2007年7月17日午後8時50分、をやじくんが虹の橋に旅立ちました。
2002年12月29日に喧嘩の傷が治るまでの仮住まいとして一時的に猫小屋の住人になったをやじくんですが、以後亡くなるまでをやじくんがお外に戻ることはありませんでした。

をやじくんとは長いおつきあいでした。おかあちゃんのつれあいとして一緒に餌場に現れるようになったのは、をやじくんが猫小屋の住人になる何年も前の事ですから、お付き合いとしては正味8年くらいだったでしょうか。しかし、をやじくんが小屋の住人になってからは、あっという間の日々でした。最初は去勢をして外猫として世話をしていましたが喧嘩の傷が絶えず、念のためにしてもらった検査でやはりエイズが陽性である事が判明し、そのまま外にいればおそらく長くは生きられないだろうと病院の先生に言われた事がきっかけで、猫小屋の住人になりました。

その後、激しい口内炎から右前の犬歯1本を残して全部抜歯をし、しばらく胃に通したチューブから流動食をあげていた事がありました。腎不全が悪化してからは、1年3ヶ月間、毎日朝晩リンゲル液を皮下注射しました。腎不全による貧血が進んでしまってからは、造血ホルモンの注射を打ってもらうため頻繁に通院しました。をやじくんとの思い出は、言い換えれば病気との闘いの思い出であるとも言えるでしょう。それだけに、をやじくんと過ごした時間は他の誰よりも濃く、深い信頼と絆で結ばれた時間だったと思います。

腎不全そのものの数値は最期までそれほど悪くはありませんでした。しかし、やはりエイズの影響か、最期は骨髄抑制による極度の貧血によって、をやじくんは命を落としてしまいました。病院からは輸血による延命治療の提案もありましたが、それまで十分すぎるほどがんばってくれたをやじくんに、それ以上の痛みや苦しみを強いる事はどうしてもできず、治療は断りました。その結果、貧血が極度に悪化してからわずか3日でをやじくんは虹の橋に旅立ってしまいましたが、最期はお互い「もういいよね、十分がんばったよね」という、ある意味満足した気持ちだったと思います。

をやじくん最期の日。既に3日ほど前からいつもの寝場所であった2段ケージ上のベッドまで自力で上がる事ができなくなっていたため、ベッドは床に移動してトイレの隣に置いてありました。そして朝、いつものように2本注射をして、ご飯は前日の晩に未消化物を吐いたので強制給餌はやめて、時間の許す限りをやじくんをただじっと抱っこして、万が一の事があっても後悔しないように気持ちを落ち着かせて出勤しました。でも、をやじくんにはできれば私が帰宅するまで待っていて欲しいと伝えました。

おそらくもう長くは無い…そう思い、翌日の分まで仕事を片付け、同僚にもしかすると翌日は休みをもらうかもしれない旨を伝えて急いで帰宅しました。カバンを玄関に放り込んで小屋へ入ると、まずケージの中を確認しました。そして一番に目に飛び込んできたのは、まっさらなトイレでした。をやじくんは腎不全の典型的な症状の多飲多尿があったため、掃除をしても比較的短時間でトイレを使う事が多かったのですが、その日は夕方の6時過ぎだったにもかかわらずトイレを使った形跡が無かったため、いよいよ尿閉塞になってしまったと思い、あわててケージに飛び込みました。

をやじくんはベッドの中に横たわり、苦しそうに浅い呼吸をしていました。体を触ると、既に四肢は硬直し始め、肉球は白く冷たくなっています。「いよいよ、をやじくんが逝ってしまう…。」私はその場を離れる事ができず、ただをやじくんの体をさすっていました。そして、今までがんばってきてくれた事への感謝の気持ちと、虹の橋に行ったらおかあちゃんが待っていてくれる事、そして私が虹の橋へ行った時には必ず迎えに来てくれるように、何度も何度も繰り返し話をしました。

7時半くらいになって、母親が様子を見に来ました。私が帰宅したのは気づいていたらしいのですが、夕食の時間になっても小屋から戻って来ないので様子を見に来たとの事でした。私がをやじくんはもう長くないと思うと言うと、母親はびっくりした様子でした。聞けば、昼前に心配になった父親がをやじくんの様子を見てみると、をやじくんは自力でトイレを使ったらしいのですが、そこで力尽きトイレから出られなくなっていたそうです。そこで自分は手を出さない父親なので、母親を呼んできてトイレからベッドに戻してやって、その時に母親がトイレも掃除をしたとの事でした。(それでトイレが使っていないように見えたのですが、実際は亡くなる日の昼前まで、をやじくんは自力でトイレを使っていたのです。)母親は自分でトイレに行けたのだからそれほど悪くは無いのだろうと考えていたらしいのですが、私がもう手足が冷たくなっているし、呼吸も浅いから…と言うと、とりあえず食事の片づけをしたらまた来るからと言って一旦母屋へ戻りました。

それから、時々意識が戻って苦しそうに鳴くをやじくんに、「もう何もしてあげられないんだよ、ごめんね。もうがんばらなくていいよ。らくになっていいよ。」と言いながら、レスキュークリームを塗ってあげたり、胸をさすってあげたりしていました。8時半前くらいに、また母親が小屋へ戻ってきました。それまで静かに様子を見守っていた隣の3にゃんずでしたが、さすがにお腹が空いたらしく、みゃあみゃあと鳴き始めたので、母親にお願いしてご飯をあげ、トイレの掃除をしてもらいました。そうこうしているうちに、をやじくんがずっと鳴き続けるようになりました。苦しい、息ができない、何とかして…。最期の力を振り絞って叫んでいるようでした。しかし何もしてあげる事はできません。ごめんね、ごめんね…。

そして母親が3にゃんずの世話を終えてをやじくんのケージに入ってきて5分もしないうちに、突然呼吸が止まりました。あっ…と思うと、また大きく息を吸い込みます。まだ息をしている…そう思う間もなくまた呼吸が止まり、あっ…と思うとまた大きく深呼吸をします。しかし、それも2回ほどで、最期はつっぱるように手足を伸ばし、全身がこきざみに震えたかと思うと、そのままをやじくんは動かなくなりました。「まだお腹が動いてるよ」母親はそう言いますが、私がをやじくんのお腹に耳をあてても、何も聞こえません。「をやじくん、をやじくん」名前を呼びながら体を揺すりましたが、をやじくんが動く事はありませんでした。

とめどなく涙が流れました。をやじくんを抱き上げ胸にかかえましたが、をやじくんは全身の力が抜け、ただくたーんとなるばかりです。これが「死」なんだ…。「生」から「死」への移ろいはあまりに残酷で虚しい物でした。でも目の前に現実がありました。をやじくんはもう呼吸もしなければ、動きもしません。私の手の届かない遠い世界へ旅立ってしまったのです。

ただ泣きました。でも、心の中には安堵の気持ちが広がって行きました。もう苦しくないよね、辛くないよね。おかあちゃんにはもう会えたかな? ひとしきり泣いてから、をやじくんがずっと使っていたベッドに敷いてあったフリースの布を段ボールに敷いて、その中にをやじくんを安置しました。それまでずっと近くで見守っていてくれたレイボーのクリスタルクラスターも一晩をやじくんと一緒に安置して、をやじくんを見送ってもらうことにしました。をやじくんをケージの中に安置し、電気を消して小屋を後にしました。

本当は日記で書けば良かったかもしれません。でも当日はとてもそんな精神的な余裕はありませんでしたので、今ここにこうしてをやじくん最期の様子を書きとめておきます。最期の様子を細かく描写する事が果たして必要な事なのか、自分でも良くわかりません。でも、をやじくんは最期まで生を全うし、私に喜怒哀楽のあらゆる姿をさらけだして旅立って行きました。記憶は時と共に失われて行きます。でも、をやじくんが見せてくれた、渾身の力を振り絞って最期まで闘う姿を記録としてとどめておく事は、をやじくんに対する礼儀のような気がします。

をやじくんの遺骨は10日ほど母親が贈ってくれた献花と共に居間にいましたが、今日からは私の寝室のおかあちゃんの遺骨の隣に場所を移しました。これからおかあちゃんと二人で、私や他の猫達の事を見守ってくれる事と思います。

をやじくん、長い間本当にありがとう。そしてお疲れ様でした。をやじくんと過ごした時間は、私にとって心から癒される、優しく暖かい時間でした。しばらく離れ離れになってしまうけれど、必ずまたどこかで会えると信じています。それがをやじくんと私の運命だから。それまでは虹の橋でおかあちゃんと穏やかな時間を過ごして下さい。をやじくんはいつまでも私の心の中に生きています。そしてをやじくんの心の中に私が生き続ける事を祈っています。をやじくん、大好きだよ。

翌朝のをやじくんです。お花は裏の花畑で摘みました。



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