「真下。置いてったパソコンから女の身元わかるかやってみて」 おとり捜査で、雪乃さんが刺された。 被疑者はインターネットで知り合った自殺願望の男を殺したと思われるサイコ女だ。 その女はカフェに自分のノートパソコンを置いたまま逃走し、それで先輩が冒頭の言葉を僕に告げた訳だったりする。 僕は実際それができると踏んでいたし、先輩に言われなくともやるつもりだったので、二つ返事でいつものコンピューター室に陣取って作業を始めた。 雪乃さんが怪我をしたのは僕たちのせいだ。 僕も先輩もそう思ってるし、課長達だってそうだろう。 もっと根本的なとこで言えば本店から渡された無線機も悪いんだけど、そのせいばかりじゃないのは事実だ。 おとり捜査には危険がつきもの。 当然の如く、油断が禁物。 なのに雪乃さんが怪我をしたのは、僕たちがついてると、強行犯係の面々が4人もついてるんだと油断した僕たちの責任が大きい。 何としてでもあの女の身元を割り出して、逮捕しなくては。 ということで珍しくもそのこと――捜査にだけ集中していた僕は、だからしばらく気がつかなかった。 淡く光る、パソコンのモニタ。 その向こうのブラインドの更に向こう。 喫煙室の椅子に、壁を睨み付けるように座る人影があった。 ――室井さんだ。 何故こんなところに? 疑問符が頭に浮かんだのと同時に、解答も心に浮かぶ。 きっと今日の正午、僕たちがサイコ女と接触していたあの時間の、もう一件の事件のせいに決まってる。 ただ・・・と、僕はこっそりブラインドの隙間から室井さんを覗き見る。 さっき僕がその横を通った時にも彼はそこいただろうか? 微動だにしないその彫刻のような様子からは、まるで彼がもう何時間もそこにいたような印象を受けた。 けれど仮にも上を目指す僕が、その理想の姿として憧れる室井さんを見逃すなんてことがあるんだろうか? そう思いかけて、気づく。 なんだか・・・いつもの室井さんじゃないみたいなことに。 何もない空間を睨み付ける強い視線は変わらないのに、全身を包み込む空気がいつもみたいにぴんと張り詰めていない。 でも決してだらけてる訳でもなく、・・・なんて言えばいいのか分からないけど、どこかがいつもの室井さんと違う雰囲気だった。 あれじゃ僕が気づかなかったのも、ちょっとだけ納得できるかも。 ・・・落ち込んでる・・・んだろうか。 室井さんでも・・・落ち込むんだろうか、やっぱり。 キーボードの横で頬杖をついて、何気なく室井さんを見てた僕は自分を笑いそうになってしまった。 当然だろう。室井さんだって人間なんだから。 でも、なんとなくそういう感情とは無縁の人なのかもしれないとも思ってた。 眉間にしわを寄せて難しい顔はいつもしてるけど。 キャリアで、仕事ができて、東大閥でもないのに着実に驚くべきスピードで出世してて、近い将来の警視総監候補。 憂えることは何もないように見えるその人生。 だからそんな感情は持たないような、自分とは違う世界の人間のようなイメージがあったのかもしれない。 それどころか、ちょっと前までは機械のような印象持ってたかもしれない。 でも逆に、今の室井さんの昇進を妨げると同時に、室井さんをこの上なく人間らしく見せることのある唯一のものがあるとすれば、それは・・・。 と、そこにたった今僕が思い浮かべた人物がやってきた。 先輩・・・湾岸署のトラブルメーカーであり、ムードメーカーでもある青島俊作、その人だ。 何やら機嫌が悪くなることでもあったのか、まるで室井さんみたいに眉間にしわを寄せ、更には口を尖らして怒って・・・いや、どちらかと言うと焦っているみたいにがしがし歩いてくる。 髪に指を差し入れぐしゃぐしゃにしながら、難しい顔で喫煙室を横切って自動販売機に向かう先輩も室井さんに気づく様子がない。 室井さんはというと、先輩が真横を通った一瞬だけぴくりと眉を動かしたけれど、それだけだった。 先輩が勢い良くボタンを押し、青い缶がポケットに転がり落ちてくる。 そしてそのまま椅子に座ろうと向きを変えた先輩が、室井さんを見つけて凍りついた。 室井さんを見つけた時のいつもの――飼い主にじゃれつく犬のような、嬉しくて仕方がないといった――表情ではなく。 湾岸署を震撼させる猟奇事件と、警視庁、警察庁を震撼させる誘拐事件が同時に起こった日の、敵意さえこもった睨み付けるような顔でもなく。 先輩は何とも複雑な、途方に暮れたような瞳で室井さんを見て、それから何事かを言った。 もちろん僕には聞こえない、けれど室井さんには聞こえているはずのその言葉にも、室井さんは微動だにしない。 先輩がポケットに手を突っ込んで硬貨を出し、もう1本缶コーヒーを買うと、それを手にしたまま室井さんと背中合わせで椅子に腰掛ける。 たぶん、口調としてはいつもの調子で口を動かす先輩の中には、普段のこの二人を知る者にしか分からない程度の緊張やぎこちなさがあって、ちょっとだけ先輩を窺ったりしてる室井さんの方にも確実にそれはあるようで。 反応のない室井さんの返事を諦めたのか、おどけた仕草で肩をすくめて先輩が室井さんの横に缶を置き、自分のを開けてくいっと飲み始めた。 そのまま窓から射し込む夕日に目を細めて、小さな小さな、室井さんには気づかれないほどのため息をひとつ。 元気な振りをしてる先輩の、いや、ひょっとしたらあの放火殺人未遂事件から湾岸署全体を覆ってる空気をそこに見て、僕もつられてため息をつく。 先輩がここに来てから変わってきていたはずの、変わっていけるかもしれないと思えたはずの信頼とか、希望とか、そんなものが。 一瞬でなくなってしまったあの日のことで痛い想いをしてるのはきっと先輩だけじゃなく。 すみれさんであり、和久さんであり、雪乃さんであり、僕であり。 そしてやはり先輩であって、室井さんであるんだろうな、なんて。 考えてもうひとつため息をつきかけた僕の視界の中で、先輩が急に目を見開いて、それからゆっくり後ろを振り返った。 つられて見遣ると、室井さんの口が動いている。 一語一語、たぶん区切るように、絞り出すように、何かを呟く室井さんはとても苦しそうで・・・。 最後の言葉を――それはきっとたった4文字の謝罪の言葉だった――形にし終わった室井さんが、苦し気に、けれどどこかほっとしたような表情で目を閉じる。 身動きもせずその後ろ姿を見つめていた先輩が、じわり、と滲むような笑顔を作った。 でも作ったというのは間違いなのかもしれない。 まるで花がゆっくりと綻ぶような――男性を花に例えるなんてちょっと変だけれど、その時の僕には素直にそう感じられた――、自然に、そうなるのが神様に決められているかのような柔らかい微笑み。 そんな、僕が初めて目にする笑みを浮かべたまま、先輩は「大丈夫」と室井さんに告げた。 室井さんがぴくりと反応して目を開け、ぱっと見には怒っているみたいな強さでまた壁を見つめる。 先輩のどんな言葉が、どんな口調が、室井さんに向かって紡がれているのか僕のところまでは届かなかったけど。 『頑張りましょう』と、柔らかな柔らかな瞳で呟く唇は読むことができた。 一体何が大丈夫なのか、何を頑張るのか。 少し前の――例えば昨日までの――僕には到底計り知れないことだったかもしれないそれが、会議室の入り口で先輩が見せた苛立ちや焦り、室井さんが見せた逡巡や諦めといったものと一緒に、ひとつの枠の中にピタリとはまるのに気づいた。 穴だらけだったパズルのカタチが、少しずつ、おぼろげに見えてきた感触。 取り戻せないかもしれないと思ってみんなが悲しく感じていた色々なものが、実は約束という絆の中でちゃんと、失われていなかったこと。 室井さんが椅子の上に置きっぱなしだった缶コーヒーを手にとって立ち上がる。 先輩が悪戯っぽい笑顔で何事かを言うと、室井さんはぎゅっと細い缶を握り締めてそれに答えた。 力強い眼差しと、柔らかなままの瞳が絡んで、すぐに逸らされる。 そして、僕はまた気づく。気づいてしまう。 室井さんがどう見てもいつもの室井さんらしく、そしてまた先輩もどうしようもないくらい先輩らしいということに。 あの二人はきっと、どんなことになっても互いがいさえすれば、元の自分を取り戻せるのだということに。 特にさっき僕が考えていた室井さんの弱点はきっと、同時に何にも勝る強みなんだということ。 室井さんを見送りながら今にも笑い出しそうな表情でいた先輩が、気合いを入れて椅子から立ち上がり、軽快な足取りで刑事課の方へ戻って行った。 僕は、つめていた息を吐き出し、固まっていた身体の力を抜き、それになって随分時間の経ってしまったスクリーンセーバーのエンブレムを見つめてから目を閉じる。 なんだか、ちりちりと何処かで何かが叫んでいる気がして。 瞼の裏に焼き付いた穏やかな残像が、隙をみては僕に何かを気づかせようと暴れている気がして。 けれど今の僕はそれを見たくなくて、考えたくなくて、だから僕はそのままいつもの調子で先輩に接することにするんだろう。 「先輩!被疑者の名前と身元、わかりました!」 僕は何も知らない。まだ、何も。 たぶん、今は輪郭しかないパズルの色が見えてくるのは、もっとずっと先だから。 |