現会長 佐々木澄子 回顧録
(五十周年記念誌 諏訪味噌組合のあゆみより転載)
創業者の義父は昭和初期、酒の卸業を営んでいました。
製糸業の盛んだった頃、多くの女工さんを抱えていた製糸工場はその食事用に醤油や味噌の自家醸造をしていました。
時代の流れで製糸業が衰退し、売りに出た醸造部の工場を銀行に勧められて義父が購入したのが
この業界に入ったきっかけと聞いております。
私がまだ嫁いで来る前の話しですから詳しい事はわかりませんが、嫁いで来た昭和30年頃には味噌もかなり手広く販売しておりました。
営業も義父がやっており、見本を持って一番列車で東京方面に売り込みに行っていました。
当時は40kg樽詰めが主体で、樽職人が樽の箍締めなどをしていたのを覚えています。

まもなく20kgダンボール箱詰めに変わり
さらに昭和40年頃から小袋詰めが出始めましたが、再発酵でパンクするなど
いろいろ問題が生じました。
当初の得意先は酒屋が多かったので計り売りがかなり遅くまで続いていました。
創業が酒の卸という関係から得意先もそうした形になったのでしょう。
私の実家は山梨の酒蔵「笹一」です。
父の兄・天野久が所長、父・秀孝は末弟で専務として営業を担当していました。
私が喜多屋醸造店に嫁いだので私の実父が主人を連れて笹一の得意先を廻ったこともあって、酒屋系の
得意先が多いとも言えます。
酒屋さんは店頭に化粧樽を並べ、計り売りが主流でした。
そのうちに全国酒有連(酒食品有名店連盟)との取引きが始まり、そのルートで小袋詰めもかなり出るように
なりました。
全国酒有連ルートは東京、名古屋、大阪さらに四国まで広がり、今でも取引きは続いています。
酒屋系の他には各地の醤油、ソースなどのメーカーが味噌を取り扱うところが多く、
それらが当社の主な得意先でした。
また地域の小売店や個人への直接販売も数多く行っていました。
小さな額の積み上げでしたが、お客様の声が直接届く良さもあり、今まで事業が続けられたのもこうした得意先との誠意ある付き合いの賜物と感謝しております。

私が嫁いで来て三年目頃から義父が病みつき、続いて義父も寝込むようになりました。
主人はそれまで専務でしたが、義父の他界を機に社長を引き継ぎました。
しかし昭和50年7月、主人は交通事故がもとで他界しました。
交通事故で入院中、ちょうどひかり味噌の先代も同じ病院に入院しておられ、私を慰め励ましてくれました。
どれだけ勇気づけられたことか、今でも感謝しております。
主人は47歳、人生で一番活躍できる年齢での他界でした。交通事故で怪我をしたのが42歳、厄年の事です。
追突され頭部を打った後遺症で半身不随になり、苦しいリハビリの後、片手運転の免許を取り、不自由な体で
各地の得意先まで車を運転していきました。
バンの荷室に急ぎの味噌を積んで行くのです。荷を降ろすのに困るでしょうと言うと「お得意先は皆親切で、
俺が行けばみんなで降ろしてくれるんだ。
俺を待っていてくれる人がいるから行くんだ。」と言うのです。
その思いがなんとも言えない気持ちにさせられました。
銀行へ行った時でも片手が利かないため、カバンのチャックを口にくわえて開けていました。
不自由な身体でも人に頼らず本当に頑張り屋でした。
交通事故に遭った時でも、ぶつけてきた相手の事ばかり気遣い、結局自分は事故扱いにもしないで帰って来たので、しばらく経ってから脳内出血が判った時には補償もなにもどうにもなりませんでした。
人のためばかり考える人でした。あの半身不随で愚痴ひとつ言わなかった精神力は凄いと思っています。
人格者でもあり周囲の人達から大変慕われていました。親孝行の人でもありました。
私が嫁いで来て、主人が他界するまでの20年のうちの13年間は義父母が寝込んでいましたが、
どこにでも主人が手を引いて連れて行きました。先に義母が他界し三回忌の後義父が逝き、主人が社長になりましたが、
今思い起こすと本当にいろんな事がありました。
昭和46年と47年に火災が二度。その時は本当に辛かった。
主人は既に半身不随になっていましたので「もう仕事は止めよう」と真剣に言いましたが、主人はウンと言わないのです。
焼けた工場の中でボイラーがまだ大丈夫だと聞くと それならまだやれると決断したと言うのです。
人にその事を相談すると「男はただ食べていければ良いというにではなく、なにか夢をかける仕事が必要だ」と言われ、
私も再出発を決意したことでした。お陰様でこれまで赤字だったのは火災の年の一年だけでした。
再建に苦労を重ね、4年目「今年から黒字にできる」と主人は嬉しそうに言っていましたが、その年に他界してしまったのです。
さぞ悔しかった事と思います。
主人の他界で追い詰められた私でしたが、全従業員に今後どうすればいいか各自意見書を出してもらいました。
みんな続けて行きたい意見で一致していました。
長女が大学一年、長男が高校二年、次男が中学三年と、なにかと大変な時期で
私の実家もずいぶん心配してくれましたが、全従業員の力強い協力があり、主人がこれだけのものを残してくれた功績、
またその名誉の為にも頑張らなければと思い直し、出来るだけの事はやってみようと悲壮な覚悟で代表を引き継ぎました。
ここまでやってこられたのは従業員はじめ周囲の皆さんの協力のお陰であり、
またご先祖の遺徳に支えられて来たものと感謝しております。
長男は家業を継ぐつもりで筑波大学にて生物応用化学を学び、卒業後直ぐ当社に入りました。
学んできた技術を活かして浅漬けの素「うまいずら」を開発。
名前のうまいずらは長男の枕元に神様が立って、この名前にしろと告げたそうです。
今でも味噌醤油とともに人気商品になっています。
また長男が技術会等で他メーカーの技術者である諸先輩方から教わり、
品評会等で得た成果を生かし販売したこだわり味噌「雪娘」が好評で、
業務用が多くなりがちであった体質を品質重視に転換できる大きなきっかけとなりました。
その他漬物用の味噌床など地域に根ざした独自商品も好評で、厳しい時代ながら小さな蔵の独自性を見出してきております。
平成十四年、長男に社長を譲りましたが、量的拡大は目指さず品質本位の堅実経営を継承してくれています。
日本の食文化を守る夢のある醸造という仕事に感謝しています。