手術

手術の日、私は実家へ帰った。
父の手術に付き添うためである。
父は淡々と手術前の準備をしていた。
手術前から食事を取らず、点滴だけで暮らしていたせいか
心なしかやせて見えた。父が入院するのはこれがはじめてではないが、
親が病床に伏せ、心元なげになっている姿は見たくないものである。

父の手術は予定から大幅に遅れて午後一時過ぎから始まった。
前の手術が長引いたせいであるという。
母とともに付き添い、手術室の前に座って待つことになった。
手術が始まってしばらくして親族が集まりはじめた。

はじめに父の兄に当たる私の叔父がやってきた。
この人はとても父の兄とは思えないほど、物腰が柔らかい人である。 今年で80を既に越えている。先年奥さんを亡くされた。

そのうちに母の姉たちと、伯父がやってきた。
先年留学中に一番上の従兄弟が結婚式をたが、欠席せざるを得なかった
それ以来、ただでさえ何となく付き合いにくさを感じているのに、
これがますます間遠にさせた。
正直言って私はあまり親戚付きあいが好きでなかった。
子どもの頃から母の親戚に対する不平不満を吹き込まれてきたから、ということも
無いではないが、私自身濃密な人間関係が苦手であることが
最も大きな理由である。
しかし思ったより伯父など話のわかる人が多く、今まで大切にしなかったことを 少し後悔した。

手術は長引いた。 もし父の癌が、切り開いてみてあまりにひどい場合、 手の施しようが無いためしばるしかなく、手術は出来ないという話を聞いていたので あまり早く出てきてもらっても却って困るが、あまり長引くと父の体力が心配である。 父は最低血圧が50少々しかない。そのため手術自体が危ぶまれていたのである。 父は若年の頃水泳の選手として地区大会で優勝の経験もあるくらいなので、体力は 充分あるとばかり私は思っていた。しかし、上記の理由で「手術が出来ないかもしれない」と 母から聞かされ両親が私の知らない間に歳を取ったことに気づいた。 親の年齢を気にしたのは今回が初めてでない。高校のとき父が入院してとても気弱になったとき、 私はそれなりに親が歳を取り、いずれは私の側にいられなくなる事を悟ったはずだった。 ここ数年帰省するたびに両親が歳を取っていくことを しかし、今回、病名が「癌」と聞かされたとき、今まで以上に具体的にその事を思った。
手術中、集まってくれた親戚はずっと母のそばにいて励まし続けてくれていた。 待っている間母はしばしば声を上げて泣いた。これには正直言って意外だった。 私が小学生だったころから、四六時中両親は喧嘩していた。 特に中学の頃など、まともに両親が会話しているのを私は見たことがない。悲鳴と怒号の中で私は育った。 家に帰っても気の休まるところなどなかった。それは両親も同様だっただろう。しばしば離婚話が 持ち上がった。しかし両親とも独立して生活できる年齢ではないため、現実化することはなかったが。 そのころ母がくり返し私に言った言葉を覚えている。
「あなたのために離婚しないのよ」
その言葉がとても苦痛だった。
しかし・・・その母が泣いている。やはり40年以上も一緒に生活してきた夫婦なのだ。
私が知っている両親の顔は、そのほんの一部に過ぎなかった事に気が付いた。 父は64才、母も同じである。私が記憶している両親の姿は20年くらいなのだ。
午後1時過ぎから始まった手術は、その夜の8時近くまでかかってようやく終わった。 その後親族が全員集められて執刀医から説明があった。父の前立腺が切り取られてクスリ漬けにされていた。 それを医師がピンセットでつまみだし、説明が始まった。それによると肉眼では確認できないくらいだが、 前立腺の左の辺りに触るとしこりのようなものがあり、それが癌であるという。一応周囲の脂肪の部分にも 転移している可能性があるので、広めに切り取ったとのこと。前立腺の上部に脂肪細胞が黄色い泡のように 付いていた。
今後については、周辺部の癌の転移状況を切り取った部分から調べ、さらに転移の可能性があるようなら 再手術というになるようだ。ただし、父の体力次第では再手術は出来ず、薬品を使っての治療になるという。

手術後、麻酔の醒めるのを待って集中治療室で面会ができた。全員白衣に着替え、手を消毒して部屋に入った。 父は意識があった。また、弱々しいながらも一応口も利けた。 麻酔がまだ効いているせいか「かゆくていけないね、」と言っていたが、「絶対かいてはだめ!」と念をおしてきた。 病院には泊まれないということで、その日は帰ることになった。 帰りに親戚と食事をして帰った。毎度のことながら支払いをだれがするかでもめた。 この光景だけはどうしても好きになれない。