僕の取り柄って何だろう。 よく先輩やすみれさんには、 「お前の取り柄なんて方面本部長の御威光くらいじゃないの?」 「ちょっと真下くん。数少ない取り柄使って本店の情報聞き出してよ」 なんて言われてる、僕の取り柄。 自分でもそうかもしれないな……とか思い始めてる辺り、流されやすいというかスナオと言うか。 あ、もしかして、それも取り得だったりして? …そんなわけないか。 「迷惑かけて……すみませんでした」 (……我ながら、なんだけど、僕も成長したなぁ。) 椅子から立ち上がり、目の前で頭を下げる高校生の男の子の茶髪を見ながら、僕はそんなことを思っていた。 「はい。もうあんなことしちゃだめだからね」 笑いながら言ってあげると、彼も、初めて笑顔を見せてくれる。 …なんだ、やっぱり年相応の顔もできるんじゃないか。 ドアを開けると、取調室――ちなみに僕が彼らを連れて帰ってきた時には生活安全課がものすごく混んでて、それで刑事課の取調室を使ってたりする――から出てきた男の子を見つけて、同じ年頃の女の子が立ち上がって。 二人は僕に向かってぺこりとおじぎをすると、手をつないで帰っていった。 事件は、周囲にとっては、あの二人以外の人間にとっては多分、たいしたことじゃない出来事。 本当は僕にとってもたいしたことじゃないのになんて、以前の僕ならそう思ってたかもしれない。 だけどもしかしたら、彼らにとっては本当に大事なことで、今後の人生にだって影響があるかもしれなくて。 そう思うと、真剣にならざるを得なかったし、真剣だった僕の気持ちを感じ取ってくれた彼らは、素直に応えてくれた。 少しは助けになれたのかなぁ……ほんの少しは、なれたんじゃないかと、思いたい。 できれば、沢山の人を少しだけ後押しできる、そんな人間になってみたいから。 人のことに口を出すような気がして、取調べやなんかが苦手だった僕がそう考えるようになったのは。 (やっぱりある人の影響……だよな?) 考えながら歩いてきた僕は、ふと視界に入って来るはずの頭が見えないことに気づいて辺りを見回す。 が、そんなことする必要もなく、机に近づくに従って状況が飲み込めてきた。 組んだ腕の上に頬を乗せた先輩の肩が規則正しく上下している。 抱えた調書を音をたてないように置いてから、そっと机を回り込んだ。 案の定、珍しくも先輩は報告書作成途中で寝てしまったようだった。 (……今日はハードだったもんなぁ。) 僕自身もため息をついて、背伸びをする。 そうすると、疲労が重く凝り固まっているのがよくわかった。 先輩の後ろをくっついてただけの僕でさえこうなんだから、走り回ってた先輩は――しかも魚住係長代理に頼まれて代わってあげた夜勤明けで――ハンパじゃないくらい疲れてるに決まってる。 どうしようかちょっと悩んでから、僕は自分のコートを取って、先輩の肩にそっとかけた。 先輩のトレードマークのあのコートだと、きっと重くて目が覚めちゃうだろうから。 本当は起こした方がいいのも、せめて仮眠室でゆっくり寝た方がいいのも分かってたけど、よく眠っているようだったし、先輩が自然に起きるまではこのままにしておいてあげたかった。 僕はとにかく音をたてないように、そっとそっと移動し、さっきの調書を仕上げにかかる。 だけど机にかつかつと当たるボールペンの音さえも、先輩の眠りを妨げるんじゃないか、なんて心配になってしまって、ちっとも集中できなくて。 でもちらりとそっちを見遣ると、安らかな寝顔が視界に飛び込んできて、僕は慌てて目を逸らした。 このまま見てたら絶対、その、……ヤバイ。 何か違うことを考えた方がいいよな、なんてあたふたと周りを見回した僕は、今更ながらこの部屋に誰もいないことに気づく。 (あれ…? 他の係の当直の人は一体ドコ行ったんだ?) まだそんなに遅くない時間なのに……あ、だからゴハンでも買いに行ってるのかな……。 首を傾げつつとりあえず違うことを考えられ、ひとまず安心してた僕は、不意にあることに思い至ってかなり動揺する、それもものすごく今更なことなんだけど。 こ、これはもしかして、いやもしかしなくても僕と先輩の二人っきりってことで、べ、別に僕が動揺することでもない訳だけど、でも、その……ああ、ホラ、やっぱりヤバイ。 ぐるっと刑事課を一周した僕の目は、最後にその思考と共に吸い寄せられるように先輩に戻って来てしまった。 目を離さなければ、と思えば思うほど、心とは裏腹に視線が釘付けになる。 裾を捲り上げてあるシャツから覗く腕は健康的に日焼けして。 最近ちょっと痩せたような気がする頬は少し痛々しくて。 それから閉じられた瞼を縁取る、意外に長い睫。 さらさらと音をたてそうな前髪がそこにかかって微妙な影をつける光景に、僕は知らず立ち上がって先輩に近寄っていた。 思わず触れてしまいそうに手を伸ばしてた自分に気づいて、ギリギリのとこで何とか踏みとどまる。 (あ、危なかった……) どきどきと早く脈打つ心臓を押さえて、僕は後ろに後ずさった。 その弾みですみれさんの椅子に当たってしまい、存外大きな音が響いたけど、先輩は起きる気配がなく、僕はほっと息をつきながら自分の机に戻ることにする。 でも今度こそ調書をあげてしまおうと集中して向かったつもりが……やっぱり気づけば飽かずに先輩の寝顔を眺めていた。 ……分かってはいたことだけど……。 (……大概重症だよなぁ、僕も) 先輩はれっきとした男性で、どころか、僕なんかよりもよっぽど男らしい、格好良い――時々同じ男から見てもしびれるくらいイイ男っぷりを披露する――人なのに。 顔だって別に綺麗な顔立ちしてる訳じゃないし、ガタイに至っては僕よりいいくらいだし。 …それなのに、どうして僕はこんなに先輩に目を奪われてしまうんだろう。 先輩の仕草、視線ひとつ、他愛のない言葉で、どうして心までがんじがらめにされてしまうんだろう。 考えても考えても出ない答えに――いやそんなに簡単に出るようなもんだったら最初から悩まないけど――はぁ、と溜め息をついた時、先輩が小さく身じろぎした。 先輩は大きく息を吐き出して、顔を腕にこすりつけるような仕草を見せる。 僕は慌てて机に向き直ってペンを握り、調書を作成している振りをした。 「……あれ……まし、た……?」 急に向き直ったせいで、何処まで書いたか忘れてた僕の慌てようも、起きたばかりで寝ぼけてる先輩には気づけなかったようで。 僕は素知らぬ顔で、初めて先輩が起きたのに気づいたような顔で、返事をする。 「はい?」 先輩は目をこすりながら身を起こし、肩にかけられたコートに気づいて、僕を見遣り、それから考え込むように髪をぐしゃぐしゃとかき回した。 「……お前……なんでいんの?」 まだちょっと呆け気味の顔で、先輩が問いかけてくる。 「え?だって、僕、当直ですよ?」 「今日は俺だろ。この前交代したじゃないの」 が、ちょっとはごまかせるかな〜、なんて思ってた言葉は、意外に頭は冴えてるらしい先輩にあっさりと否定され、僕はそれで決定的にここにいる理由を失ってしまった。 「あ…そうでしたっけ?」 仕方なく僕は周りを片付け始める。いや、そりゃ明日も仕事な訳だし、早く帰るに越したことはないんだけど。 「はい、コレ。さんきゅな」 強張った筋肉を柔らかくするためか、首をぐるぐる回しながら先輩が僕のコートを渡してくれた。 それを――先輩の肩に今の今までかかっていたのを意識してかなりどきどきしつつ――羽織りながら、少しでも先輩と話していたくて、僕は口を開く。 「な〜んか損しちゃったな〜」 「何が?」 「だって、当直じゃないのに、こんな時間までシゴトしちゃいましたよ」 「いいじゃない、残業手当」 「……つくと思います? つく訳ないじゃないですか、手当なんて」 「…そうでした」 先輩が腕の下でくしゃくしゃになってしまった報告書を伸ばしながら、にかっと笑う。 その笑顔で、僕は不意に昨日の昼間のやり取りを思い出した。 僕が和久さんと一緒に裏付け捜査から帰ってきた時、魚住係長代理が先輩に頼み事をしている真っ最中だったこと。 課長に裏付けの結果を報告して振り返ったちょうどその時、眉間にしわを寄せた先輩が口を開こうとしていて――きっと「嫌ですよ」って言おうとしてたんだと思う――けれどそれより早く魚住係長代理がトドメの一言を放ち。 お子さんの発表会だというその内容を噛み締めるみたいに動きを止めていた先輩は、仕方ないなというような顔で溜め息をつき、それからふわりと、僕が思わず見惚れちゃういつもの笑顔を浮かべて頷いた。 先輩らしい優しさと気遣い。もちろん魚住係長代理はそういうことで嘘をつくような人じゃないから、誰でもその選択を選ぶだろうとも思うけど。 ただ魚住係長代理は、僕と先輩がこの前当直を代わったことを知らなかった。 ていうか僕も先輩もすっかりそれを忘れてて。 先輩は後でしまったなぁ、という顔でぼやいてたけど、持ち前の前向き精神で開き直り、変わらずに走り回ってた。 嬉しそうに帰る魚住係長代理を同じような顔で見送りながら、そのことは彼には伝えなかった。 そんなところが、すごく先輩らしいと思う。尊敬できて、憧れられるとこだと思う。 …かといって謎が解けた訳ではなく、さっきの僕の疑問はそのまま残ってしまうんだけど…。 無言で報告書を書いていた先輩が、はぁと息をついてから、鞄に荷物を詰め終わった僕に向き直った。 「…ていうかよく考えたらさ、お前ね、自分が当直だと思ってたんなら起こしなさいよ」 ペンを振り回してその先でこっちを指しつつ口を尖らす先輩は子供のようで。 「当直でもないのに、残ってたら変だろーが」 だって仕事と報告書と始末書好きだから、先輩。 いつもならそんな風にふざけて言える場面だけれど。 僕はそのまま先輩を見ていることができなくなって、そうですね、と小さく呟いて、鞄を持ち直す。 無理矢理笑顔を貼りつけてから先輩の方を向いて。 「じゃあ、僕帰ります。先輩、うたたねして風邪ひかないようにして下さいね? 強行犯係は例え先輩一人でも欠けちゃったらイタイんですから」 「……どういうイミだよ、全く」 なんだか棒読みになってしまったような僕の台詞も、先輩は特に気にした様子もなく、表面上はむすっと拗ねてまた報告書に向かう。 それに安心したのか寂しいのかよく分からない気持ちを持て余しながら、今度はもっと普通に笑えた僕は歩き出した。 「それじゃ、おやすみなさい」 「おう。気をつけてな」 拗ねたのは形だけだと証明するように先輩はちょっと笑って手をひらひらと振り、そんないつも見ているような光景さえ焼き付く瞼を押さえながら、僕は刑事課を出て警務課の前を通り過ぎ、廊下を歩いて玄関に向かう。 どうしよう、とその時初めて思った。 (ああ、……どうしよう。……こんなに、好きなんだ) 顔が綺麗とかそんなんじゃなくて、とにかく目が離せない。心が離せない。 瞳とか、表情とか、先輩が創り出す全てが。 自信に満ちた笑顔には元気づけられる。だけど同じくらい切なくて痛くなる。 どうしよう。こんな気持ちじゃ明日から上手く笑える自信ない。 どうしたらいいんだろう。先輩に悟られることにでもなったら、もう顔も合わせられない。 いっそ父親に頼んで本店に戻してもらおうかなんてとんでもないことまでぐるぐる考えながら、はあぁ、と何回目かの溜め息をついた時、遠くから足音と僕を呼ぶ声が聞こえた。 「真下!」 二度目の呼びかけに驚いて振り返ると、階段を大股に駆け降りてきた先輩が僕の前でちょっと息を整える。 「先輩……あのキョリで息切れ? 年ですか?」 一体どうしたのかと、なんで先輩が僕を追って走って来てくれたのかと、思わず動揺してしまう僕はそんなうわついた心を隠すためにわざとそんな口をきいた。 それに反応して、先輩は素直に怒った顔になる。 「うるさい。お前に言われたかないよ。……って、そうじゃなくてさ」 と思ったら急に真面目な表情を作り、先輩はいつもの癖の通り、ぐいっと僕に顔を近づけて。 「お前、今日の昼間、俺に言ったよな」 「? なんか、言いましたっけ?」 早くなる鼓動を押さえつつ本気で考える僕を窺うように、先輩の目がくるりと瞬く。 「…今日の夜大丈夫ですか、って。もしあれなら代わりましょうか、って」 「……あ」 「……やっぱり」 自分が吐いた台詞をそのまま繰り返されて、思わず僕は固まり、そんな僕を見た先輩が一度視線を逸らした。 「お前、やっぱり分かってて俺が起きるまでいてくれたんだろ?」 戻された瞳が、真っ直ぐに僕を見つめて、ふっと和らぐ。 こんな風にこんな目で見られたら、僕には先輩に逆らう術も、誤魔化すことでさえもできなくなる。そんな気も消えてしまう。 だから僕はそれが全てではないけれど、決して嘘ではないことを、形にした。 「……なんか、疲れてるみたいだったから」 するとそれを聞いた先輩が、絶妙のタイミングでにっこりと、少し照れたように微笑んで。 両手をポケットに突っ込んだままちょっと前かがみになり、上目遣いで僕を見る。 「……ありがとな」 きっと心から寄せられた先輩の感謝と笑顔は、さっきだったらきっと胸がしくしく痛むような、切ないものだっただろうけど。 先輩の柔らかい瞳がそんな気持ちを優しく包み込んでくれて、胸の痛みはそのままに、けれど笑い泣きしてしまいそうな暖かい想いに僕は満たされた。 ぎこちなく、それでも何とか微笑み返し首を振る僕に向かって、先輩はもう一度ありがとうと言い、じゃあなと身を翻す。 僕はぼけっとその姿を見送ろうとして、立ち番の森下くんがこちらを見ているのに気づき、方向を変えて歩き出した。 そしてそのまま、ちゃんと玄関から出ていこうとしていたのに、僕は結局堪えきれずに振り返ってしまい、ちょうど階段のてっぺんに辿り着いた先輩が僕に気づいてまたひらひらと手を振ってくれる。 いつものと変わらないその笑顔に僕もまた笑い返して、正面を向いて、歩き出して、……湾岸署の敷地を出た途端に何故か見上げる街灯がぼやけた。 はあぁ、なんてほんとに何回目かわからない溜め息がついて出る。 さっきとはたぶんほんのちょっとだけ質の違うそれが白い塊になり、すぐに空気に拡散していくその様も明るい夜空もやっぱりぼやけ、ふたつにもみっつにも見える星がいっぱい流れて。 近代的な建物を振り返り、その明かりの一つにいるはずの人を想い、僕は自分の奥から浮かび上がってくる確かなものを抱えながら、シアワセな痛みとは、こんなものなんだろうか、なんて思った。 いつもと同じ、今日。いつもと同じ明日。 違うのは僕。僕が持ち続けてる、そしてこれからも持ち続けるであろう、想い。 これを持っている限り、僕は僕でいられるんだと思う。 そうありたい自分でいられるんだと思える。 だから。 僕はずっと先輩が好きだ。 何の躊躇いもなくそう言いきれる、それがきっと、今の僕の一番の取り柄。 |