十一月日記
十一月二十六日
最近車を買う必要に迫られ、カタログをもらってきたりして見る事の多い私である。
そこでひとつ妙な事に気がついた。
日本車は世界一である。誰が何と言っても世界一なのだ。
ドイツが世界一だと言い張る人が日本には何故か多いが、汎用性などの面でやはり
日本が一番の評価を受けている。中国でも役人への賄賂はベンツか日本車である。
どちらかといえば日本車の3ナンバー(大型セダン)のほうが喜ばれるらしい。
で、あるのに・・・
なんで日本車は英語の名前がついているのだろう。
いや、正確には日本語ではない。最近出たワゴンの「ナディア」はインドの言葉だが、
何にせよ日本語を使った車というものが無い。
現在発売されているもので私の知る限りの唯一のものは、スズキの”kei”だ。
だが、これですら「kei」であって「軽」でも「ケイ」でもない。
なぜだろうか考えて見た。
車とは、メーカー(工場を持った会社の事。この場合はトヨタとかホンダとか)にとって商品である。
商品は売れなくてはしょうがない。売るためには広告が必用だが、商品名は広告の中で
最も重要なものの一つである。名前を日本語にしないのにはそれなりの訳があるはずだ。
一つ私が考えたのは、ローマ字というものは元々が記号であるという事である。
従って、あるパターンが文字の一つ一つの中にはあり、それさえ崩さなければ
多少いじっても問題はない。従って図案化しやすい。
しかし、日本語というものは形そのものに意味がある。微妙な曲線や「ハネ」「ハライ」
など全て、少しでも変な風に変えてしまうと見ても何が書いてあるか解らない。
要するに表音文字と表意文字の違いともいえる。
で、あるとすれば。
ロゴを入れる時にどう考えてもローマ字の方がよく、ローマ字を使って表記するものは
英語や欧米諸国語、あるいはそれに似たものがもっともしっくりする。
また、日本語というものは元来縦書きの言語であって、横に書き始めたのはごく最近の事であり、
まだ日本語が横書きについて充分慣らされていないと言う事もあるだろう。
・・・という事情があるのではないか、と、私は思うのだが・・・。
ところでWEBpageのほとんどがタイトルは英語かローマ字を使っている。
日本語でも下に必ず英語がつけられている。
これなんかも英語の方が図案化し易い事の証明なのではないか、とおもうのだ。
まあ、様々なパターンの図案が生まれる事は良い事である。
十一月二十五日
最近車の話を私はするようになった。
以前は車に乗ろうなんて思っても見なかった。
私は基本的に自転車な人なので、車に乗る人間を敵視していたのだ。
排ガスを撒き散らし、我が物顔で走り回る車が正直言って嫌いだった。
しかし、残念ながら私も車を運転しなければならない。それは生活のために仕方の無い事だ。
せめて自転車に乗っていたあの頃の気持ちを忘れないようにしたい。
そもそも1トンもある車と、ほんの十数キログラムの自転車が同じ道を走ること自体
キケンであるという事を忘れたくない。
以上、ドライバーになるにあたっての初心表明。
十一月二十四日
広告代理店の面接を受けた。
と、言っても「D通」や「H報堂」ではない。地元の中小企業、それも零細の部類に入るであろう
社員20人で10人がクリエイターで、10人が(含社長)営業という、まさに絵に描いたような
「中小」広告会社である。
まあ、私は規模については文句はない。大企業に入るくらいなら中小の方が良いとすら思っている。
また、残業手当が全くつかず、夜中の12時までかかる仕事が頻繁にあるという事だが、
それも別に構わない。また、仕事の内容も今まで学生時代にやってきた事の延長のようなもので、
販売促進のためのイベントの企画と下準備、場合によっては運営、あるいは
新聞等に載せる広告を取ってきたりするだけらしい。価格交渉のノウハウだけ無いので勉強しなければ
いけないだろうが、他は今までの経験を充分に生かす事ができると思う。
しかし、面接はどうもうまくなかった。
採用の担当者相手とは十分話せた。また、感触も良かったように思う。さらに重役に父の友人が
いたため、頭越しに父から力をかけてもらったのでそれも効果があったようだ。
(今までの経験上、中小企業にはこの手に限る)しかし、途中から社長が出てきて
ぶち壊しになった。この社長、人の話を全く聞こうとしない。頭から私が残業に耐えられない、
残業手当てがつかなければ文句を言うだろう、と決めてかかり、散々説教しはじめた。
以前の就職活動はじめたての私なら言われっぱなしにして、反論を控えるのが礼儀だと思っていたが、
それは市役所の面接で懲りた。黙っていて馬鹿学生のレッテルを貼られて落とされて恥をかくより、
ここははっきり言っておいた方が良い。どっちみち黙っていては落ちるのである。
それならば徹底的に言うべきことを言ってやろうと思い、社長がいい気分で説教しているところへ
「それは誤解です!」と、割り込んで、いかに自分が学生の頃イベントの運営などで働いていたかを
話した。まあ、取引先に商談に来ているのなら黙って聞いて再起をはかるのでもよいが、
就職活動は一発勝負である。多少の乱暴はやむを得ないであろう。
それでもこの社長は聞いていなかったが、採用担当者理解してくれたようである。
それにしても、後で父から聞いたのだが今回募集が出たのは、この説教社長に愛想を尽かし社員が
何人かまとめてやめてしまったからであるらしい。
孟子曰く、「人の患い(うれい)は、好んで人の師となるに在り」
(人間の弱点はややもすれば教師面したくなる事である。)
十一月二十二日
ちょっと外出していたので日記の更新が遅れてしまった。
先週の週末は東京方面へ車で出かけて見た。
朝8時に高速に乗って、こちらを出発。途中財布をどこかに仕舞い忘れ、
料金所で行列を作ってしまったり、鍵をつけたままドアをロックして開けられなくなったりと
色々あったが10時過ぎには八王子についた。ところが渋滞に捕まって
、友達とまちあわせでしていた巣鴨に着いたのは1時過ぎ・・・どうなってんだ東京の道は!
さらにそこから横浜まで友人を送って行ったところ、横浜に着いたのは6時過ぎだった。
電車だったらもう往復してお釣の来る時間である。
さらにそこから新宿近くの友人の家へ。近くまで来ても、右折禁止や一方通行にはばまれて
都庁が見えているのに近付けないという間抜けをくり返し、ついたのが夜中の11時半だった。
まあ、楽しかったけど。
朝まで巣鴨のコインシャワーを使って休憩し、都内で朝まで飲んでいた大学の頃の友人を筑波の自宅
まで送る。そのまま昼間で寝かせてもらい、午後は彼の車でドライブ。久しぶりに昔の
朝霞まで行き、感激した。
次の日は関宿(せきじゅく)方面から埼玉北部、群馬高崎、碓氷峠、佐久、小諸、和田峠と
いうルートで帰った。所要やく7時間。高速使わずに甲州街道沿いを行くくらいならこっちの方が
はやそうだ。帰りに話題のセルフスタンドでガソリンを入れる。リッター80円なり。
無茶苦茶やすい。感想としては、車をふいてくれなかったり、色々不満のある人もいるが、
私のような貧乏人にはとても有り難い。ガソリンの入れ方もそれほど難しくはなく、慣れれば
どうということも無いだろう。もっとセルフスタンド増えないかな。
しかし強行日程だった。初日は一日14時間以上運転したが、これは体中が痛くてたまらん。
だが、トラックドライバーはもっと走る訳で、私などまだまだあまい。
十一月十二日
げげっ。一週間も日記かいてなかった・・・
最近は就職活動もほとんど停止中。
両親のわがままに振り回されぎみの毎日。
ほとんどお抱えドライバー状態。だから自分の時間が夜中しか無い。
家の両親は子どもに対して干渉が激しいらしい。
親戚中から注意されてもいっこうに直す気配が無い。
親の過干渉は、子どもの自立が遅れたり、精神的なバランスに
著しい悪影響を与えると言う事だが、私もその気がある。
以前、勝手に親に部屋を掃除されてしまい、非常に嫌な気分になったことがある。
また、手紙はほとんど封を開けて読まれる。
「親なんてそんなもの」と言う人がいるが、そういうのとはちょっと違うと思う。
要するにプードル犬みたいなものだ。
子どもの頃からずっとそう育てられると、自分の存在が何なのか
解らなくなってしまうような気がする。
父が病気でなかったらすぐにでも家を出たいと、時々思うのだが・・・
十一月四日
母、本日付をもって退職。
勤続10年以上で、パートではあるが非常に勤勉で、優れた技術を持った
母を私は尊敬している。母は典型的な戦前世代で、まともな義務教育を受けていないが、
しかし今の高等教育を受けたどんな若手社員よりも働いた。
私のために働いてくれたことに感謝。そして、
会社という社会のために良い仕事を提供した母に最大限の賛辞を送りたい。
十一月一日
昨日は両親を連れて軽井沢に行った。
今まで一人で過ごす時間が多かったのが、一転して最近両親と過ごす時間が多く
なっている。日々に忙殺されて何も考えずに過ごす毎日である。
かつての私はこういう自分自身を、最も嫌っていたのではなかったのか?
今も失われそうになるかつての私が、断末魔の悲鳴を上げている。
日常という流れる泥の川の中から、辛うじて手と顔をだし、何かをつかもうと
しているようでもある。
今日、尾崎豊の特集番組があった。奥さんの独占インタビューだそうだ。
彼が亡くなってから色々な人がそれぞれ勝手な事を言っている。まあ、商売
なのだから、仕方ないだろう。まあ、御遺族の方々は元気で暮らして行って欲しい。
それはそれでいい。
ところで尾崎豊は私にとって特別な存在である。いや、私が聴くミュージシャン
は、全て私にとって特別である。尾崎のほかは、Echoes(辻仁成)、THE BOOM、
などなど、メッセージ性が強かったり、存在そのものが何らかのメッセージと
なっているもの以外は聴かないのだ。そもそも「音楽」自体聴かないから、
よほどのテーマが無ければ聴かない。その「テーマ」とは、「私の存在とは何なのか」
ということである。
そんな中で尾崎豊は取りたてて特別である。彼はしばしば「反体制のシンボル」と
いわれる。有名な「卒業」「15の夜」など、破壊をテーマにしたかのような曲が
多いからであろう。
しかし、私はそう感じていない。彼は「反体制」と言う言葉に何処か空虚さ
を感じ取っているような気が、私にはしてならない。
少しずついろんな意味が分かりかけてるけど
決して授業で教わった事なんかじゃない
口うるさい大人たちのルーズな生活に縛られても
素敵な夢を忘れやしないよ
「17歳の地図より」
授業を否定し、大人たちを「口うるさい」「ルーズな」と罵りながら、
「夢」を求めている彼は、反体制家なのではなく、体制を築くはずの人
だったのではないか、と、思うのだ。だとしたらそれを「反体制」と決め付けられて
彼の苦悩はいかばかりかと思う。まして、家族を持って「家庭」という
体制を築く側に回った彼は、何を考えていたのだろう。
「大人になる」とは、「反体制」であった若者が、「体制」を築く側に回る
事であろう。「反体制」であったころの記憶を留めながら、社会と折り合い
をつけていく人もいれば、すっかり忘れてあっさり社会に溶け込む者もいる。
そしてかつて「学校体制に反体制であるくせに、なにもアクションを起こそうとせず
無責任な批判ばかり繰り返す、一般学生という「体制」に対する反体制」という
ねじれた反体制家であった私は、未だに大人になれないでいる。学校に文句を
付け、自治会役員であった私に埒も無い理屈で食って掛かっていたある男は、
営業マンとなって愛想を振り撒いている。彼は私に言った事を覚えているのだろうか。
思うに、尾崎豊とは自分の成長そのものを赤裸々に語る事によって、
同じ想いをもつ若者の心をつかんで行ったのだろう。しかし、
自分の体制を築く側に回った時、彼はどうしていいのか当惑して
いたのではないかと、私は思っている。
今日の特集番組では、その辺を指摘していた。その辺が新しかったかもしれない。
しかしこの尾崎関係の番組はいつまで続けるんだろう。
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