留学のワケ



  何故留学を考えたのか。それは・・・
わかりません。以上。
・・・・・・。
・・・・・・・・・・・。
(・・・・それではみもふたもないってば。)
(何か書かないと読者があきれて二度と読んでくれなくなるぞ>私。)
 しかし、人が何かする時にいちいち動機が無いのは知っての通りである。
もしあるとすれば、私が今まで生きてきた中で経験した様々な事象が、私を留学へ追いやった
と言えるだろう。最近就職活動で面接に行くと「何で留学したんですか」と聞かれる。
本気でこれに答えるとすれば私の人生すべて語らねばならない。

というわけで、

一、女の子にたぶらかされて留学を決意した次第

大学2年生の秋のことだった。相変わらずいつもの部屋で、いつもの生活を私は送っていた。
ゼミのゼミ長として大学に入ってからずっとゼミ生の面倒を見てきた。しかし、未だ何かに打ち込める モノも見つからず、退屈な毎日に飽き飽きしていた。と、いうよりも焦りすら感じている毎日だった。
このまま何もせず大学生活が終わるのか?この調子だとまた元どおりの何の刺激も変化も 無い毎日が待っている・・・

子どもの頃から冒険に憧れていた。小学校の頃の愛読書は堀江謙一の「太平洋一人ぼっち」、 植村直己などの冒険家にあこがれていた。中学に入っても 図書館にあった冒険小説はほとんど読み尽くした。その一方で、家の裏を上流までさかのぼって行ったり、 山を一人で歩いた。このHPの名前にある「熊野の杜」はそのころ歩いた山の名前〜といっても私が つけた名前だが〜である。
 しかし、その後受験に追われてしばらくはその事を忘れてしまっていた。しかしそれでも心の中の どこかにその頃の「想い」みたいなものが残っていたのだと思う。高校に入って「ここではない どこかへ行きたい」という想いに形を変えて再びそれは姿を現した。
学校をサボって自転車で遠出をするようになった。高校を卒業して 大学に入っても自転車でわりあい長距離走ったのはそのためであろう。

では何故「ここではないどこか」へ行きたいのか?
それはどこかに本当の自分がいるような気がしていたからである。
「本当の自分」って何だ?
古代ゲルマン民族の首領ではないが、自分はどこから来てどこへ行くのか。
そういう想いにこのころはとらわれていた。

丁度その頃留学生の友人ができた。中国から来た留学生と、マレーシアの華人 である。「華人」とは、華僑としばしば混同されるが、海外で永住する 中国人のことである。それに対して「華僑」はまだ帰国の意志を捨ててはおらず、 「出稼ぎ」のような色合いの強い生活をする者のことを言う。  彼女は言葉が沢山出来た。日本語、英語、マレー語(余りうまくないそうだけど) 潮州語(中国南方の言葉、いずれ解説する)、北京語(いわゆる中国語)などなど。。。 それら言語を自在に操り、様々な国から来ている留学生と会話する姿は、とても眩しく見えた。 そこに、私の知らない、そして求める「何か」があるような気がしたのだ。
言語や文化習俗を越えて、自由に行き来する「華僑」とは、一体どんなものだろう。 大学の2年の時、中国行きの学内ツアーに参加したこともあり、中華文化圏への 憧れに似た気持ちは高まって行った。いや、正確には彼女への憧れか(笑)? まあ、どっちでもいいことだが(爆)。

丁度その頃秋の西日の強いある日、授業の後、彼女との間にこんな会話が交わされた。
彼女「いいね、日本は。四季があって。」
私「そうかな?冬寒くていやだよ。」
彼女「マレーシアはずっと夏だし、いつも景色が変わらないよ。つまんない」
私「・・・」
彼女「日本はいいよ、私大好き。何でもあるし、きれいだよホント」
私「そうかな・・・俺は日本嫌いなんだ・・・」
彼女「ええ?どうして?」
私「何となく閉塞してるし、日本人ってやなとこいっぱいあるじゃない・・・例えば、」
彼女「そうかもしれないけど、そういう問題じゃないのよ。」

武蔵野の夕陽が二人だけの教室に差し込む。
私は二人の間に、溝があるのに気が付いた。

多分彼女はマレーシアで閉塞感を覚えて、国を飛び出した。
そして日本にやってきた。そこで何かを感じ取り、手に入れた。
私は日本に閉塞を感じている。私も日本を出てみれば
何か感じることができるんだろうか?

私も、「ここではないどこか」へ行って見よう、そしてそこはきっと
「中国」であるに違いない。何となくそう思った。

その後、彼女とは数回に渡って手紙の往来があったが
彼女の帰国後疎遠になり、会っていない。
いまどこで何をしているのだろう。