千九百九十九年一月日記




一月十七日

今日は阪神淡路大震災のあった日だそうである。
「そうである」というのには訳がある。
私はこの日、中国にいたため自身が起きた事を知らなかったのだ。
二週間ほどして学校が終わり旅に出た私は、香港において「Newsweek」を
購入、表紙の写真をチェチェンの戦場かと思い、相部屋になっていた
イギリス人の旅行者に「いや〜、チェチェンはすごいことになってるな、
それにしてもなんだ?この”コベ”というのは。地名か?」と聞いたところ
唖然とされたという経験がある。発展途上国に留学すると、こんなことも起きる。

ただ、一つ良かったのは地震直後のマスコミの馬鹿騒ぎから、完全に自由でいられたことである。
従って私の頭の中には冷静な情報しか残っていない。極めて第三者的にモノを見ることができた。
しかしそれでも深い怒りはぬぐいきれない。
あれだけの大災害に対していったい日本人は何をしていたのか。
こんなくらいなら旅行なんか放り投げてすぐにでも救援に駆けつければよかった。
普段威張り腐っていた「大人」達の馬鹿さ加減と無力さを露呈している。

1 マスコミは連日テレビで阪神大震災ショーを流し続け、
被災地の上をヘリで爆音を轟かせて救出活動を妨害した。
「しかしあの報道があったから復興に力が入ったのである」
という言葉を吐いたどこかのニュースキャスターがいたが、そんなものは
オウムの上祐とおなじ言い草である。復興に力を入れるためには外にもいくらでも
方法があったはずである。今後地震が起きた時にはマスコミのヘリを実力排除できる
法律を作るべきである。また、当時のメディア側の責任者を処分すべきであろう。

2 当時の村山首相は「現行法の範囲内で」という愚劣極まる発言をくり返し、
被害者を見殺しにした、これはいくら言いつくろってもだめだ。首相は政治家であって
官僚ではない。法律を守るのが仕事では無いのだ。ハイジャックの人質解放のためには
「超法規的措置」なんてものを取るくせに、地震の時はなぜ取らないのか。
法律の不備を補うために政治家がいるのだ。何のための三権分立なのか。
そんな程度のこともわからないのは頭がいい、わるいの問題ではない。
いったい頭があるのかと問いたい。
無作為によって民衆に被害を与えた時は、行政法の範囲内で処分できるはずである。
なぜ処分が無いのか。それに、刑事責任がなぜ問われないのだろう?


3 その後、様々な地震など災害対策が各自治体で取られた、と言われている。
そもそもなんでそれしきのことがいままでされていなかったのか、それも大いに疑問だが、
しかし、私は公務員試験を受けるときに少し調べたがたいしたことはなされていない。
あるいは形だけで、小学生が見ても機能しないことが明らかな「対策」が非常に多い。
 私の住んでいる近隣の自治体で、民間のアマチュア無線クラブに協力を仰ぐことができる
制度が去年できたそうである。さも素晴らしいことのように報道されていたが、
私は根本的に問いたい。何で今までそんな事もしていなかったのだ?

この分だと、北朝鮮にミサイルを打ち込まれて大阪あたりが壊滅したとしたら、
「今後の措置は充分検討してから講ずる」なんてことを言い出しかねない。
そもそも、北朝鮮や周辺諸国と交戦状態になった時に、
自衛隊ってちゃんと動くんのかいな?
会議をやっている間に日本は滅亡する様な気がする。
・・・要するに私の言いたいことはこうだ。

オレに指揮を取らせろ(爆)

それにしても学生ボランティアはよくやったな。
「最近の学生は〜」などと言って震災直後も安楽椅子に座っていた
老けたラクダの様な「大人」達はすこしは考えを改めた方がよいだろう。


一月十六日

センター試験をやっているらしい。
考えてみれば、競争率が随分低くなっている。
今の高校生は学校さえ選ばなければ短大だったら誰でも行けるそうである。
大学も二人に一人が行けるそうである。
「最近の高校生はラクだ」なんて言うつもりはない。
思ってもいない。どんな状況になってもやはり受験はつらいものである。
受験生には風邪を引かないで、全力を出し切って欲しいと切に願う。


一月十五日

眼鏡が壊れる。
柄の部分がぽっきりと折れてしまった。
いつも思うのだが、なんで眼鏡や服などはファッション性を重視したものばかり
出回っているのだろう?
もう少し丈夫なものはないのだろうか?
誰かつくってくれ。


一月七日

「あの空のむこうに
なにかがある」って
したり顔の流行歌は言う。

「嫌なことがあったらそのあとは
きっと幸せになれる」だなんて
人は言う。

そうして
どこかに真実の自分の姿があるのではないかと、
現実の現象の海をさまよう。

今あるこの時を切り開くことしか
人にはできないのに。
一月十日

地域振興券の事が話題になっている。
もちろん話題の中心は「なぜ私たちはもらえないのか」である。
こういう人たちは、福祉政策や不景気対策に反対する人たちである、と断定してやれ(爆)。


一月九日

何かが足りないと思うこと、
それは本当に何かが足りないのか、
それとも自分の欲のためか。


一月六日

流行歌のこと。
「あの空の向こうに」とか「虹を越えて」とか「空を越えて」とか
「〜を越えて」と言う歌詞がとても多い。そして、その後は、
「あなたと二人で」とかなんとかつなげるのがパターンである。
一種の現実逃避だろう。社会情勢がそれほどまでに厳しいことを表わしているのだろう。
これは一種のアレルギーだと思う。
不景気だなあ。
こういう詩のことを今後、「不景気アレルギー歌」と呼称することにする(笑)。


一月四日

宗教のこと。
自らを犠牲にすることを考えない宗教はエセだと思う。


一月三日

新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

早速だが、最近いい事が多い。
今日は母校が箱根駅伝でシード権を激闘の末、早稲田からもぎ取った。
アンカーの最後の走りには目頭が熱くなるものがあった。

それで少し思ったのだが、最近「自分のために」、「楽しんで」戦うというスポーツ選手が多い。
確かにスポーツはリラックスできるかどうかが重要な位置を占めているため、
その考え方は間違ってはいないのだろう。また、私はスポーツに関しては
ずぶの素人なので、あまり偉そうな事は言えない。
ただ、「今までがんばってくれたチームメイトのために」力走する
駅伝の選手の姿には感動させられる。

「自分のために走る」というのはたしかに大切な考え方だ。
しかし、やはり人の心をより強く動かすのは、誰かのために走ることであるとおもう。
今回の駅伝はその事を改めて教えてくれた。


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