出港の日




出発はあわただしかった。
留学を正式に決めたのが12月半ばをすぎた頃。東京の街がクリスマスに浮かれ、
あっちこっちで若い男女のつがいが街を我が物顔で闊歩する年末の日に、
代理店を通してまだ空きのある中国の大学を探して、
入学申請とビザの申請と、保険などの手続きをし、大学の休学手続きをし、
留学のためのスーツケースや必要と思われるものを買い集め、
東京を駆け回った。華やかな街の雰囲気に脇目も振らず面倒な事務手続きを
続ける私はシュールである。シュール以外の何モノでもない(笑)。
2月は部屋を当時住んでいた朝霞のぼろ部屋を引き払った。
ちなみにこの部屋についてはいずれ書こう。ぼろさといったら天下一品で、
ガスの検針票に昭和50年なんてのがあった。
もちろん留学から帰ってきたら、建物が取り壊されていた。

大学は大きくて都市部にある大学を選んだ。
大きい大学には日本人が多くて、日本人同士でつるんでしまって留学にならないよ、 と大学の中国語の先生に助言を受けたが、もとより遊びに行くつもりなど無いので そういう問題はない。私は私を探し、何かを手に入れるためにに行くのだから。

そのためには小さな大学で個人に干渉が強いところではだめだ。
上海の復旦大学を選んだ。

2月23日までに着くように、という知らせが向こうの大学側から届いた。 余裕があるようなので、17日大阪南港出港の船で行く事にした。中国までは当時、週に一回神戸港と 大阪南港、横浜港から上海、天津への定期航路があった。(今は増設されて博多から 青島までの航路も出来ている98年秋現在)定番は鑑真号で、新型の蘇州号が 運行していた。横浜からだと3泊4日、大阪神戸からだと2泊3日かかる。

何故船にしたのか。理由は一つである。高いところがコワイからだ・・・と言うのは嘘で、 飛行機では距離を感じることが出来ないからである。飛行機で中国まで2時間、 これでは、ここでない何処かへ来たという気がしないような気がしたのだ。 以前中国に行った時も天津まで船だった。

ところがハプニング発生。2月15日までゼミの合宿になってしまった。 16日は大阪で一泊する予定なので大変にマズイ。
私がゼミ長なので権力を持って日程を替えさせてしまえば良かったのだが、 そういう事はしない主義なので結局強行日程で行くことにした。 ゼミ合宿といっても形ばかりのもので、酒を飲んでゼミ員が騒ぐだけである。 それでも一応形だけは研究発表の様なものがあるが、ほとんどのゼミ員は聞いていない。 また、発表もおそろしくいい加減なものである。
といってもゼミ長の私は後片付けをするだけなので、私は後片付けをするために強行日程 を組まなくてはいけなかったのである(笑)。

15日の晩、慌てて実家に帰ってきて、必要と思しき物を買っておいたスーツケースに つめ込んでみると、重さが優に50キロを越えていた。なにしろ、中国では どの程度の生活物資が手に入るかわからないのだ。それに言葉が出来ないなら 十分に買い物も出来ないのではないか。そう思ってとりあえず生活に必用なもの 全部を持って行こうとしたのだ。

16日の朝、大阪行きの電車に乗る。両親が乗換駅の塩尻まで見送りに来た。
・・・というか、一人では荷物が持てなかったのである。
中国までちゃんとたどり着けるんだろうか・・・・・。
一抹の不安を残しつつ(「一抹」ではなく、「大きな」の間違いではないか?)電車は真冬の木曽路を大阪に向かってはしる。