動物お助け活動について Part 5

一番大切なことって?

最近、よく考えることがあります。不幸な命をこれ以上増やさないために一番大切なのは一体何か?そして1つの仮説にたどり着きました。それは 「人間としての自覚と責任感」 ではないかと。かなり長くて重い話ですが、良かったら読んでみて下さい。(ただし内容は支離滅裂で話があちこち飛んでいますのであしからず。反論もたくさんあるでしょうし…。)

日本に限ったことではなく、先進国ではどこでも見られる傾向のようですが、人間はやたらと流行に飛びつきたがるもののようです。例えば日本では猫もしゃくしもブランド品を持ちたがるように、各国でとびつく対象に違いはあれ、行動としては同じ事をするようです。そして日本のペット産業にもその影響が出ています。何年か前に 「動物のお医者さん」 というマンガがはやった時には、その中に出てきたシベリアンハスキーが大流行しました。その後流行は何度も移り変わり、最近はレトリバー系やミニチュアダックス、そして今一番人気なのは某サラ金のCMで使われているチワワだそうです。しかし、かわいいと思ってとびついて飼い始めても、基本的に覚悟があってのことではありませんからすぐに飽きてしまいます。そして数年後の保健所には、その当時の流行を映し出す鏡のように、人気のあった種類の動物がたくさん送り込まれてくるのだそうです。

確かに子犬や子猫はかわいいです。フワフワしていて、はかなげで、思わず抱きしめたくなってしまいます。しかし、彼らはぬいぐるみではありません。ご飯も食べれば、排泄もします。それぞれに個性がありますし性格もまったく違います。病気にもかかれば、イタズラだってするでしょう。それをすべて受け入れる覚悟がなければ、動物の面倒を見る資格は無いのです。動物がいれば自分の時間や生活も制限されてきます。人間の子供は一時期我慢すれば、言葉もしゃべるようになりますし、一緒に出かけられるようにもなります。しかし動物は、何を欲しているのか、彼らがどういう状況にあるのか、こちらが察してやらなければ何も始まりません。もし病気にかかっていた場合には、サインを見逃すと重大な結果を招きかねません。もちろん、他に面倒を見てくれる人がいなければ、長時間の外出もできません。そして、長ければそういう状況が10年から20年も続くのです。

もちろん、彼らから得られる幸せは、世話をする大変さの何倍も大きなものです。しかし、その幸せを感じられず、ただ世話することが苦痛になってしまう可能性も時にはあるでしょう。また一生懸命世話をしていたとしても、例えば、彼らの寿命が尽きるまでに自分の結婚や出産、引越しなどで否応無く周囲の環境が変化してしまうこともありえます。もし将来的にペット不可の賃貸住宅に住まなければならない可能性があるとしたらどうでしょう?特に自分あるいは家族が出産する場合、赤ちゃんにとって動物が有害であると信じる人は世の中にはたくさんいます。そういう人に 「絶対に動物を手放せ」 と迫られたらどうしますか? 子供にある日突然喘息症状が出て、犬や猫のアレルギーだと言われたら、どうすれば良いのでしょう??

こうした様々な可能性をできる限りシミュレーションし、それでも何とかやって行けそうだ、最期まで面倒をみられるという覚悟ができて、初めて動物を飼う最低限の資格が得られると思うのです。しかし、そこまで考えて動物を飼ってくれる人は、現代社会においてはあまり多くないようです。(もちろん、中には捨てられていた子を放っておけなくて、後先考えずに拾ってしまって飼い始める人もいるでしょう。でも、そういう人は意外に最後まで責任を持って面倒を見てくれることが多いような気がします。もちろん、何でもかんでも拾ってしまって破綻する人もいるにはいますが…。)

日本のペットショップのあり方にも大きな問題があります。マスコミで取り上げられトレンドとなった種類は、それがどんな非合法的な方法で繁殖された動物であっても、高値で取引されます。そして、人々の流行を追いかける性格を悪用して、裏では悲惨なまでの繁殖が行われ、遺伝や適性も何も考えずに繁殖された動物達は生まれつき障害を持っていたり病弱だったりするのに、高い値段で販売されています。こうして、保健所では年間何十万頭という動物の命が失われているにもかかわらず、もう一方では、世の中に不幸な命をどんどんと送り込んでいるのです。しかも、ペットショップではほとんどと言っていいほど、飼い方の指導などはしません。売れば売りっぱなし、もし病気にかかって死んでしまっても、新しいのを補充すればよいくらいにしか考えていません。これでは、せっかく覚悟をもって動物を買った (飼った) としても、遺伝性疾患や性格的な問題などで途中で手におえなくなってしまうことだってありえます。こうなると、動物ばかりでなくせっかく動物との生活を楽しもうと思った人間までが不幸に陥ってしまいます。

こうした状況を改善し、人間も動物もない、すべての命が等しく幸せに生きていくためには、やはりこの地球上の生き物の中で一番の知恵と力を持つ人間が、他の動物の命を思いやって生活していく責任があると思うのです。もちろん、生きていくために時には動物の命を奪う必要もあるかもしれません。それは人間以外の動物同士でも行われていることです。しかし、人間と動物とではどこが違うかというと、動物は満腹になればそれ以上動物の命を奪うことはしません。しかし、人間は多くの場合 "食欲" ではなく "物欲" (要するにお金目当て) で不要なまでに多くの命を奪います。例えば、グルメの代表格と言われているマグロやカニなどは、昨今の乱獲によって数が激減し、このままでは絶滅の危機にもあるそうです。みんなが大好きな牛肉のステーキも、その牛を飼育するために莫大な量の飼料が必要となったり、牛の数が増えたため呼吸による地球上の二酸化炭素量が増加し温暖化に拍車を招いているという話も聞きます。

人間は完全な菜食であっても生きてはいけます。しかし、一度おいしいと感じてしまった食材が食べられないとなると人間は欲求不満になってしまいますから、時々の贅沢として肉や魚などのごちそうを食事に一品添えれば、そんなに大量の殺戮は必要ないはずです。(ちなみに私はほとんどベジタリアンで、ごくたまにお肉を少し食べます。幸い魚介類は嫌いなので練り物はOKですがそれ以外はほとんど食べません。) しかし現代人の欲望はその程度では満たされず、経済のある部分は高級と呼ばれる食材をいかに大量に提供するかによって支えられていることもあり (たとえば外食産業やホテルの食べ放題など)、人間が無駄な殺戮をやめることはありません。他にも動物については様々な問題があり (例えば野生動物の密猟や虐待など)、自由競争社会によってもたらされ肥大化した人間の欲望がうずまく現代は、動物達にとって受難の時代とも言えるでしょう。

こんな時代ですから、自分ひとりの力では何もできない、何も変えられないという悲壮感や無力感にさいなまれることもしばしばありますが、だからといって何もしないのは最悪です。例え自分の救える動物の数がたったの1頭であったとしても、例え自分の主張を100人中99人までが否定したとしても、そこにほんのわずかでも命を救える可能性があるのならば、例え一人でも同じ気持ちになってくれる人がいるのならば、そこを手がかりとして自ら行動していくしかないと思います。そして、その行動がいつか大きくなれば、救われる命の数も増えていくはずです。

人は自分一人で勝手に生きているのではありません。人を支えるあらゆる命によって生かされているのです。その事を認識し、その事実に感謝し、自覚と責任感をもって生きていかなければ、地球上から行きとし生けるものの命が消える日も遠くはないでしょう。(むしろその方が人間にとっても動物にとっても幸せではないかと思う時もたまにあります。) あらゆる状況を変えることは無理だとしても、人間の手によって不幸にされる動物が一頭でも少なくなることを願って、これからも微力ではありますが活動していこうと思います。

キーワードは 「人間としての自覚と責任感」 です

Last updated: 2003.2.23