どうして、このひとなんだろう。 この花を見たとき、僕はそう思った。 「あれ・・・真下?」 控えめにノックをしてからドアを開けたら、意外そうな声が降ってきた。ついさっき、すみれさんや雪乃さん達と帰った僕がまた来たんだから、確かにそれはそうかもしれないけど。 だからといってそんなに意外そうな声と顔をしなくたって、とちょっと恨めしくもなる。こんなこと思うこと事体がどこかおかしい、という心の声には目をつむることにした。 「どうしたんだよ?」 もう寝ようとしていたのか、肩まで毛布を被っていた先輩がもそもそと起き上がる。枕元の小さな黄色っぽい光の中、その動きで襟元から綺麗なラインの肌がのぞいて、僕は何やら落ち着かない気分になった。先輩の方を見ないようにしながらぎくしゃくと椅子に腰を下ろす。 「いや、あの、なんとなく」 もごもごと返事をすると、起き上がった先輩が苦笑した。 「さっきは俺、お前と話もできなかったもんなぁ」 女の子ってどうしてあんなパワフルなんだろな。 きっと、僕と先輩が口をはさむ隙もなく場を荒らしていった湾岸署きっての強者二人を思い出して、先輩は感嘆したような声を漏らす。それには全く同感だったけれど、僕はそんな簡単なことさえ口にできなくて。 「・・・どした?」 窺うように聞かれて初めて、随分黙り込んでしまっていたことに気がついた。慌てて顔を上げると、ちょっと心配そうな顔をした先輩がこっちをまっすぐに見つめているのにぶつかる。 「あ・・・いや・・・」 余りに真っ直ぐな、純粋な瞳に見つめられ、僕は思わずどきりとして言葉に詰まってしまった。そんな僕をどう思ったのか、先輩はいつものように、被害者を心配してあげてるのと同じ口調でベッドから身を乗り出す。 「お前、なんかあったのか? もしかして俺になんか言いたいことでも・・・あ、ほら、さっきはすみれさん達いたから言えなかったとか・・・」 顔がやたら近づいて(これって人と話す時の先輩の癖だ)、更に動揺した僕は思わず椅子ごと後ろにちょっと下がった。 「真下?」 それをますます切実な心配事ととったらしい先輩がまた身を乗り出・・・そうとしてバランスを崩す。 「ぅわ・・・っ!」 「先輩!」 ベッドから落ちそうになった身体を慌てて抱き止めると、先輩は僕につかまったまま刺された所を押さえた。 「・・・っつ〜・・・」 どうやら今の衝撃はかなり傷に響いたらしい。 「だ、大丈夫ですか? もう先輩すぐ無茶するんだから。こんなんじゃいつまでたっても治りませんよ?」 「誰のせいだ、誰の」 「って僕のせいにしないでくださいよっ」 「だって、今のはお前のせいだろ?」 憤慨したように言い張る先輩が顔を上げて、僕はその瞬間にいきなり先輩を意識してしまった。自分がまるで先輩を抱きしめているような錯覚に(だって錯覚じゃないじゃないか!)くらりとする。思わず突き放しそうになって、けれど痛みをこらえているような先輩に気づいてそれもできず、更に頭に血が昇るのが他人事のようにわかった。 「・・・っててて・・・で、どうしたんだよ?」 それなのに一生懸命自分を落ち着かせようとしている僕に向かって、先輩は間近から問いかける。 小首を傾げたその姿が、なんだか・・・どうしようもないほど。 「真下?」 不思議そうに聞いてくるその声だって。 「真下くーん?」 よく動く瞳が、面白そうに瞬く様も。 「おーい」 触れる身体は、熱を持ったようにアツイんだということも。 「真下ってば」 ぐるぐるとまわりかけてはっと気がついた時には、先輩の顔がますます、他の人から見たら危うく変なゴカイをするんじゃないかという距離にまで近づいていて、今度は焦った僕が椅子から落ちそうになる。 「なぁにやってんだよ。ほんとに変だなオマエ・・・」 けれど明るく言って傷を庇いつつ元の位置まで戻る先輩に、わざとやってんじゃないだろなと疑ってみたり、なんで僕の気持ちも知らない先輩がそんなことするんだとか思ってみたり、でもとりあえず僕は愛想笑いで誤魔化すことにした。 「すいません。何でもないんですよぉ、ほんとに」 先輩はすーぐ人のこと心配するんだから。 それより、怪我したときくらいは自分のこと一番に考えた方がいいですよ。 僕が言うんだから間違いありませんって。 ちょっと引きつっていたかもしれない表情も、そういうことにはからっきしニブイ先輩には悟られることなく、僕は適当なことを沢山まくしたてる。が、最初は自分でも分かっているらしい部分を指摘されて、ふてくされたような顔で僕の言葉を聞き流していた先輩が、ふと真剣な眼差しでこっちを見遣って。途端にどきどきしてくる心臓をなだめようと左手でお腹の部分を押さえたら(だって心臓押さえたらいかにもじゃないか!)先輩の目はますます神妙になった。 「な、なんすか」 思わず僕も神妙に先輩の言葉を待ったりしてしまう。 「そっか・・・そういや、そうだったんだよな」 「だから・・・何がすか」 「怪我したときは、って妙に説得力あると思ったら、コレに関しちゃお前の方が先輩だったね」 苦笑に近い笑顔で先輩が自分の腰を指差し、更に僕の左手の甲、正確にはその下の銃創を指差す。 「そういえば・・・そうですねぇ」 なんだそんなことか、と思わずへらへら笑いながらも、僕はじゃあどんなことだと思ったんだ、なんて自分にツッコミを入れることは忘れない。更にその答えは追求しちゃいけないことだと何となくわかっているから、そのまま忘れることにして。だけど、なんだか。ある光景が僕の中でフラッシュバックしたりする。 どうして、あのひとが浮かぶんだろう。 あの花を見たとき、僕は確かにそう思った。 「・・・あのさ」 僕が自分に、忘れよう忘れようなどとぶつぶつ一人で言い聞かせていると、先輩が何やら言いにくそうにちらりと僕を見た。 「なんすか」 「こういうのって聞いていいかどうか、わかんないんだけどさ」 「・・・はい」 たぶん顔中にはてなマークをくっつけながらも、大人しく次の言葉を待つ僕をもう一度見遣ってから、先輩はこそこそっと口を開く。 「・・・その、怪我。・・・撃たれた時って、どうだった?」 「あぁ・・・そのことですか」 いつもは言いにくいことまではっきり言う先輩がどうしてそんなにためらったのかが、僕にはなんとなく分かった。きっと先輩の方が今の傷のことを聞かれるのは嫌なんだろう。ただでさえ本店の刑事達に根掘り葉掘り、しかも何度も何度も聞かれるから、被疑者ではなく母親に刺されてしまったというちょっと情けない事態を思い知らされて先輩がうんざりしてるってすみれさんが言ってたし。 「言いにくかったら別にいんだけどな」 ちょっと笑って、先輩は珍しくも僕に気を遣うような表情になる。そんな顔はなんとなく先輩にはさせたくなくて、僕はすぐに言葉を繋げた。 「そんなことないですよ。ただ・・・」 「ただ?」 僕を見る先輩がまた首を傾げる。なんか・・・それってちょっと・・・やけに・・・って、さっきから先輩が可愛く見えるのはやっぱり僕の目が、それか頭がおかしくなってしまったせいなんだろうか。でもそんなこと考えてるとは外に出さないように、僕は慌てて口を開く。 「覚えてないんですよ。あんまり」 「そっか・・・そだよな」 僕の言葉に素直に頷いて、信じてくれる先輩の様子にちょっとだけ僕の心が痛んだ。もちろん嘘をついた訳ではないけれど、あの時のことを全然覚えていない訳でもなかったから。 本当は。まるでマジシャンがするみたいに、コートのポケットから出てきた黒光りする拳銃。痛みとしては感じなかった、鉛を撃ち込まれたような(実際そうだったワケだけど)重い衝撃。すり抜ける男の黒いコートの裾。その全部が、僕には音のない世界の中のスローモーションみたいに見えていた。 もうすぐ逢えなくなると思って、雪乃さんにいいトコロを見せたかった気がする。何より警部に昇進して、もう湾岸署にもいられなくなることが決まって、現場というモノに最後に触れておきたかったんだと思う。先輩が、和久さんが、身体を張って教えてくれたことを、改めてしっかり覚えておきたかったのかもしれないと、後で考えたけれど。 「・・・先輩は?」 「え?」 僕の突然の問いに、びっくりしたように先輩が顔を上げる。実は聞いた僕も驚いた、意識しない問いだったんだけど、聞いてしまった以上は聞かない訳にもいかなくて。 「先輩はどうだったんです?その傷んとき」 「あぁ・・・俺? うーん・・・」 そうだなぁ、とほんのちょっとだけ考えて。それから先輩は僕の顔を見て困ったように笑ってみせた。 「・・・実は俺もよく覚えてない」 大体被疑者の家に踏み込んでからは頭に血が昇ってたからなぁ、なんて言う先輩がたぶん無意識に傷に手を当てる。先輩に合わせて笑いながら一瞬その手に自分の手を重ねてあげたくなって、その時僕は不意に思い出した。 なんで僕の気持ちも知らない先輩がそんなことするんだ。って、僕はさっき考えた。その「僕の気持ち」って一体何なんだろう? 今、先輩の傷を治せるワケでもないのに、その手に僕の手を重ねてあげたくなったのと同じモノなんだろうか・・・? 「先輩!」 「はい!?」 急に僕はいてもたってもいられなくなって、立ち上がった。 「ちょっと待っててくださいね!すぐ、すぐに戻ってきますから!」 「ま、真下?」 おい、ドコ行くんだよ?とか言ってる先輩に答えるのももどかしく、僕はその場に荷物を置いたまま病室を飛び出した。更にばたばたと廊下を走って玄関から外に出て、駅前に向かう道をひた走る。 「す、すみません!」 閉まりかけた花屋に無理矢理飛び込んで、僕はまさにバイトらしき女の子が片づけようとしてた花を指差して財布を出した。 「それ、全部ください!」 驚く女の子から値段を聞いて、きっちりその分の金額を手渡し、花の束を裸のまま掴んでから、僕は再びもと来た道を走り出す。途中、今度は婦長さんらしきコワイ顔の人に捕まって、廊下を走らないように注意されつつも、僕は先輩が待ちくたびれて寝るはずない時間には戻ってくることができた。 「お、お待たせしました!」 「真下?お前ドコ行って・・・って何それ」 ドアを開けた僕を振り返り、ぽかんとする先輩に歩み寄って、僕はいっぱいに抱えた黄色い花をシーツの上にばらまいた。 「・・・ひまわり?」 「お見舞いです!」 自信満々に言いきった僕を見て、それから自分の膝の上にばらまかれた花の洪水を見て、先輩がちょっと嫌そうにぼそりと呟く。 「・・・男が男に、花?」 「お見舞いだからいんですよぉ!」 「・・・そっかな・・・」 「そうですって!」 自信なさげに僕を見上げた先輩が、まあいっか、といった表情になって笑う。 「お前、わざわざこれ買いに行ったの? まさか?」 「その、まさかです」 「・・・ばっかだねぇ。」 「そんなことないですよ!これでもちゃんと考えてるんですからね」 「何を?」 「・・・先輩。このひまわりみたいに早くしゃっきり元気になってくださいね」 「・・・ばーっか」 先輩が、くしゃりと満面のエガオになって僕の頭をひっぱたいた。その瞬間、白一面に黄色のアクセントしかなかった味気ない部屋が、まるで先輩のエガオを待っていたみたいに、一気に鮮やかに色づいて。 僕はこの時ようやく確信することができた。僕のキモチ。先輩のエガオ。この花と、先輩のエガオを待っていたのは、部屋ではなくて僕だったこと。もしかしたらすみれさんと雪乃さんと帰る道でこの花を見た時から、ちゃんと気づいていたのかもしれないけれど、 どうして、この花なんだろう。 先輩を見たとき、そう思ったけれど。 すっきりとしなやかに背伸びして。 真っ直ぐに太陽を見上げてその光を浴びて。 大きく、強く、鮮やかな、真夏の花。 あの時、季節外れのショーウィンドウで輝いた向日葵は、 まるで先輩のようだったから。 本当はきっと、ずっと、僕はこの人を好きだった。 |