十二月日記
十二月二十三日
「世紀末の詩」終了。
・・・って別に見ていた訳じゃないが、竹之内豊(←字、あってるのかな?)
が結構お気に入りだったりするのでときどきチェックしていた(やっぱり見てたんじゃんか)。
世の中には色々な役者がいる。けれども多くの役者は、演じる役柄がかわっても
全く同じ調子だったりする。セリフや設定に助けられてどうにかこうにか違うアイデンティティを
出してみたりしているが、見ていて痛々しい。途中何分か何気なく編集で入れ替えておいても
解らないんじゃないか?(爆)
それがどうだ。
竹之内は以前、ピアノ弾きの役で、渋い役柄をやったが、今回は善良な気の弱い青年の役柄を
見事に演じきった。私のようなアホが見ても全然違う人だとわかる。
自分をそこまで演じ分けられるのはすごい。こんな人若手では見たことがない。
・・・いや、案外みんな出来るのにやらないだけなのか?
それとも演出家が優れているだけなのか?
それはそうと、今回は「愛」がテーマだった。
何がいいたかったのだろう。
劇中曰く、「愛は時の流れの中でつくられる」
「肉体は死んでも魂でつながる事ができる」
「愛は風船、二人で膨らませて疲れたら交代、色とりどりで、着陸するところまでおなじ」
・・・・
「愛」についてはいまいち印象に残っていない。
「自分と他人を分けるな」・・・これはわかる。でも、時には分けなきゃ
しがらみに囚われて何も出来んでしょうな。
「憎しみは愛に一番近い感情」
これはなんとなく解るんだけど、どうなんだろ。
この言葉を聞いて思い付いたのは唐突だけど霊長類の進化の過程で、「サル」と「ヒト」を分けた
ミッシングリンクの話。憎しみと愛は根は同じだと思うけど、ミッシングリンクで別れてるんでは?。
だから、近いんだけど、別種のものだと思う。
理由はこうだ。
友人に医者になろうとしている人がいる。本人はどう思っているかは解らないけど、
決して明るい過去を持っている人ではない。そこから立ち上がって医者を目指す自分に
とても誇りを持っている。彼は立派な医者になると思う。もし何かトラブルがあって
多少道をはずれても、それはやはり必然であってそれでも結果的に良い医者になるような気がする。
勝手な想像だが、多分彼は過去の自分を憎んでいた時期があったのではないかと私は思っている。
憎しみは前進への起爆剤だと私は思っている。ちがうかな?
でも今は憎んではいないのでは?過去を否定して(憎んで)立ちあがっていく過程で、
過去を憎むのではなく、今は愛しているんだと思う。
うまく言えないけど愛と憎しみはやっぱり何か性質が違う。
私はまだ憎しみを起爆剤として進む事しか知らない。
憎む事なしにどうやって進のか、いまでも解らない。だから就職できないのだ。
だから、彼がとてもまぶしかったりする。
あ・・・また人物評論やってしまった。
十二月二十日
本日、車のローンを組むために、車を先日購入した中古車屋に足を運ぶ。
この中古車屋は最近各地で増えてきた「大型中古車屋」の一つである。
従来の中古車屋は店舗が少なく、一軒当たり展示のできる台数が限られるため、
どうしても高価なもの(この辺りは100万以上が相場らしい)しか売る事が出来なかった。
一台維持するだけでも金がかかるので、少しでも高い車を置かなければいけないのである。
いくつかの店舗が共同出資して百台以上置く事のできる展示場を設ければ、
多少安い車を置いてもスペースに余裕があるので、問題無いのである。従って、安い車(と、
言っても2、30万はするが)が結構ある。
今後この様な店舗は増えるだろう。
不景気の中で、店舗は大型化するか、小さく専門特化するかの道を強いられているようだ。
私のような貧乏な若い消費者にとっては、より安く、質のよいものが手に入るようになった
事は喜ばしい。しかし、高齢で遠くの店舗まで足を運ぶ事の出来ない消費者にとってみれば、
家の近くの店が大手に吸収されるなり無くなったりすることは、非常に不便であろう。
東京に住んでいた頃は実感できなかったが、田舎では車が無いと生活が成り立たなくなりつつある。
「福祉社会」などというが、「福祉」とは施設をバカバカ建てる事ばかりではない。高齢者や
身体障害者でも普通に買い物に行く事ができ、まともな生活が出来る社会の事である。
すくなくもこの点において言えば、日本の今の資本主義社会が、福祉に逆行しつつある事が言えるだろう。
どこぞやの政党は二言目には「福祉の充実を!」といって政府を批判する。しかしこの資本主義の
体質的欠陥を指摘して大衆批判をしようなどという政党もマスコミも、今の日本には見当たらない。
何でも政府の責任にしてお茶を濁す事ばかり考えているように見えてしょうがない。
無論私が考えているくらいだから、すでに誰かがやっていると思うが、とりあえず
私の両親でも間誤付かないで暮らせる街を作っていかなければならないと思うのだが。
また、取り止めもないが、何でもカタカナにしてしまうこの風潮、何とかならん物か。例えば
先日両親とファミレスに食事に行ったとき気付いたこと。メニューは満面カタカナだらけ。
年寄りには「ローストビーフ」等といってもわからない。「シーザーサラダ」ってなんだ?
私でもわからない。そもそも「グラタン」だってあやしい。こういう事をやっているから、
どうしてもこの手の店から年寄りの足が遠のくのである。年寄りのわからない
事をすべきでない。だいたい我々がこの社会に登場する前、世界の主人は今の年寄りだったのだから。
十二月十七日
音楽の話続編。
1 エレファントカシマシを聞いている。
ボーカルの趣味が「古地図集め」で、文語体で書かれた本を読んでいるらしい。
だから古い語彙を敢えて使ってみるなど日本語の独自性を追求している。
最近は音楽性にこだわって曲の方向性を変えたが、随分昔は無茶な事をやっていた。
「ポリスター」とか「デーデ」とか・・・・。
「デーデ」の歌詞の一部を紹介しよう。
金もち 鳥もち 力もち
もちにもいろいろ あるけれど
金持ち 一番強いのは 誰でもしってるさ
友だちなんかいらないさ 金があればいい!
歌詞の痛烈さもさる事ながら、きちんと韻を踏んでたりする。
「金もち 鳥もち 力もち」に「もち」、「友だち」、と、
「ち」をならべて、「へっ!」と、はき捨てるような感覚を作り出している。
「いい子ちゃん」系の歌が多く、いささか食傷ぎみの昨今、
いいね、エレカシ。
2 kiroroは、珍しい。
我々20代半ばから30代位の聞いていたJ-POPを私は
皮肉を込めて「発情世代」とよんでいる。
我々が中高生だった頃、流行っていたほとんどの歌の言いたいことは、
全く同じ「愛は素晴らしい」とか「君を愛している」である。たまには良いけれど、そればっかり歌っていて
そもそも、歌っていて恥ずかしくないのかな?まあ、日本人がおおらかに人前で愛を語れるようになったの
は、これら音楽に負うところは大きいので「悪い」とはいわない。また、「愛」と付けるかどうかで歌の
売れ行きも全然違うそうである。
だが、新しい歌が出てくると「またか」という思いがしていた。
ところが小室哲也が「ともだち」と言うものに切り込んで、照れや力まない「友情」を
歌にしはじめていた。しかし、私にはどうも照れくさかった。
ところがkiroroである。何と「親」がテーマ。しかも歌詞はとても
シンプルで、力みも全く感じさせず、聞いていて恥ずかしさが無い。
今、日本の家族が機能不全に陥っていって混乱する社会において、親子の「絆」を
正面から歌うのは「すごい」の一言に尽きる。
沖縄おそるべし。
十二月十六日
とうとう車を購入。
平成3年式エスクードの3ドアタイプだ。
私を担当した営業マンは50すぎた「営業部長」だった。さすが手ダレの営業マンであった。
やられたかな、という思いがのこっている。
価格は75万でスタッドレスタイヤ付き。
しかし、7万キロ走っている。車検は一年。
妥当だったのだろうか?う〜む。
整備費20万でカローラレビンをもらうと言う話もあったのだが、
FFで二駆というのがいまいち長野では不安が残り、見送ってしまったが、
最初なんだからそれでもよかったのではないだろうか?
他に友人にブルーバードのSSSを勧められた。しかし探してもなかなか無い。
で、気がついたのだが長野県ではRVが人気である事。
4駆でもセダンが不人気であること。
考えてみればそれも道理で、長野県の道は整備が進んでいないため
セダンでは車高に不安が残るのだ。
特にクーペタイプでは腹を擦ってしまいそうなところが
日常至るところにある。また、山の間の盆地に生活圏があるため、必然的に道が狭い。
観光用の道はとても広くできているので県外の人は解らないかもしれないが、
長野はとても車が走りにくいのである。東京と比べると信号も整備されていないので、
キケンが多い。
そして長野名物の「アイスバーン」と「大雪」である。
小型のRVが受ける理由が良く解る。
公用車でジムニーが使われているのなんか、東京では想像もつかないだろう(除く多摩。あそこは
東京ではない・・失礼!)。
十二月十五日
長野市にて団体職員面接。中小事業者のための組合職員である。
今回はなんと大成功であった。
いつも面接官と話が噛み合わない私はひたすら不採用になっていた。
例えば公務員試験の面接で、「まあ、こんな時代だから公務員は安定してますからいいですよね」などと
面接官に言われて「おのれ愚弄するか!」と心中キレて、残りの発言がとげとげしくなってしまうとか。
それが今回は良い方向に働いた。
他のライバルが明らかに私の言葉に気おされているのが手に取るようにわかった。
それどころか、面接官の理事や重役たちが聞き入ってるのもわかった。
自画自賛みたいだが、客観的に言っても
自信を持ってこのくらいは言える。
例えばその中の一つ
「あなたにとって公共性とはなんですか」という質問に対して
「私にとって「公共」とはまず「地域」というものが前提にあります。大学の専門に地域社会学を
選んだのもその一つの現れです。そして、公務員を受けていた頃も、地方公務員
しかも町役場や市役所が第一志望であって、国家公務員のキャリアや県上級職などはその志望順位
で下でした。そして、いくつもの町や市を回っているうちに何をやるにも金がかかり、
金が無ければ何にも出来ないのに今、その金が何処の自治体も無いということが良く解りました。
今、地域社会の再編が叫ばれていますが、何を置いても財政収入の回復が急務です。
そのためには地元に密着している中小企業の復興が何よりも大切だとおもいます。」
まず声に力があった事。
そして自分に引き付けたかたちで、等身大感覚で「地域」の重要性を説くことができた事。
所々に見え隠れする専門知識(例えば財政に関して)が、血肉に染み込んだ形で出てきている事。
「公共性」にも色々ある事を正確に認識した上でその中で「中小企業」という切り口を見せている点。
完璧でしょう。私にはこれ以上できないし、その必要も無いだろう。
これで落ちたら、文句はない。その団体に私が合わなかっただけの事だ。
十二月十四日
昨日は広告代理店へ行ってきた。
給料の話があったが、一応半能力給制。
13万ちょっとが基本給。45歳まで昇給する。
それに能力給がつく。で、だいたい19万ちょっと。
しかし、この給料を維持するためには年間2000万の
契約を取ってこなければいけない。2000万なんてこの田舎で
何処に出してくれる会社があるんだろう。案外あるものなのだろうか?
ううむ、謎である。
それから、勤務条件であるが、「残業手当はなし」である。
しかし、2000万の契約を取ってそれを一人で実行に移すとなると
とても忙しい。残業は当たり前である。それどころか
休暇など取ってはいられない。まあ、この辺は個人的に全く平気である。
そもそも今まで学生時代は、似たような事(イベントなど)をただ働きでやってきた。
学生組織でイベントをやるとなると、金が無いので暇が無くなる。
自動的に24時間体制になる。それをきついと思った事は少しも無いので
私個人は別に良い。
ただ・・・
私は両親と共に暮らすために田舎に帰ってきた。
家族と共に暮らす事が「社会のため」でもあるという、私的正義でもある。
この体制で働くと何のために帰ってきたかわからない。
正直言って本当に悩んでいる。
実はもう一つ団体職員受けるつもりである。
これは基本的に9時5時である。もちろん私の事なので
9時5時で働くつもりなどない。自分が必用と思ったら、休日など手当て無しで
何のためらいも無く潰すだろう。
しかし、確実に週一回は休みたければ休める。
もし、父の病気が再発したら、あるいは母の体の調子が悪化したら、
やはり休みは有り難い。
だが、私の広告への想いは決して小さなモノではない。
このまま学生の頃の疲れを理由として楽隠居のように一生を終えるつもりは
毛頭無いのだ。
十二月十三日
今日は音楽のはなし。
私は音楽を「聴かない」人間である。
音楽を「読む」人間である。
だから歌詞がくだらないと即ハネる。
この判断基準で音楽を選ぶと、ほとんどの「歌手」が
外れてしまう。具体的に名前を挙げると友達を無くすので控えるが・・・
演出の方法も何処かの誰かのコピーみたいなものが多い。
そもそも最近は「歌手」と言う事がなくなってしまった。
楽器をやったりするからそうなのかもしれないが
他にビジュアル(日本語にすると「見てくれ」とか「見かけ」になるような気がするけど)
に凝らないと売れないと言う話もある。
まあ、人のこのみは十人十色なので、別に好きにすればいいが、
10年位音楽を聴き続けると、流行のからくりに気付いてしまうので
聴く気がしなくなるのだ。
そんな中で注目している「歌手」を独断と偏見で挙げよう。
その1「ゆず」
日本語を大事にしている。昔、吉田拓郎がそれまでの型にはまった
歌謡曲の概念をぶち壊して、字余りぎみでの歌詞に曲をつけて歌って、
大きな支持を受けたが、その歌の構造に似ているような気がする。
しかし、「ゆず」はその手法を取りながらも自分の方へきちんと引き付けて
歌っている。
さらに、日本語を大事にしている点は評価できるな。
すぐに英語を取り入れて語彙の貧弱さをカバーしようとしがちな
最近の歌の中に有って際立って優れていると思う。
それに自分の出身地を歌にしてしまう辺り、現代日本社会の流れの中で
音楽がどういう地位を占めているのか、良く考えているような気がする。
あるいは彼らの直感か?だとしたらもっとすごい。自分の直感を歌にできる人はそういない。
その2
「Mr.Children」
私が初めて聴いたのは上海の現地放送局の音楽番組でである。
正直言って当初は日本人留学生の間ではあまり受けは良くなかった。
歌い方が「サザンと何が違うんだ?」と言う辺りがマイナス評価の要因であった。
なにぶん、留学先は日本のテレビやメディアの影響から完全に隔離されているので、
曲調や歌詞、ボーカルの声などで聞き分けるしかない。だからその分、
音楽だけを聴く、公正な見方だと思う。
しかし、最近のミスチルは明らかに力を付けてきたと思う。
ボーカルの桜井さんもだんだん独自の歌い方が出てきた。
それにそもそも歌詞は元から良かった。
全てが相対化される停滞した日本の大衆化社会に対して
取りようによってはかなり攻撃的ともとれる歌詞も多い。
例えば今テレビでしばしば流れてる「終わりなき旅」だが
もし本当に「閉ざされたドア」を「ノック」などしたら、
一般大衆の皆さんの中で生きていく事は出来ないだろう。
でも考えてみれば、ミスチルの言ってる事はとてもまともだ。
まともすぎる位だ。
どうしてそれなのに今の社会の中で聞くと、「攻撃的」になってしまうんだろう。
その他いくつかあるけど、それはまたの機会に。
十二月十一日
何と広告代理店から内定が出た。
出るとは全く思ってなかっただけにとても驚いた。
明日来社して欲しいとの事。
しかし・・・
本当に「営業」で良いのだろうか?
「広告」は良いかもしれない。
しかし、私のように好き嫌いの多すぎる
人間が他人とうまくやっていくことは困難を伴う。
もともと折衝ゴトは昔から苦手だった。
引き際は一応心得ているが、知らない人と話を合わせるのは苦手であるし、
私の脳みその中身は、世の中のほとんどの人とは話が合わないようになっている。
少し考えた方が良さそうだ。
十二月九日
昨日は開戦記念日。
真珠湾を木っ端微塵にした近代日本人の栄光の日である。
もちろん栄光には陰がつきまとう。それはそれとして、
やはり戦った兵士達には敬意を表すべきである。
あまり政治的な事は書きたくないが、それにしても戦前も戦後も
変わらず日本の一般大衆の中にあるの空気は、「現場軽視」であろう。
「政治的にはともかく、兵士は立派だったとおもう。」
こんな事を言っただけで「軍国主義者」の烙印を押される。
臭いものには蓋をして、自分は優等生になりたいらしい。
現代の現実逃避的戦後オヤジ達に一つ言っておくことがある。
平和主義結構。平和は素晴らしい。それはその通り。何の異議も無い。
何せ、今戦争が起きたら駆り出されるのは私たち若者である。
だが、何の装備も持たせずに、われわれ若者を最前線に送り込むつもりなのだろうか?
おや?何処かできいた事のある話だな。
たしかそういうのを「特攻隊」と言うのではないだろうか?
ん〜、先の戦争で死んだ若者たちは軍部の無能によって「殺された」と言える。
その頃の体質と今の日本は何にも変わってないような気がする。
おいおい、勘弁してくれよ。
まあ、今のところ戦争ないから当分蓋したままで良いけどね。
十二月八日
車の使用時間を巡って父とトラブルが多くなってきた。
どうやらそろそろ私は車を買わなくてはいけないらしい。
といっても仕事が無いので金が無い。一時はスズキの「ジムニー」という軽自動車のくせに
オフロードが得意なマニアックな車を新車で買おうと思っていたが、これが140万もする
ことが判明し、断念。
しかし、私の住むこの辺りは雪が多く、坂も多いので4WDは必需品。
しょうがないので、中古車を色々検討する事にした。
車のカタログや雑誌で色々調べている今日このごろだが、車について思うことがある。
なんで車の装備や部品はほとんどカタカナなのだろう。
以下、カタログの上から順に列記してみよう。
ウッドシフトノブ、メーターパネル、アームレスト、ステアリングホイールカバー、
マルチメーター、オートクロック、プチポケット、アッシュトレイライト、
フロントピラースポットライト、アラームシステム、インパネボックス、
イグニッションキーライト、ブライトリボン、ルーフレール、ルーフエンドスポイラー、
ヘッドランプガーニッシュ、、、(以下略)
はっきりいって何だかよく解らない。
日本車なんだから変な英語もどき使わないで日本語使えばいいのに。
例えば「プチポシェット」なんてただの「小物入れる穴」だ。
「アッシュトレイライト」は「灰皿照明」。
「オートクロック」なんか「ただの時計」だろうが。
まるで成り金オヤジの趣味みたいだ。
なんでもカタカナにする癖を直して欲しいものだ。
十二月六日
友人結婚式。(このページからリンクが貼ってあるので、行って見ましょう。)
「式」といっても友人だけのパーティーで、披露宴は既にやったらしい。
大学時代の合唱部のみなさんが大勢やってきて、歌を歌ったり、備後、でなくて、ビンゴゲームやったり
お約束の二人の暴露ばなしや、お二人の秘密のシーン(謎)が公開されるなど、にぎやかなひとときで
あった。その上私は泊まるところを準備していかなかったので、新居に泊めてもらって、二人の新婚生活
をフルコースで堪能してしまった。
まあ、幸せに暮らすのだな。
喧嘩して抜きさしならない状態に陥ったりしたら私に相談しなさい。
仲直りさせてあげるから。
十二月三日
最近思った事がある。
しばしば女性が
「男は女に幻想持ち過ぎ!」
と、言っているのを耳にする。
しかし私は言いたい。
「幻想でも持たなければまともに見られないだろう?」
・・・・!
あ、いたい、物を投げないでください!(ごん)
冗談はともかく(汗)。
そもそも素のままで好きになる事などあり得ない。
素のままだったら人間はただの肉の固まりである。
なにかそれに付加価値がつくから、他の女性と区別できるのでしょうが。
「頭が良い」とか「活発だ」とか「明るい」とか。基本だけれども「やさしい」とか「思慮深い」とか。
今風に「仕事ができる」とか。はたまた古典的だが「料理がうまい」とか。
また、言葉づかいや、しぐさ、物腰も「付加価値」であろう。
昔、嫁入り前の女性が華道や礼法を学んだのはそういう意味もあるのだろう。
逆に言えば何の努力もせずに「いい女」であることはあり得ない。
だいたい、30過ぎれば女性は外見にや若さ頼った魅力を維持する事はできないではないか。
十代や二十代のうちに何をやったかが勝負になってくるのだろうな。
まあ、どうでもよいが。
それはそうとそんな偉そうな事を言っている私はどうなのかといえば。。。
聞かないでください(涙)
それはそうと
外は雪が降っている。本格的な雪は今シーズン初めてである。
十二月二日
今朝は就職関連で社長面接であった。どうでもいいが初対面の相手にこの社長は
説教をよくぶつのだろうか。しかも人物批評・・・
私の悪い癖に人物批評がある。この癖のせいで就職の話を何度もふいにしている。
そういう訳で、と言う訳ではないが、私はこの自分の癖を非常に嫌悪し、気をつけている。
私は「お世辞」を全く言わない人間なので、色々な誤解をまねくのだ。
だれだって自分の評判が悪ければ嫌だろうし、お世辞を言われて良い気分になるのは
特殊な状況下だけである。
そんな事を考えている私に向かってこの社長、よくもまあ、ぬけぬけと・・・
しかも私の父の悪口まで平然と言っていた。
ここは刀で切り捨てるのが忠孝の道かと思ったが(笑)、就職する方が「忠孝」であるかと思い(爆)、
適当に話を合わせておいた。
しかし・・・
父の名誉のために一言いいたい。
この会社、先代の社長の頃、私の父が帳簿の付け方、資金調達の仕方、税金対策などなど
様々なノウハウを教えてやったから、今生きているのである。
さもなければ今ごろ山ほど借金を抱えて親子ともども首を釣っているだろう。
まあ、今の社長はそれを知らないから、仕方ないが。
ここで狭い街で暮らしていくための教訓その一。
みだりに人の悪口を言うと、どこでつながっているかわから無い。
教訓その二。
特に人物批評は地雷を踏む確率がものすごく高い。
教訓その三。
面接する時は、相手がどういう人間か十分知っておくべきである。
せめて履歴書ぐらいあらかじめ読んでおくべし。
と、まあ、それとは別に、面接の首尾はどうだったかといえば・・・
駄目だったと思う。とほほ。
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