引き上げ

九月、私は実家に引き揚げることを決意する。
理由は父の看病のためと、実家に男手が必用だからである。
正直言って東京に遣り残したことが多すぎ、非常に残念この上ない。
私が希望する職業はおそらく(と、いうよりまちがいなく)田舎にはない。
留学までした私の現時点での能力を使いきれる会社で、私を採用しててもいいという所は 敢えて断言するが「ない」。そういう需要もないため、新たにそういう仕事をはじめられるような 環境も無い。
それを思うと今までやってきたことが、水泡に帰したような暗澹たる気持ちになる。
しかし、私はやはり帰ることにした。

「夢を諦めちゃ駄目だ」とか、「希望を捨てるな、努力しろ」という。
言葉が流行する昨今だ。私自身も最近までそう思っていた。 しかし、ほんとにそうなのだろうか。

人の仕事とは、個人の希望だけで決まるものではない。
社会の需要と個人の希望の間に存在する。もちろん「社会の需要」の「社会」とは 家族というものも含まれる。
父の看病と、男手のいなくなった我が家には私の力がどうしても必用なのだ。
冬の雪かき、日常の買い物など、力仕事は多い。母一人では動にどうにもならないのである。
で、あるとすれば、事ここに至って私がまず考えるべきことは 「実家から通える範囲で仕事を探す」ということでなければいけないのではないのか。

夢よ希望よとは家族の状態を無視して語れるものではないはず。
守るべきものを守れないものに夢を語る資格など断じてないはず。
家族や社会や、そういうものの需要を無視し、今まで私が考えていた語る「夢」とは、 「エゴ」というのではないか。そう最近は思う。

人は歳を取るにしたがって何かを失っていくと言う。
もしかしてこの事を言うのか?

確かに私は語学能力を生かす機会を失った。
中学や高校の頃のような自由度も無くした。
いくら奇麗事を言ってもこれは事実である。

しかし本当に「失った」のだろうか?
形を変えて私の手の中に残っているだけなのではないか?

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