---笑ッテイテ欲シイ
地下にある駅から地上に上がろうとして、今日は何となく階段を登ってみる気になった。 エスカレーターが混んでいて、その中に一緒に佇む気にはなれなかったのと。 たまには運動しなければ、なんてじじくさいことを思いついたせいだった。 半分くらいで実は後悔も少ししたけれど、ここまで登ったんだからと自分に言い聞かせ、僕は鞄を持ち直して足を交互に動かし続ける。 ようやく長い長い階段を登り終わって、ふう、とひとつ息をついた僕の目に、見間違えるはずのないグリーンのコートを着た後ろ姿が見えた。 やっぱりたまには苦労してみるとイイコトがあるのかも。 なんて自画自賛しつつ、急いで遠くの背中に歩み寄る。 「先輩!」 僕が大声で呼びかけると、先輩が顔だけこちらを振り向いた。 煙草をくわえた口元が、僕を見つけてちょっと綻ぶ。 そんな些細な、それこそ先輩が誰にでも与えてるこんな小さなことでも、今の僕には先輩に駆け寄ってしまうくらい嬉しくて。 先輩は寒そうに肩をすくめて、ポケットに両手を突っ込み、それでもその場で僕が追いつくのを待っててくれた。 「おはようございます!」 「うっす。朝から元気だねぇ、真下くん」 「なんたって若いですからね」 「自分で言うな自分で」 「それもそうですね」 ははは、と笑ってみせると、先輩も煙草を右手の指に持ちかえてちょっと笑う。 そのまま先輩は息なんだか煙なんだか分からない白いものを吐き出して、空を見上げて目を細めた。 「・・・なーんか、はっきりしない天気なんだよなぁ」 「・・・そうですねぇ」 とかなんとか言いつつ、僕は隣の先輩ばっか気になって天気どころじゃなくて。 ---しあわせデイテ欲シイ
さらり、と風に柔らかく流される前髪とか。 猫みたいに細められ、黒い宝石みたいに(時々茶色にも)光る瞳とか。 煙草をふかして、薄く開いてたりする唇とか。 上を見上げたせいで露わになる、喉元とか・・・。 先輩の何気ない仕種は、先輩をカタチ造る当たり前のパーツの全ては、どうしてこんなに僕を惹きつけるんだろうと不思議になるくらいに。 綺麗で。 艶やかで。 低い気温の中、すぐ隣にある先輩の体温が、僕をますますどきどきさせる。 ---ソノ姿ヲ見セテクレレバイイ
けれど思わずごくりと喉を鳴らしそうになったその瞬間、不意に僕を振り向いた先輩と目が合って、僕は死ぬほど焦ってしまった。 「・・・なに?」 「い、いや、ほんとはっきりしない天気ですねっ」 「・・・そだな」 先輩が何事もなかったような表情で前を向き、僕は内心胸を撫で下ろしたい気分だった。 それでもあからさまに先輩を見つめてしまった自分の行動に、一抹の不安は拭えない。 ま、まさか今、物欲しそうな顔してたの、ばれてないよな。 「・・・あ。やっぱ、きたか」 僕が一人で後ろめたさにどぎまぎしていると、先輩がぽつりと呟いた。 「え?」 「ほら。雪」 もう一度上を見上げて、先輩は空を指差す。正確にはグレイの天から降ってくる、幾つもの白い結晶を。 「ほんとだ・・・寒いと思ったら」 「これで・・・今年は3回目だっけ?」 ココにしちゃ、けっこう降るよな。 その時、僕が目を逸らせなくなってしまういつもの強さではなく、ただぼんやりとした瞳で雪を見つめる先輩がやけに無防備に見え、僕はまたどきりとした。 そんな先輩をこのまま見ていたらいけないことを考えてしまうかもしれないと僕は急に気がつき、だから慌てて、でもそっと先輩のコートを掴む。 「先輩先輩っチコクしちゃいますよっ」 「・・・だね」 遅刻したらまーた課長に怒られちゃう。 にこり、といつものとそっくりな笑顔で、先輩がおどけてみせた。 でも不必要なくらいやけに明るく言ってしまった僕にも、先輩は気づいた風じゃなくて。 それでいいはずなのに、何か言いようのない感情がココロの一番奥に生まれた気がするのはどうしてだろう。 「いきましょっか」 「ん」 新しい煙草に火をつけて歩き出す先輩の後ろ姿は、何も変わらない。 じゃあ、だったら、変わったのは僕なんだろうか。 今はこうやって追いついた先輩の隣を歩いてもさっきみたいに変にどきどきしない。 それどころか、なんだか、つい下を向きたくなるような気分で・・・。 「・・・う〜・・・さぶ」 ぼそりと、返事を期待してる訳じゃなさそうな呟きが聞こえたから、ちょっと横目で先輩を盗み見てみた。 そしたら、やっぱり、先輩はさっきと同じような、眩しいものを見るような目でちらつく雪を見上げてる。 そんな先輩を確認した僕はと言えばますます落ち込むような気分になって、心の中でため息をついた。 先輩は今一体何を考えているんだろう。 こんな表情で、雪さえ降らなかったらきっと僕には見ることもできなかったに違いないこんな表情で。 それとも・・・誰を? そして、初めて気がつく。 先輩のことなんて結局僕は何一つ知りはしないのだということ。 一緒に飲みに行ったりすることはあったって、それだけ。 休日に逢ったりもしないし(休日はないも同然な僕らだけど)、今朝だって、先輩がどんな風にあの駅まで来たのか、なんてことは僕には想像もつかない。 なんだか急に、その距離を思い知ってココロが冷えた気がした。 ---他ニハ望マナイ
湾岸署の近くまで来て、ぼんやりと考え込んでいた僕は思わず立ち止まりそうになった。 スロープに黒塗りの、高級そうな、けれどいかにも官用車として使いそうな種類の車が止まっているのが見えたからだ。 だからといって僕が立ち止まる理由は特に見当たらないはずなのに、何故か僕は先輩を引っ張って今来た道を戻りたいと思った。 でも僕にそんなことができるはずもなく、先輩は車には気づかないまま入り口に向かって僕の数歩前を歩いて行き、そしてまさにその時を図っていたかのように、入り口から僕が想像したその人が出てくる。 「真下?」 急に立ち止まった僕を振り返った先輩は、まだその人・・・室井さんに気づかない。 室井さんが僕たちを、正確にはきっと先輩を見つけて足を止めた。 僕はと言えば室井さんから目が離せなくて、その僕の視線を追って、先輩が湾岸署の建物の方を見遣る。 「室井さん!」 途端に表情が明るくなって、先輩は、ほんとは駆け出したいのを我慢するみたいな歩調で室井さんに近づいた。 湾岸署にいる理由を尋ねる声と、それに答える声が、ちょっと離れた場所から聞こえてくる。 相変わらずの眉間の皺も気にした様子もなく、逆に本当に嬉しそうに先輩がにこにこと笑っているのが、なんだか苦しくて。 けれど、目も逸らせない。 あまり時間もないのか、室井さんが話を打ち切った。 最後に二人は僕には聞こえない言葉でいくつか言葉を交わし、室井さんは僕をちらりと見遣ってから車に向かう。 いつもの僕ならきちんと頭を下げたりするとこだけど。 その背中を見送る先輩の視線が優しいから。 きっと自分では意識してない微笑みが、どうしようもないくらい綺麗だから。 ---綺麗事デモ構ワナイ
冬の弱い陽射し。儚い空気。 舞い落ちるというより、ふわふわと舞い下りる雪。 垂れ込める重い雲が切れて、幾筋か光が差し込んだ。 最後にひとつ微笑んだ先輩が、何かを決意したような顔で前を見つめる。 揺るがず、譲らず、変わらない、いつもの瞳。 そんな先輩を見ていた僕は不思議なことに気がついた。 ふわふわと落ちる雪には、軽く、舞い上がるものもあるんだって。 なんでかな、なんてぼんやりと考えてすぐに、当たり前のことに思い至る。 霞がかったような不思議な色の陽射しの中、地上を目指す雪と、天空を目指したい雪。 夢のような、見慣れた風景。 雪だって、先輩だって、ほんとはいつでもかえりたい。 自分の一番だいじなところへ。僕がほんとは、かえりたいように。 ---タダ、タダ、願ウダケ
「・・・先輩」 僕は歩み寄って、先輩に声をかけた。さっきとはうって変わって、目が覚めるような鮮やかな笑顔のまま先輩が振り返る。 「あ、ごめん。待たせちゃったか」 「そんなことないですよ」 あんまり苦労せずに先輩に笑いかけることができて、僕はほっとした。 そのままその笑顔の質をいたずらっぽい物に変えてみせる。 「お前も室井さんと話せば良かったのに。アコガレなんだろ?」 「そうなんですけどね。邪魔しちゃいけないと思って」 「何言ってんだよ」 口調は怒って、でも瞳はさっきの色のまま僕を殴る振りをする先輩。 あまり見ることのできない穏やかな笑みが、また僕をどきどきさせる。 何のためらいもなく、その笑顔を、今の先輩を好きなんだと思えて、僕はちょっとシアワセな気分になれた。 それから僕たちは軽く笑い合い、冗談を言い合いながら空き地署の玄関をくぐる。緒方くんにも森下くんにも挨拶して、階段をのぼり廊下をたどって、刑事課に向かう。 僕はいつでも先輩の半歩後ろを、斜め後ろを歩く。先輩はいつでも前を見て、後ろを振り返らずに、僕の先を歩く。 これでいいんだ。 きっと。 ずっと。 ---祈ルヨウニ、願ウダケ。
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