人もまだ暴れてるって話だったから、」
「一応危険も考えて、僕と先輩で行った訳ですけどね」
「現場に着いてみたら、何のことはない、猫と飼い主の旦那の大喧嘩ですよ、ったく…」
「……まあ、確かに壮絶な喧嘩でしたけどね、流血沙汰っていうか」
 落ち着いた僕の合いの手に、先輩の眉がひくりと動く。
 あ、ヤバイ。これって一気に先輩がブチ切れる前兆。
「だからってなぁ! 何なんだよあれは! 全くそんなことで警察呼ぶなっての!」
「まま、まあ落ち着いて青島くん……」
 おまけにゴルフクラブを片手に無謀にも先輩の言葉を止めようとした課長が、機嫌最悪の先輩に睨みつけられ、その形のまま笑顔を凍りつかせる。
 課長……こういう時の先輩には邪魔せず最後まで言わせれば、すっきりはっきり気が済んで忘れちゃうってこといい加減覚えればいいのに……。
 こっそり溜め息をつく僕に気づく様子もなく、一番暑い時間帯に走らされ、猫と人間の喧嘩の仲裁をやらされ、おまけに鋭い爪にひっかかれまでした先輩の鬱憤の矛先は、その逆鱗に触れてしまった課長一人に向けられ、……まあ、僕に被害が及ばなかったから良しとするか。
「課長! 何とか言ったらどうですか!」
「いやだってほら、私が通報した訳じゃないし、ね?」
「行ってこいって言ったのは課長でしょう!?」
「……行くって言ったのはお前だったなぁ」
 手を振りながら課長に更に詰め寄ろうとしてた先輩が、ぼそりと呟く和久さんの台詞に(結構根に持ってるような気がする、和久さん)ぐっと詰まって動きを止め、それでも耐えるようにか何か反論するためにか口をぱくぱくさせたのだけれど、久々の事件だからって嬉しそうな顔するから神サマにバチ当てられるのよ、というすみれさんの追い打ちにがっくり脱力して肩を落とした。
 先輩の追撃を免れ、ほっとした顔でそそくさと部屋から出ていこうとする課長までが、報告書よろしくね〜、なんて言葉を残していくもんだから、先輩は情けなさそうな顔で机に戻ろうとする。
 が、その途中で急に立ち止まり、ゆっくりと振り向いて、恨みがましい目で僕をじっと見つめたから、
「…報告書は5時までにあげて下さいね?」
 てっきり期限の話かと思って親切にもそう言ってあげたのに、先輩はいきなり僕の頭を(しかもグーで)殴ってきた。
「痛っ、ちょっと先輩何すんですか!」
「オマエな、後輩なんだからもっとちゃんとフォローしろよっ」
 当然の僕の抗議も、八つ当たりモードの先輩には届かない。
 あんまり刺激しない方がいいんだよね、この人のこういう時は。
「……ちゃんとしたじゃないですか、さっきも、事件の時も」
 でも分かっててもつい本当のことを言ってしまう僕はけっこう正直者だと思う。
 が、そんな正直者の僕の台詞に先輩はやはりカチンときたらしく、刺のある視線と言葉とを僕に向かってちくちくと発射し始めて。
「お前のは『フォロー』じゃなくて、『邪魔』とか『茶々』って言うんだよっ」
「うわ、先輩、ひっどいこと言うな〜」
「大体、オマエ。一人でさっさと奥さんの後ろに隠れやがって」
「だって、僕、猫より犬の方が好きなんですもん」
「そんなの理由になるか馬鹿!」
 報告書やら何やらを片づけながらも、和久さんとすみれさんに二人そろって怒られるまで、そんな日常茶飯事のじゃれ合いは今日もしっかり続けられたのだった。


 それっきり珍しく事件の一つも起きなかったせいか、定時過ぎにはもう片づけるものもなくなった僕は腰を上げた。
 途端にまだまだ書類書きの残ってる先輩がじろりと見上げてくる。
「俺、まだ報告書出してないんだけど係長」
「僕は終わったんで」
 机の上に出しといて下さいね、と言ってにっこり笑うと、先輩が椅子を鳴らして後ろを振り返って。
「部下がシゴトしてんのに、係長が帰るなんて酷いと思わない?」
 ちょうど馬鹿でかい公印を書類に押したところだったすみれさんが、肩を竦めてやっぱり椅子ごと振り返って先輩を顧みた。
「係長が残業なんてしたら部下が帰りづらいじゃない」
 ねえ中西係長?とにっこり笑って最後の書類を提出するすみれさんに気圧された係長が、ぶんぶんと首を縦に振りながら慌てて帰り支度を始める(…係長…いやすみれさんにこんなにこやかな顔で笑われたらあるイミ恐ろしいのはよくワカルけどさ…)。
「さーって、あたしも帰ろうかな〜」
 にんまり笑っていそいそと筆記用具なんかを片付け始めたすみれさんの背中に向かい、こっそり溜め息をついてから(聞こえたら何言われるか分かんないもんな)、先輩がしゅんとうなだれて書類に向き直る。
 その姿がなんだかちょっと可哀相に思えて、僕は優しく声をかけた。
「先輩」
「……何だよ」
「おととい先輩が暴れる被疑者と格闘して壊した取調室の机。廃棄処分にするみたいなんで、物品不要決定伺、先輩が書いて下さいね」
「……オニ」
「何か言いました?」
「なんも言ってません。早く帰れよ係長。部下が帰りづらいだろっ」
「ハイハイ。じゃあお先に失礼しまーっす」
 前半はこれ以上ないくらい仏頂面の先輩に、後半は刑事課の中の人みんなに聞こえるように言って、僕は歩き出す。
 途中、後ろから駆けてきたすみれさんと話しながら玄関を出て、そこで僕らは立ち話をしていた雪乃さんと森下くんと緒方くんの会話に加わった。
 結局やらないまま流れに流れてしまってる暑気払いの次は何の名目の飲み会をやるのかなんて、ああでもない、こうでもないとみんなで揉めているところに、落ち着きのない足音が響いてくる。
「青島くん?」
「先輩?」
 僕とすみれさんが同時に口を開くのを見て、先輩が『まだいたのかよ』ってな顔を露骨に作り、(隣ですみれさんの眉がぴくりと動くのが見えて僕は冷や汗が出る思いだった)それでも何も言わないまま僕達の横をすり抜けようとする。
「青島さん? どこ行くんですか?」
 が、雪乃さんが不思議そうに問いかけて先輩を覗き込み、基本的に人を無視することができない先輩がそわそわしながら立ち止まった。
「ん、事件。また傷害だってさ」
 昼間のヤツみたいなのじゃなきゃいいけど。
 ぼそりと呟いて、先輩は僕を横目で見遣る。かなり根に持ってるな、この目。
「でもほんとの事件より、昼間のヤツみたいのの方が平和でいいじゃないですか」
 思ったことをそのまま言うと、またも僕の正直者の意見にカチンときたのか、先輩が再びむすっとふくれて。
「でもそれでいちいち呼ばれる俺の身にもなってよ!?」
「僕も一緒に呼ばれたじゃないですか」
「お前のあれはいただけって言うの。いっくら引っかかれたって、借りるなら猫の手の方が全然マシだよ」
「…それ、昼間の事件にひっかけてんです? 面白くな…」
「うるさいな!」
「青島ぁ! お前まだそんなとこにいたのか、早く行けっ!」
 が、先輩冗談のセンス悪いですよ、とか言いかけた言葉が、階段のてっぺんに現れた和久さんの大声にかき消された。
 途端に、やべっ、との小さな呟きを漏らしながら、もうすっかり僕達のことなんて忘れたみたいに身体の向きを変える先輩。
 一瞬のうちに『事件』に染められる、その表情と瞳。
 そして、夏というか、残暑のこの時期だから当然なんだけど、あのいつものコートを着ていない先輩は、湾岸署の玄関からやけに身軽に駆け出した。
 けれど僕の目には何故か、思い出そうとするまでもなく、先輩の羽織ったコートが見えて。
 地を踏みしめる力強い足と、その背中で、風をはらんで翻る、緑色。
 ふわりと丸くふくらむその様は、まるで――。


 ――まるで、皆の期待を一身に背負う、ヒーローのマントのようで。


 子供っぽい、しょうもない考えだと一笑に伏し、でもそれから僕はふとよぎる想いに捕らわれる。
 重そうに見えるあのコートは、先輩にとって重荷なんだろうか?
 雨に濡れた時の、黒く染まった、袖からも裾からも雫の滴り落ちるコートを着込んだ姿が、赤く、毒々しいほどの夕焼けの光の中で、ちらちらと網膜を刺激する。
 …強く見えるあの肩は、本当は傷ついていて、そんな重荷を誰かに渡したいと思ってる? 誰かに変わってもらいたがってるとでも?
 それこそ馬鹿馬鹿しい、と思おうとして、でも僕はすぐに挫折した。
 だって、そんなこと、誰にも分からない。先輩以外の誰にも分からない。
 確かに、時折先輩はいつもとは対照的にものすごく儚く見えることがあって――例えば先輩の色素は、つまり瞳とか、髪とかだけど、陽に透けたりすると一気に薄くなる。それから大事な人が傷つけられたりした時には、そのショックを隠そうともしない人だから余計に痛々しい時がある――、あんな姿も知っている僕達には「先輩は強い人だから」なんて無責任なこと、きっと言えやしない。


「真下! 何やってんだよオマエも来んの! 早く来い!」
「はっ、はい!」
 ぴたっと立ち止まってくるりと振り返った先輩が僕に向かって大声で叫び、僕は『そんな訳ない』とすぐに思い直し、その後を追って駆け出した。
「……青島くんよねぇ」
「…そうですね」
 しょうがないなぁって顔のすみれさんと雪乃さん、自分の方がなんだか嬉しそうな森下くんと緒方くん達の綻んだ顔を最後に横目に見て。
(――だけど、もし、)
 もし本当に先輩がそんな風に辛く思っていたとしたら、そんな風に思う時があったとしても、その時には、そんな時には僕が助けてあげればいいじゃないか。
 先輩からあのコートを脱がしてあげる訳にはいかないけれど。
(――だって、それは僕がやっても意味がないことで)
 僕が代わりに全てを背負う事はできないけれど。
(――先輩だからできることがあるんだと、皆が知ってる。そして、)
 先輩が正しいと思う事を、先輩に期待する人達が正しいと思う事をできるように、僕にもきっと何かができるはずだ。
 先輩を信じて上を目指す室井さんのように、僕にも、たとえほんの少しでも、先輩の支えになることができるはずだ。
(それは、今はまだ、何となくしか見えてないけど、)


 先輩がアスファルトを蹴って真っ直ぐに走って行く。
 なんだか先輩が来てから僕にも体力がついた気がするな、なんて考えながら、僕は引き離されないように一生懸命後を追う。
 弾む息の合間に、何故か笑いがこぼれた。
 そうだ、だから僕はこれからもこんな風に、先輩の後ろ姿を見ながら歩き、走り、生きていくんだろう。
 先輩より上の地位についたとしても(いやこれはもうすでにそうなんだけど)、立場が変わって先輩に逢えなくなったとしても、その後ろ姿を――あの、よく目立つ、トレードマークの緑色のコートを――目指して、見失わないように、一生懸命に追いかけていくんだろう。
 そんな風に思う人間が増えていけばいいと思う。いや、増えていくに違いないと思う。
 いつか、変わらない事を美徳だと思うような考えをひっくり返すまで。
 凝り固まった観念に縛りつけられるような毎日を蹴り飛ばすまで。
「真下! オマエ遅いよもっと本気で走れ!」
「はいっ!」



 遠い遠い昔、抱いた夢が全てかなうと、何の疑いもなく信じてた頃。
 僕には憧れてたものがあった。憧れてた存在があった。
 いつか自分もあんな風になれたらと。
 そう考えて小さな胸を弾ませてた、純粋な僕はいつしかどこかに消えてしまったけれど。
 今の僕にはもっとなりたいモノがある。もっと現実にしたい夢がある。
 目の前の背中が遠ざかる毎に、足りない自分の力をかき集めてでも追いかけたい、夢。
 ……いや、やっぱ、ちょっとだけ違うかな。
 夢はあくまで夢見るモノ。
 これは、僕の夢ではなく――目標だ。




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久々の更新……。なんかこんなにも放っておいたかと
改めて気づいて冷や汗が。いや、具合悪くなりそう(苦笑)
でもま、小説書いたんで、こんなんでも良ければ読んで下され。

あんな先輩と仕事してたら、真下くんどう思うんでしょう。
てことで、真下くんに代弁してもらっちゃいました。
私は逆立ちしたって青島くんの助けにはなれないけれど。
自分にできることを、しなければならないと思います。
……今日も明日もガンバロウ。

ところで、結局真下くんや魚住さんの役職って何なんでしょかね。
この話は時間軸は今年の夏のつもりなんですが……彼らの役職が
分からなかったので、とりあえず映画の時と同じにしちゃいました。
……でもいくら何でも真下くん昇進してるだろうなぁ(爆)
(あと和久さん湾岸署にいないかもね〜(苦笑))




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