カタチのないものを感じるにはどうしたらいいんだろう。 自分の想いとか、人の想いとか、見えないからよすがにもなれないかもしれないそれら。 探しても探しても見つからなくて、途方に暮れた時にはどうしたらいいんだろう。 傍の誰かが、何かが、カタチのないものを信じるのは…どんなとき? 朝、突然の訪問者が、玄関の前に立っていた。 扉を開けたまま、一瞬だけ呆然としてしまったその隙に、その訪問者はひとつ、くしゃみをして。 慌てて中に引っ張り込み、リモコンのスイッチを作動させ、普段はあまり強くしない暖房を入れた。 ちょうど温風が当たる場所まで連れて行こうと手を引くと、その冷たさは、痛々しいほどで。 少しでも温もりを分けたくて、両手で包むようにしながら訪問の訳を問いかけようとしたその時、視線が絡まる。 珍しく遠慮がちに、おずおずとした様子を見てとってしまえば、わざわざ聞くのもためらわれ、更には自分にとってはその行動はともかく、理由はさして気にするべきのものではないことに気づいた。 安心させるように口元を緩め、凍える指先から移した手で同じく冷たい髪をくしゃくしゃとかきまわすと、ようやく彼は詰めていた息を吐き、それこそ花が開くような微笑みが目の前に生まれて。 条件反射のようにずきりと痛む胸に苦笑しながら、風呂に入るから少しだけ待っていてくれるか、と、伝えれば、元気のいい返事と、尻尾さえあればちぎれんばかりに振っているだろう満面の笑顔が見送ってくれた。 ドアを閉める寸前、ひらひらと手を振る彼にもう一度、先程とは違う意味合いの苦笑をしてみせて、バスルームに入る。 勢い良く迸る湯に触れて初めて普段から高めにしてある温度に気づき、すっかり目を覚ましてくれた存在を浮かべて緩む口元を自覚しながら心持ちその設定を下げ、軽く身体と髪を洗った。 しかし、その間にも。 暖房でようやく暖まった手をとりあえずポケットに入れて息をつく。 辺りを見回し、目についた新聞を手にとってみたり、テレビをつけてみたり。 ソファに座りもせずに、うろうろと歩き回り、思い出したように煙草を取り出す。 口の端にそれを銜えてから灰皿を求めていつもの場所に向けられる視線。 閉じた瞼の裏には、今この瞬間も自分を待っているだろう姿が次から次へと流れて。 意識もしないうちから、やってしまわなければならないことを急いで片づけている自分に気づき、三度苦笑する。 それでも。 決して慌ただしくはなく、けれどどこか心あらずといった表情で、時折、閉ざされたバスルームのドアを見遣るそのしぐさを想像することは。 今にも白いものがちらついてきそうな曇り空を見上げて落胆したはずの私の心を。 ひどく暖かく、柔らかいもので満たしてくれた。 どうしても。どうしても逢いたくて来てしまった、自分の家から職場へ向かう経路には逆立ちしたって入ってくれない、あの人の官舎。 いつもの職場ではなく、昨日の夜に言いつけられた朝一番で必要なおつかいに行くついでなんだからと自分にも周りにも、もちろんあの人にも言い訳の用意をして。 けれどそれこそ清水の舞台から飛び降りる覚悟で叩いたドアを開けてくれたあの人は何も言わなかった。 どんな時でも、そんなあの人の沈黙は心地いい。無理に言葉を必要としない、伝えたいことが伝わるような、柔らかい瞳が、自分を映して和らぐ様。走り回ったり自分でかきまわしたりしてすぐにぐしゃぐしゃにしてしまう髪を梳くように撫でるため、ゆっくりと伸ばされる指先。 ふとほんの今さっきの出来事を思い出して顔が崩れそうになるのを慌てて引き締めて、テーブルの上に無造作に置いてあるリモコンを手に取った。 ニュースやら天気予報、早くからやっているワイドショーなんかが次々に画面に現れたけれど、どれもあまり頭に入ってこないから、隣にあった新聞を見始める。 だけど普段なら、職業病なのか情報なり何なりをぱっと見で検索できる目も、今日は全く働こうとしてくれなくて。というか、それどころか、目は命令放棄してことあるごとにあの人が消えていった扉を見つめようとする。 諦めて、うろうろと、でも落ち着きない気配がドアの向こうに伝わらないようできるだけゆっくりと、部屋の真ん中を行ったり来たりしながら、ひとつひとつ考えることにした。 例えば。 扉を開けて、タオルを被ったまま歩いてくる足音。 意外に自分のことには無頓着で、でもできるだけ待たせないように、なんて気を遣ってくれるその髪からはきっとまだ滴がぽたぽたと落ちていて。 それを、大きめのタオルを取って拭こうとしても最初は許してもらえない。 眉間にしわを寄せた、あのお馴染みの表情で、そんなことより朝飯はちゃんと食べたのか、なんて聞いてきて、更に来る途中のコンビニでおにぎり買って食べました、なんて言おうものなら、またそんなものばかり食べてって怒られるんだろう。 でも、悪びれずに、もう一度タオルに手を伸ばせば、今度は許してくれる。表情も、瞳も、口元さえもほんの少し柔らかくして、きっと髪を拭かせてくれる。 そしてそれが終わったら、ぽつりと言ってくれるに違いない。 一緒に出るか、って。 頷いて、笑って、ついでに思いきり抱きしめちゃったりなんかしても、こんな寒い朝は仕方ないと諦めてくれるかもしれない、なんて。 カタン、と音のした薄い扉の向こうのあの人の、表情や声、言葉や行動。 想像して確かめて、ただそんなことの繰り返しが。 俺の心をこんなにも、どうしようもなくシアワセな気分で満たすなんて思いもよらなかった。 形のないものを感じられる瞬間は、いつ訪れるのだろうかと。 気を張って待っていたすぐ傍に、それがあった時。 あまりの幸福感に、痛いような、泣きたいような、切ないような、そんな風に酔いそうになる。 そんな幸せの形を具現化したような目の前の存在が、ただただ、愛しくて。 |