「ただいま! ね、とうさん。オトノムよ!」
カブリオルが、扉を開けるなりせきこんで言いました。
「はじめまして。」
ひとりの少年が、おずおずとあいさつしました。 |
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「ありゃりゃ? どっかで見た顔だな?」
フーガが目をしばたたかせました。
「わかった。あの絵よ!」
カノンが、ピン、とおひげでカデシさんのいま仕上がったばかりのカンバスをさしてさけびました。
「ほんとだ、ほんとだ。どおりで、さいきん見たばっかりだとおもった。」
そう言って、カノンとフーガは息をはずませ、床のうえを跳ねまわりました。
「その下の坂道で、ひろったの。なんたって、地べたにうっぷして、すやすや寝ていたのよ! おどろいちゃったわ。」
カブリオルはまくしたてます。
「で、よくよくみたら、顔見知りじゃない! あわてて起こして、つれて来たの。」 「ちょうどぼく、アトリエをさがしていたんです。ききづてに……ちょっと、立ちよろうとおもって。それで聞いたら、それは自分の家だって、彼女がいうので……ぼくもおどろいて。」
オトノムは、ゆっくりと、自分の言葉をたしかめるような、もどかしげな口調で言いました。
「そう! ふたりは、知り合いだったのかい。それはなんとした偶然だろうね。」
カデシさんも、オトノムと握手しながら、じつにふしぎそうに、言いました。
「孤児院のとき、同級生でした。」
「このひと、あたしがサーカス一座に入団していくとき、アネモネの花を一輪、くれたのよ。あたしが、この花みたいにまっ赤に踊れるように、って。」
カブリオルが、とくいげにスカートのすそをもったまま、くるりとひとつ回りました。
「だけどそのあと、自分も孤児院を出てしまったんですって! しばらく、ふらふらしていたそうよ。」
それからオトノムは、自分がガラス工場や、織物工場、駅のプラットホームなどを転々として働いたこと、それでもおこづかいに困ったり、仲間にお金をすられたりすると、大道芸などもしてしのいだことを、カデシさんに話しました。
「それは心ぼそかったろうね。さあ、どうぞ。お茶でもさしあげよう。せっかくの訪問者で、しかもカブリオルのお友達ときたら、歓迎しないわけにはいかないよ。さあ、えんりょなく……。」
カデシさんは言いながら、カンバスのうしろにまわると、古めかしい木づくりの戸棚から、ちいさなカップとココアの缶をとり出しました。そして自分のこしかけていた椅子に、かぼそい、すすにまみれたその少年をすわらせました。
「これでものんで、すこし栄養をつけなさい。」
「ビスケットと、ナッツ入りクッキーがあるわ。」
カブリオルも、自分の大好物を、棚の下からどっさり取り出しました。とたんに、フーガが目をかがやかせ、モモ色の舌をペロリと出しました。カノンはというと、その間にも、少年の顔の、みるみるうちにかがやきはじめたのを、見落としはしませんでした。
「あのう……。これは?」
オトノムはカンバスのまえの椅子にこしかけながら、そっとたづねました。
「似ているかい? きみに。」
「うん……。たぶん、とても。ぼく、自分の顔を、もうずいぶん長いあいだ見ていないので、よくわからないけど、そう思います。」
「そっくりだよ! へちまがふたっつ。」
「うりふたつでしょ、フーガ。」
カブリオルが、カノンのながいしっぽを使って、フーガのおしりをぶちました。
「あたしもいま見て、びっくりしているわ!」
カノンも、マスカット色の目をくりくりさせて、ため息まじりにそうつぶやきました。カデシさんが、湯気いっぱいのココアを、オトノムとカブリオルに入れています。
「とうさんと、このアトリエには、ときどきこうしたふしぎな事がおこるのよ。さあ、あんたもめしあがれ!」
カブリオルはクッキーをかじりながら、クッキーとビスケットをどっさりのせたお皿を、オトノムのまえにさし出しました。
「めしあがる! めしあがる!」
フーガがおひげをふるわせながら、オトノムの足に顔をすりつけ、おねだりしました。
オトノムはクッキーをふたつにわって、フーガに半分やりました。
「いつかは、こうだったの。」
カノンにもクッキーをわけてやりながら、カブリオルは話をくりだしました。
「あたしがこの家へ来た日のことよ。自分でもわからない、ふしぎなちからに引かれて、えかきのカデシさんのあとについて行ったの。大道芸のとちゅう、サーカス一座を脱け出して。そしてこのアトリエに着いたとき、だれの絵があたしを迎えたとおもう? あたしよ。まっ赤な衣装をつけたあたしそっくりの踊り子が、目の前でくるくる回ってあたしを歓迎してくれたわ。……カデシさん、……つまりとうさんが言うには、それまでこの踊り子は、いまにも窒息しそうなガラスの瓶に閉じ込められ、われをわすれて踊りくるっていたそうよ? それまでの、一座を脱け出したくてしかたなかったあたしそっくりに。で、とうさんがあたしをみつけて連れてきてくれた日には、踊り子はもう、瓶のコルク栓をはずして外へ飛び出していたわ。それがこの絵よ! 」
カブリオルは、小走りにアトリエのすみにかけ寄って
行くと、幌布の幕でおおわれた、ある絵のまえで立ちどまりました。
そして、さっと幕を上げてみせました。
「ほう…。」
みんなの口からため息がもれました。
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「そんな絵、あったの。ちっとも知らなかった!」
カノンがちょっとせめるように、さけびました。
「知らなかった!」
フーガもわめきました。
「生きうつしだね。」
と、オトノム。
「あたしだって、鏡を見てるんじゃないかと思ったものだわ。」
「だけど、なぜその絵だけ、かくしてあるんだろう?」
「ああ、……カブリオルがね、どうしてもそうしておいてくれって言うんだよ。」
カデシさんが、ちょっぴり気はずかしそうに、肩をそびやかして言いました。
「とっておきの、宝物だもの! だれかに見られて、買われたらいやだわ! それに、もしそんなことになれば、この家から、あたしじしんが連れ出されそうな気になるわ。あたしもう、どこへも行きたくないもの。」
「なんだかその気持、わかるよ。」
オトノムも、ふと目のまえの自画像のほうを向きなおると、独りごと
みたいにそうつぶやきました。
「そうそう。それからね、鏡みたいなのといえば……」
カブリオルは、つぎにアトリエの反対側のすみにかけ寄ると、オトノム
のほうを振り向きながら、こうさけびました。 |
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「ほら、これを見て! この、ふわふわしたまっ白い衣装の、バレリーナみたいな女の子。」
それは、綱渡りのピエロの絵のとなりで、オルゴールの円筒のうえをくるくる回る、玉乗りの少女の肖像でした。
「サーカス一座で、玉乗りするきみは、きっとそんなふうだったろうね。」
オトノムはそっとうなりました。
(おまけにそれとならんで、あぶなっかしげに綱渡りするピエロは、大道芸のアルバイトをしていた自分とそっくりだ……。)
オトノムは、そうも思いました。心のなかで。
カブリオルは、ちょっととくい気につぎの絵に近づいていくと、不気味なキノコの館の奥の、鳥かごのオルゴールのかたちをした部屋で、はた織機のまえにしずかにひとりすわっている、少女のところを指さしました。やっぱり、白い衣装をまとっています。
「それも、きみなのかい?」
オトノムがたずねました。
「さあ…。あたしかしら。でも半分くらい、あたしに似ていなくって?」
目をほそめ、絵に近づいていきながら、オトノムはふと、このアトリエに来るまえに出会った、たんぽぽの綿毛をまとった妖精のことを、想い出しました。えかきのカデシさんや、お空の天使の、ふしぎな話をきかせてくれた…、そう、いまから思えば、自分をこのアトリエへとみちびいてくれた、あのたんぽぽの精のことを…。
「あのね、数字ばっかりの本ひろげて、こまってるときの、カブリオルに似てる!」
フーガがシッポをくるくる回して、躍りあがりました。
「物思いにふけってる、とおっしゃい!」
カブリオルが、頬をふくらましました。
「音楽をつくったり、あたしたちに物語をつくって聞かせてくれるときの、カブリオルの顔よ。」
カノンが、いいことを想い出したとき、いつもするように、耳もおひげもぴんぴんはって、うなづきながらそう言いました。
「ちょっぴりおとなのあたしってとこね。でもこれ、エシャッペって名前がついてるんですって。白い妖精……エシャッペ。そうでしょう、とうさん?」
「うん。悪魔のくににいるけれど、ほんとはそこがだいきらいな、あいくるしい妖精だよ。空想好きで、大胆で、じつは活発に跳ねまわることが好きなんだ。もう、とっくにそのくにを脱け出しちまったと思うけどね。」
カデシさんは、想い出しわらいでもするみたいに、顔をほころばせてこたえました。
「エシャッペか……。でも、まるできみの分身みたいに思えてくるよ…。」
オトノムが絵をのぞきこみながら、神妙な声で言いました。
「分身? そうね、もしあたしが、このおさげをこうして垂らしたり、頭のてっぺんにゆわえつけたら、きっとこの子そっくりになるとおもうわ。」
こう言ってカブリオルは、左右の三つ編みをほどいたり、頭のうえでひとつに束ねてみせました。
「ほんとほんと。」
「バレエのオドリーナのちとみたい!」
カノンとフーガが、シッポをとんとんさせました。
「その…かっこうだけじゃあなく、表情がさ…。そういえば、きみときたら孤児院にいたときもそうだった。元気にはしゃぎまわってたと思えば、もうなんか考えごとをしてた。と、また急にとてつもないことをしゃべりだしたり、歌をうたったり!」
「よくない生徒だったわ。」
「そんなことを想いだすせいか、なんとなく、ふしぎとなつかしい気持になってくるよ。そうだ……アネモネの少女と、白い少女は、ふたりとも、ちょうどきみの部分を物語る、妖精のようなものなんじゃないかしら。それもおたがいの間を自由自在に行きかう、もしかするとふたりでひと組のね?」
「たんぽぽの綿毛みたいな白いものと、アネモネのように赤いものとの間を行きかうんですって?」
オトノムの言葉をきくと、カブリオルはたいへん満足げにこう言って、こっくりうなづきました。
隣ではカノンが、背中をなめるふりをしながら、ちょいと横目でそんなカブリオルのようすをのぞき見ていました。
「エシャッペだって? エシャッペだって?」
オトノムのなかに入り込んでいるニムリムが、大声でどなっています。
「聞いたかい? パド。エシャッペだってさ! あの絵がだよ。どおりでぼく、見おぼえがあると思ったよ。」
ニムリムは指さしながら、おなじようにオトノムのなかに入り込んでいるパドにむかって言いました。
「そうか、ニムリム。エシャッペは、カブリオルの分身だったってわけか。とすると、オトノムの分身であるきみを、エシャッペが悪魔のくににもどってたすけ出したのは、さまよえるオトノムをカブリオルが救い出したのと、ひとつだったってわけだね。」
パドは、カデシさんの頭のなかにあったいままでのからくりを、ようやくすこしばかりつかんだ気がして、なんだかほっとひと安心した気分になりました。
「なんだかちんぷんかんぷん。でもま、よかった! めでたし、めでたし。」
ニムリムは、首をかしげながらも、うれしそうに拍手しました。
「それじゃ、エシャッペは、このアトリエに逃げこんでいたんだね? 悪魔のくにを脱けだして、絵をなかを通って、このアトリエに避難してたんだ。」
「アトリエに、っていうより、カブリオルって少女のなかにね。ちょうどきみがオトノムのなかに、こうして住まっているのとおなじように。」
パドが言いました。
「そうか、エシャッペはいま、カブリオルって子のなかにいるんだね。」
「そうだよ、ニムリム。きっと、これからもずっといつづけるだろう。ちょうどきみが、このままオトノムのなかにいつづけるのとおなじようにね。」
「ぼく、ずっとここにいていいの? もう悪魔のくにへ帰らなくても?」
「もちろんさ。」
「ああよかった! ここは、みょうに居心地がいいもの。ぼくうれしいな!」
ニムリムは、自分の両手をぎゅっとひとつににぎりしめて、言いました。
「ニムリム。いまはきみとぼくがいっしょにいるけれど、やがてぼくがここを出ても、きみはオトノムのなかに生きつづけるんだよ。なにせ、きみはオトノムじしん、なんだからね。」
「きみはここを出ていっちまうの?」
ニムリムが心ぼそげに聞きました。
「さっきもいったろ。ぼくは出ていっても、すぐまたもどって来られるさ。きみとぼくは、〈いっしんどうたい〉なんだもの。それにきみが、ぼくを心のそとへ追いやったり、忘れ去ったりしなければ、〈きみのぼく〉は、きみといっしょにいつづけられるよ。ふたりでひとつの、オトノムになって、はたらきながらね。」
「だったらどうして、わざわざ出てなんか行くのさ? めんどうじゃないか。ややこしいじゃないか。ずっとぼくといっしょにいればいいのさ。オトノムのなかに!」
ニムリムが、だだをこねました。
「そりゃ、ぼくだってそう思うさ。だけど、ぼくは天使だ。きまったひとつのところだけに、いつづけられはしない。ひとの心が、それをとり巻くものと、きっと一体になれるものである以上、そしてひととひとの心どうしも、自由にまじわれるものである以上、いつでもどこへでも自由に行きかうのが、天使なんだ。それにまた、人間だって、そういうものなんだよ。天使を自分のなかに永遠に生かしてはおけないのさ。それは無理がかかることだ。天使を自分のなかにかくまおうと、無理すればするほど、心のなかのものは、天使ではなくなってしまう。むしろ心のなかの天使を、自由に外へほうり投げて、まわりのものたちといっしょにかわし合ってくれるほど、天使もいきいきと生きられるんだよ。天使を外へ放つことは、天使をこころの外に追いやって忘れ去ることとは、おおちがいなんだ。天使は、ひとたびはなれても、きっとはね返ってまたもどる。そのひとたちが、自分のなかの天使の心を、忘れ去らないかぎりね。
ぼくももう、あまりさびしがらずに、信じることにしたよ。……ひとはきっと、心がまた生まれ変わるときに、自然とぼくを呼ぶのさ。」
「ふうん……。」
ニムリムは肩をおとしました。
「でもさびしいよ。」
「そう…。だけどね、」
パドは、すぐに元気づけるように、せきこんでこう言いました。
「オトノムってやつは、きっとぼくをたびたび招いてくれるとおもうぜ! それに、けっこう無理なく、自然にぼくをしばらくの間心のなかに、こうして住まわせてくれそうだぜ。」
「ほんとかい? パド!」
「ふっふ。ほら! それというのもきみが、じつに優秀なオトノムの〈分身〉なものだから! だから、ね。いまだってこうして……。」
「いやあ! 照れちゃうな。」
ニムリムはまっ赤になって、頭をぼりぼりかきました。
「だからまあ、心配するなよ。ニムリム。ぼくはちょくちょくやってくるし、けっこう長くおじゃまするさ。」
「うん。いつでも待ってる! ……ね、パド。ぼくともかく、もう悪魔のくにに帰らずにすんで、よかったよ。それにカブリオルって子を通して、これからもエシャッペともお話できそうだからね。」
ニムリムがうきうきして言いました。
「そうだね。ぼくも、オトノムがカデシさん一家と、ずっとなかよしでいられるようねがうよ。……そうだ、いまのことを話したついでに、ちょっといいこと教えてあげようか? じつはぼく、いまね、きみといっしょにオトノムのなかに入っているけど、ぼくによく似たぼくの分身が、カブリオルのなかにもおなじように入り込んで、エシャッペと合体するんだぜ。そしてぼくとぼくの分身は、ひとつになったり別れたりしながら、おたがいの間を自由に出入りするんだ。」
「ええっ? それ、どういうこと?」
ニムリムが首をひねりながら、たずねます。
「きみときみの分身は、まったくおんなじものじゃないのかい?」
「そうだね……。」
パドはちょっと考えてから、こたえました。
「ぼくの分身は、ぼくであって、ぼくじゃない。ぼくとひとつになる、って意味では、分身もぼくだけど、たとえばきみといっしょのぼくと、エシャッペといっしょのぼくとが、それぞれ別のものだって意味では、ちがうものなんだ。つまりオトノムのなかのぼくと、カブリオルのなかのぼくとは、おなじひとつの、神様の分身でできてはいるけれど、その神様の分身が、それぞれべつのひとのからだのなかへはいったら、そのひとのなかの天使は、すこしはそのひとの色に染まるものなんだ。でもふたつが出会うと、オトノムとカブリオルふたりに共通のたましいになるんだよ。そして自由に交換されるほど、ひとつになったり枝分かれしてもっとすてきなぼくにふくらんだりするんだ。だからぼく、オトノムとカブリオルが、もっともっとなかよくなれば、ほんとにうれしいんだ。ますます自由に生まれかわって遊べるからね。そうそう。ぼくやぼくの分身の居場所は、もちろんふたりのなかばっかりじゃないよ! オトノムのなかのきみ、つまりニムリムといっしょに、ぼくがいるように、そしてカブリオルのなかのエシャッペといっしょに、ぼくの分身がいるように、カデシさんのなかにももちろん、子ねこのカノンとフーガのなかにも住んでる、〈だれか〉といっしょに、それぞれぼくの分身がちゃんと宿って、自由に出入りするんだぜ。」
「わあ、すごいな! きみってやつは。」
ニムリムは、よくわけもわからず、すっかり感激してしまいました。
「でさ、いったいどれがほんものか、わからなくなったりしないのかい? きみと、きみの分身たちとがさ?」
「そんなの、関係ないよ。みんなほんもの。どれもおなじくらい、ほんもののパドだよ。むこうからみれば、こっちが分身だし、こっちからみれば、あとのやつらが分身さ。でも、どっちみち出会って、ますますすてきに、ひとつになるんだ。ますますすてきな、天使パドにね!」
「おじさん……」
オトノムが、おもむろに口をひらきました。
「カデシさんでいいわよ。ね、とうさん!」
カブリオルが、横から口をはさみました。
「この絵、どうするんですか。……ぼくそっくりのこの絵。」
「どうするとは?」
カデシさんが、ココアのおかわりをつぎながら、聞き返します。
「だれかに売ってしまうの?」
「そんなことはしない。ぼくじしんのために、描いたんだから。そしてそのみかえりも、もう充分もらったよ。こうしてきみが、ここを訪れてくれたんだもの。おまけに、きみが来たことで、この絵の出来がかなり上々なこともわかったしね。そうだろう? はっは…」
カデシさんは照れわらいをしました。
「ああよかった。ほっとしちゃった。」
オトノムは言って、ちらりとカブリオルのほうを見ました。カブリオルも、おどけたわらい顔を返してみせました。
「だけど、なぜこんな絵が描けたのかなあ。これは、ほんとにぼくなんですか? そうだとしたら、なぜわかったんだ? ぼくがちょうどこんなふうだってこと。それとも、他人のそら似かなあ?」
オトノムは、なかば問いかけるような、ひとりごとめいた口調で、こう問いました。
「偶然にしては、たしかに出来すぎだ。きみに遭うために描いたとしか、わたしにも思えない。」
カデシさんも腕ぐみして言いました。もの思いにふけるとき、いつもそうするように、お気に入りのパイプをくゆらしながら。
「どこかで会っていたことが、あったでしょうか。よく気づかないうちに。」
「見かけたことは、たしかにあるかもしれないよ。自分でも、よくは覚えていないけれどね。記憶のどこかに、きみの印象が残っていたかもしれない。……きみは、孤児院を出して、しばらく職を転々としたあと、この村にたどりついて、それからはどこでなにをしていたんだい?」
カデシさんはいつものように、パイプのけむりで輪っかをつくりながら、オトノムにそっとたずねました。カデシさんの足もとにいたカノンが、まっすぐ天井へと立ちのぼるけむりの輪っかを、じっと目でおいます。
オトノムは、道ばたで出会ったときカブリオルに話したとおりのことを、ひとしきりカデシさんにも話しました。
「チッポルの丘のあたりにいたというんじゃ、見かけたことくらいは、あったかもしれないねえ。ときには教会のしごとも、していたんだろう?」
「ええ。村のひとたちが日曜礼拝にくるまえに、そこらじゅうみがいてました。」
「とうさんはねえ、あそこの牧師さんと顔見知りなのよ。ときどきたずねて行ってるわ。むこうから遊びにくることだってあるのよ。」
「へえ! ちっとも知らなかったわ。」
カノンが目をまるくしてみせました。
「ほんと! ちいともね。」
フーガも目をみはりました。
「じゃあの、おひげのながいおじさんかな?」
そう言って、ふたりは顔を見合あわせました。カブリオルはかまわずつづけます。
「もちろん教会のなかの絵も、描いたわ。ステンドグラスの絵づけも、とうさんがしたんだから!」
「そうか。そういえば……。」
オトノムが、アトリエぢゅうの絵をぐるりと見わたしながら、つぶやきます。
「この色あいが、なんとなく教会を想い出させられるとおもった。天井にむかってすいこまれてくような感じさ。あおくあおく。」
「フーガも教会行きたい。教会のなかみたい!」
フーガがわめきはじめました。
「あら。ねこはだめよ、はいっちゃ!」
おとなぶった口ぶりで、カブリオルが言いはなちました。
「ちぇ。」
「だけどあたしたち、教会のまえなら、行ったことあるじゃない。」
カノンがなだめるように、すこしは自慢げに、口ぞえします。
「そうだそうだ、そうだもんね! 」
フーガもあわてていばると、こう切り返しました。
「ねえオトノム! あんた知ってる? いつかの冬、天使のために小鳥たちがコンサートをやったこと。あの教会がたってる、丘のまえで。あたちたち、知ってるよ!」
「え?」
オトノムは、しばらくぼう立ちになりました。カブリオルがこう話しはじめます。
「クリスマスのまえのまえの日のことよ。あたしも、それを聞いた気がしたわ。やけにたくさんあつまって、小鳥たちがさえずっているなあと思ったのよ。それはさえずりというより、歌って、躍って、合奏していたの。かわいた葉ずれの音や、草の音がして、つるべをつまびく気配までしたわ。あれはやっぱりコンサートだったのよ……。あたしあの日、おもわずつられて、一曲つくってしまったもの。天使の鼻歌みたいな音楽を。」
あの日のこうふんをよみがえらせて、カブリオルはうたうように語りました。
「たぶん、ぼく知ってるよ…それ。」
オトノムがそう言って、うすらいでいた色彩がしだいによみがえりはじめた、ちいさな絵本をひもとくように、おだやかに語りはじめました。
「たぶんあの日がそうなんだ……。小鳥たちのいつになく風変わりなさえずりや、枯れ葉のざわめきをうとうと聞きながら、ぼく空を見てたんだ、薄目をあけてね。そしたら、ちょうどお日さまをかくした雲のさけ目から、光の帯が射し込んで、その足がすっと丘を照らしつけた。真珠色した、ひとすじのオーロラみたいに。きっと丘のまわりの原っぱは、スポットライトをあびる舞台のようだったはずだよ。これはまるでコンサートだって、そう思っていたら、一瞬雲からぱっと光の網が投げかけられたんだ。それはすけた傘が放射状にひらいたように、おひさまを中心にすかして、あの丘のあたりいったいに架かっていた。もちろんぼくのうたたねしてた、原っぱのすそのほうにも、きらきらと落ちて来たのを、おぼえてるよ。そのときさ、小鳥たちの合奏にもきこえるざわめきが、まるで天までこだましたとでもいうように、空からこたえがかえってきたんだもの。天使のうたごえみたいなこたえがさ。忘れられないよ、あの日のことは。」
オトノムがそう言ったとたん、カノンもフーガも、目をらんらんとかがやかせ、声をそろえてさけびました。
「それよそれ! 光のできごとの日!」
カブリオルもこっくりうなづきながら、
「あんたって、詩人みたい。」
と、オトノムに言いました。
オトノムはしずかにまばたきをひとつすると、アトリエのなかのある絵を指さして、こうつづけました。
「ほら、ちょうどあの絵そっくり。日の射す丘。なんてことだろう! ぼくのあの日の印象に、ぴったりの絵があったなんて。ま昼の光景…。なんといっても、それはぼくがはじめて丘をおとづれた日だったんだ。あれはまだ、冬だったけど。でも、あの日からぼく、原っぱを離れられなくなったのさ。丘のうえに射す光を、それからずっと気にしているんだ。と、ぼくだけじゃなく、原っぱのまわりのみんなが、気にしているのがわかるようになった。空へ舞いのぼる小鳥たちのはばたきが。屋根にかがやくあおじろい雪のまばたきが。それは、春になるとなおさらしきりだった。小鳥たちのさえずりや葉ずれのざわめきが、空へこだまするとき、牧場が空のまるい天井に向き合ったまま、光の噴水を一面にまき散らしてふるえてるとき、そして、小川のせせらぎが跳ねあがりながら、よろこべ、よろこべってささやくのが聞こえるとき、……ぼくも、いつもいっしょにあの丘を見上げるんだ。大好きなひとつの詩を、思い浮かべながらね。」
こう言ってオトノムは、いっぺんの詩を語りはじめました。
「大地よ、これがおまえの願うところではないか、目にみえぬものとして
われわれの心のなかによみがえることが?
ーーーそれがおまえの夢ではないか、
いつか目にみえぬものとなることが……」
「リルケだね?」
カデシさんが振り向かずに言いました。
「そうです。……ねえカデシさん? ぼく思うんだけど、このアトリエには、ぼくの好きなこんな詩があてはまる絵がいっぱいあふれているような気がするの。こんなの、知ってますか? ぼくがあの、丘に降りる一条の光を見あげるとき、いつも心のなかでくちずさむ詩なんですけど…。」
こう言ってオトノムは、丘の絵のまえに立ち、しずかにとなえました。
「われわれ、昇る幸福に思いをはせる
ものたちは、ほとんと驚愕にちかい
感動をおぼえるであろう
降りくだる幸福のあることを知るときに」
こうも語りました。アトリエぢゅうの絵に目をみはり、そのひとつひとつに話して聞かせるように。
「この地上こそ、言葉でいいうるものの季節、その故郷だ。
されば語れ、告げよ、……」
するとカデシさんも、背中を向けたままいっしょに語りはじめました。
「天使にむかって世界をたたえよ……
われわれのものとして手のもとに、まなざしのなかに生きている素朴なものを。……」
「ふたりとも知ってるのね!」
カブリオルがつぶやきます。
カノンとフーガはふしぎそうな顔をして、ふたりのうしろ姿をあおいでいます。
「よくわからないけど、すてきな偶然だってことはよくわかるわ。……でもひょっとして、これは偶然でないかもね。」
カブリオルが言うと、
「よくわからないけど、天使にむかってさけぶのはわかるわ!」
カノンもそう言って、即座に小窓へ飛びのりました。
「だって、みんながそうするもの。小鳥たちも、トネリコの梢も、小川のせせらぎも、…丘のてっぺんの教会の鐘だって、そうだわ。」
こうつぶやきながら、いままでのできごとをありありと想い浮かべ、カノンはお鼻をならしました。
「牧場のお花の宝石たちもね。」
カブリオルも、カノンに顔をすりつけながら、窓の景色をのぞいて言いました。
「いつかのお星様たちだってよ!」
フーガもいちにんまえにさけぶなり、どうにかこうにか小窓によじのぼりました。
「みんな天使を呼ぶのよ! そして、天使はほんとに降りて来る!」
「降りて来る! だれかの姿をかりながら。」
「なにかの形をとりながら。」
「やっほう! きみたち、にぎやかだね!」
とつぜん、だれかの声がしました。と、ひとつの絵のなかからポトリ、黒っぽい影が落ちました。
「あ、クモさんだ! どこ行ってたの?」
フーガがシッポをくりくり振りながら、どすんと小窓をおりて、クモの坊やをむかえにいきました。クモの坊やは、一条の光を浴びて、ほんものそっくりにこんもりとしたみどり色にふくらむ丘のふもとの森をぬけ、ほんものそっくりにじぐざぐのぼる、木立にそってところどころしま模様に日蔭をおびた、たんぽぽの道のはずれあたりから、よちよちはい出してきました。そして道ばたの黄色と額縁の合間から垂れる、フジ蔓のらせんをつたいおりると、そこから床へそっとたらしたクモ糸を引いて、まっすぐに降り立ちました。それから手品みたいに、あっという間にクモ糸をおしりにしまい込むと、ひと息ついてこう言いました。
「ああ、すっかり終わった。お役目もぶじはたせたようだし、なんだかちょっとつかれたな。いっぷくさせてくれたまえ。」
「ビスケットとクッキー、もってきてあげる!」
フーガがぱたぱた走っていって、カデシさんのちいさな机のうえから、お皿にのったビスケットとクッキーを一枚づつ、くわえてもどってきました。
「ありゃりゃ。くわえたとこが、べとべとになっちゃった! そういうとこは、あたちがたべてあげるね。」
そう言って、フーガはさきにむしゃむしゃやりはじめました。クモは肩をすくめると、
「では、残りをえんりょなく。」
と言って、床にこぼれたビスケットとクッキーのかけらをもらうことにしました。
「なにをしに行ったの?」
カノンがけげんそうにたずねました。
「ながいあいだ、姿が見えなかったけど。」
「いや、ちょっとしたひとさがしと、ひとだすけにね。あーおいしい…。」
「ひとさがしと、ひとだすけ?」
「そうなんです。」
「ほら。こっちにもまだ、こぼれてるよ!」
フーガがものほしげにおしえました。
「やあどうも。ゆっくりいただきますよ。そう、でももうぶじ、すんだんです。」
「あんたの行ったのは、不気味なところじゃなくって? たしかあの、なんだか様子がおかしい、日蔭だらけのあやしげな絵のなかだったわ。」
カブリオルが、いちめんに眠気のただよう奇妙な絵を振り返りながら、クモに問いただしました。
「そうだったわ。なのに帰りは、たんぽぽの道からなんて、もっとへんなの。」
カノンも横やりを入れました。
「そうですね。たしかにふつうではありませんでしたよ。じつにふしぎな冒険でした。なにしろぼくの行ったくにときたら、あまのじゃくというか、なんというか…。なにもやってない者にむかって、おまえがやったやったとはやしたてるかとおもえば、見えるものを、見えない見えないと言い張るような、それはややこしくてかわったところですからね。で、せめて帰り道くらい、まともなくにを通ってきたかったんですよ。 ところが、その帰り道がまた、よくわからない。庭のなかを小川が流れていまして、あやうくおぼれそうになりながら、木の葉にしがみついてわたっていくと、こんどはうっかり森のなかに迷いこんでしまいました。うっそうとした木陰のあいだにぽっかり空いたひだまりで、しばらく休んでいました。そう…。どことなく、くにざかいの予感のするところでした。が、この先どう行けばよいやらとほうにくれて、ひだまりのまん中ににょっきりのびた木陰をうろうろしていたところを、さいわい、透きとおった気球のようなものがやってきて、ぼくをひろって途中まではこんでくれたんですよ。ふわふわ宙をただよいながら、森をぬけ、ひだまりをぬけ、たんぽぽの道まで来ると、ふと記憶の糸でも切れたように、気球がわれて、落っこちちまったんです。……夢だったんでしょうか? で、ともかく気をうしなっているところを、あれはアネモネの精でしょうかね、まっ赤な花びらをまとった妖精に起こされて、半分うとうとしながら、ようやくここまでたどりついたというわけなのです。それからしばらく、そう、小一時間というところですかね。あの絵のうえの道ばたで、ちょいと頭を冷やしていたんですよ。アトリエのなかの、みなさんの様子をうかがいながらね…。と、なんとしたことでしょう! さっき夢のなかでみた、あの透きとおった気球というか、虹の膜でおおわれたあのおなじ球体が、このアトリエぢゅうをふわふわ飛び回っているじゃあないですか。じつにふしぎな光景でした。アトリエ遊覧…。こんどはぼくが、見物人。それはまるで、ふたつの世界を、同時に見ていたようなものですよ! 透きとおった水晶玉のなかとそとと。ふたつの世界が同時に進行していくんです。まったく、じつにふしぎな感じです。いまでもまだ、夢心地ですよ。」
「あんたの言ってること、ちいともわからない。」
フーガがせめたてました。おひげにはまた、ビスケットのかけらがついています。
「じつをいうと、話してるぼくじしん、よくわからないんです。まあ、たいそう妙ちくりんな体験というところですね。」
「でその、ひとだすけっていうのは?」
カノンが合点のいかないようすでたずねます。
「もちろん、はたして来ましたとも。その証拠に、ほれ。どなたか、ここへやってきませんでしたか? ほらね、あそこ!」
クモは、すこしもったいをつけた声音で、なにかさも重大な秘密でもうち明かすように、前足をかかげてアトリエのなかの少年を指さしました。
「なあに? オトノムのこと?」
カノンが、けげんな顔で聞き返します。その少年は、いまもいっしんにカデシさんとお話のつづきをしています。
「オトノムがどうかしたの? さっきあたしが連れてきたばかりよ。」
カブリオルが、あっけらかんと言いました。
「え、カブリオルが? ……ええ、そう。たしかに、そ、それでいいんです。」
クモは、ちょっと困ってたじろぎました。それからきゅうに、ひとりでうんうん、うなづきました。カノンがわきでおもわず顔をしかめました。
「それが、あんたのちとだすけと、どうかんけいあるんだってば?」
フーガもいっしょになって、せめたてます。
「だからその、カブリオルの手前までですよ。ぼくがかかわったのは。ええ…。」
「ねえ、なにいってんの? さっきから。ちいともわけわからないよ! ばつとして、お菓子はぜんぶあたちのもの。」
「こらフーガ! おちょうしのり、いいかげんにするの。」
カノンがあわててシッポでフーガをなぶりました。
「いいんですよ。たいへん説明がむづかしいものなのです。この件にかんしては…。」
クモの坊やは、しかたなさそうにうなだれると、だれにともなくつぶやきました。カブリオルがそっとひとり、オトノムのほうを見やりながら、小首をかしげ、ひとりごちました。
「あたしが見つける手前まで、クモがオトノムを助け出した、ですって? あのえたいの知れない暗いくにの絵のなかから? ほんとかしら……。でも、そういえばオトノムのかっこうったら、からだじゅうすすだらけで、しま模様のくすんだシャツが、まるでクモの衣装みたいだわ。そうそう、ちょうどあの絵のなかで綱わたりしてる、ピエロの子そっくり。」
それから、なにか暗号でもさがすように、アトリエぢゅうの絵を見わたしました。
「それにあの、ぶかっこうなキノコの館のなかにいる、ぽつんとひとりさびしげな悪魔の子! あれはひょっとして……。そうね、たしかにありえないことではないわ。そうよ、あたしだって、アネモネ色の衣装やたんぽぽの衣装に身を包んだ妖精になって、ああして絵のなかにおさまっているんだもの。エシャッペ。もし、あれがあたしの分身だとすれば、オトノムにだって……。」
「カブリオルが、なにか呪文をとなえてるわ?」
カノンはおどろいてカブリオルをのぞき込むと、すぐにそのながいシッポで、ぼんやりと天井をみあげるカブリオルの顔をなぞりました。そおっと、そおっと。
「ねえ、とうさん!」
カブリオルが、ふいにわれに返って呼びかけました。
「どうしたい、おさげちゃん? いきなり。」
カデシさんが振り向きました。オトノムもこちらを見つめています。
「あの綱わたりのピエロ、なんていう名前?」
「ああ、あれかい? あれはね、ある小悪魔の坊やが、曲芸の練習のためにピエロの姿をさせられているだけなんだ。」
「じゃあ、その小悪魔の子は、なんて名前なの?」
「たしか、ニムリムと呼ばれていたよ。悪魔の学校のなかでは。」
クモの坊やが先にこたえました。カノンとフーガはびっくりしてクモのほうを振り返りました。それからふたりしておもわず顔を見合わせました。
「そうだった…。ニムリムだ。」
カデシさんも、目をしばたたかせながらうなづきます。
「だけどもうあいつは、小悪魔なんかじゃないよ。ぼくのお手柄でね! おかげでもう、とっくに脱けだしちまったもの。悪魔のくにを…エシャッペといっしょにね!」
クモがいっきにまくしたてました。
「エシャッペといっしょに、ですって? エシャッペ、ですって?」
カブリオルがどなりました。それから茫然とした様子で、もういちどアトリエのなかの、赤や白の衣装をまとったかわいらしい妖精の肖像をながめなおしました。そう、クモが言うのとまったくおなじ名前の、妖精の絵をです。クモはいっそうとくいになって言いました。
「そうだよ! エシャッペが、あいつをたすけに、一度脱けだした魔界へ、わざわざ戻って連れ出してやったのさ。そこへ、ぼくもひと役かった、って……」
「一度脱けだした魔界へ、戻ったですって?」
「そう。たしか時間を戻したとかって言ってたな。からくりのことは、ぼくはよくわからないけど…。ともかくですね、あの絵の、自分のところだけ進んでいた時間をもとに戻したらしいですよ。記憶の一部を、よみがえらせたんじゃないでしょうか…?」
「記憶の一部。もとに戻る…。」
カブリオルは、はたと立ちどまって考えこみました。あごに指をあてながら。
「するとアトリエを出るまえ、あたしの感じたあの虫の知らせも、ひょっとしてそれと同じものかしら?」
カブリオルは、なつかしいものの気配に呼びさまされ、なんともいえない衝動にかられてアトリエを飛び出したのでした。
「まあいいじゃないですか。ともかく無事戻って来たことだし。ニムリムまで、こうしてめでたくやって来られたんですから。」
クモの坊やは、オトノムのほうを指さして言いました。
「ニュムニュム…だってえ?」
フーガがたちまち、わめきたてました。
「クモさん! なにいってんの! このひと、ニュムニュムじゃない。オトノムっていうのよ。」
カノンもすかさずやりこめました。
「やあ、失礼。分身のほうと、ほんものと、間違えちまった。」
「分身! やっぱりそうなのね…」
カブリオルが、ようやくなにかにたどりついたように、ひとりつぶやきました。
カノンは、そんなカブリオルの、たましいの脱けたような姿を、じいっと目を凝らして見守っています。
オトノムはといえば、月を映した湖面がひたひたとみちるような静かさで、いぶかしげにだまってみんなの様子を見つめていました。それからふと、カデシさんのほうを振り返りました。
カデシさんは、なにごともなかったように、ふーっとおおきくパイプのけむりを吐きだしていました。けむりの輪っかが、もくもくとたちのぼります。
「あ、おおきい輪っか! いままででいっとうおおきい輪っかっかだ。」
フーガは、それを見るなりはしゃぎだしました。いっぽうカノンは、こんどはカデシさんの横顔を、しげしげと見つめていました。たちのぼるけむりのよいんを目で追いながら、ようやくほっとひと息入れているといったふうの、この絵かきさんのおだやかな横顔を。それから、カブリオルとオトノムのすっかり放心したたたずまいを、かわりばんこに見くらべました。
「ニャオワ〜ン。グルル……」
こうひと声あげると、子ねこのカノンはふたたび、たいそうしなやかな身のこなしで、するりと小窓にかけのぼりました。そして、窓辺のガンピにそっと首をうなだれると、そのままもの想いにふけるようすで、こんどは自分がぼんやりと窓の外をながめはじめました。こんもりした丘のエメラルド色を、心地よさそうに目をほそめ、見つめています。
「あたし、ピアノひこうっと。」
カブリオルはとつぜん言って、アトリエのかたすみに走って行きました。そして、重い茶色のふたをよっこらしょ、こじ開けると、カデシさんも、カノンとフーガも大好きな、シューマンのちいさな曲を物語みたいに弾きはじめました。そしてそのままつぎからつぎと、いくつも奏でていきました。とめどなくつづくコラールのように。……
とんがり屋根の軒さきでは、すずめたちが声をそろえて、カブリオルのかなでるメロディに、ささやかなオブリガードをつけています。ところどころ金糸を織り込んだ、午後の日射しのたて糸が、ガンピの赤い花びらにそっとささやきかけるたび、カーテンがゆらゆら揺れながら耳をそばだてています。
「オトノム。ずっとここにいるでしょ? 夕ごはんたべていきなよ! おいしいもの、ごちとうしたげる!」
フーガがいちにんまえの口をききました。
「ごちそうって、いったいだれにつくらせるつもり?」
カノンが、シッポをゆらりとひとつ、くねらせながら振り向くと、フーガをたしなめました。
「つぎはお散歩のうた!」
カブリオルがいさましくさけびました。
「グルルン!」
と、カノンがふいにかけ声とともに床に降り立つと、のどをグルグル鳴らしながら、オトノムの足元にすりよっていきました。それは、ずっといっしょにいましょうね! という、カノン特有の合図でした。それから、じつにうきうきした、子うさぎみたいな足どりで、さっそくカデシさんのもとへかけ寄っていきました。と、フーガもいそいでかけ寄りました。なにかふたりで、お願いしているよう。
「よしよし。」
カデシさんは、心得た調子でうなづきました。
「もちろん、そのつもりだよ。腕をふるってあげようね。クモくん、きみもだよ。どうもごくろうさま。おや? クモくんは?」
おや? クモの坊やが、いつの間に姿を消していました。カノンとフーガは、はっとしてあたりを見まわします。
「かくれんぼかな?」
フーガが聞きました。
「そうじゃないわ。」
カノンがそうこたえました。それからふたりはあたりを見まわしました。
「お芝居の想い出!」
「カノン形式のうた!」
「おつぎは、ちいさいフーガ!」
カブリオルは夢中でピアノを弾きつづけます。……
「あ…。」
カノンが、声にならないくらいかすかに口をあけました。
窓辺にたゆたうレースのカーテンのすそから、一本の金の糸がすう、と空にむかってのびていました。……
ゆらゆら舞いのぼる糸のむこうには、真珠色にひかる、あのわた雲のすがたがありました。昼間よりはだいぶかたむきながらも、丘を照らしつづける光の帯が、かすかにこがね色にそまった足を、その裂け目から長ながと降ろしています。わた雲は、原っぱのみんなとチッポルの丘にさようならを言うように、夕べの風に吹かれながら、ゆっくりと西の空にむかって流れていきました。ぷっくりとふくらんだおなかを、つややかなオレンジ色にそめながら。
天使のパドは、高いたかい雲のうえ。たったいま眠りについたばかりです。その寝顔は、ああおもしろかった、って言ってます。
きょうはほんとにいろんなことがありました。つかれたでしょう? おやすみなさい。
雲はパドをのせて、西の山脈のむこうへ、すこしずつすこしずつ、おりていきます。沈む夕日といっしょに空のスケートリンクをゆっくりすべり、原っぱいちめん、琥珀色の光の束を投げかけながら、さよなら、さよなら……名残おしそうにかがやいては、消えていきます。
夕闇のせまるころ、丘のうえに教会のあかりがほのかにともりました。原っぱをこえた山のふもとの牧場の小屋にもひとつ。その奥の、南の空へかたむいた巨きな樫の木蔭のしたにもひとつ、ちいさなあかりがともりました。山すそをつなぐ細ながい村落にも、点々とともりはじめます。むらさき色に燃えのこる遠くアビシャイの山ぎわには、町のあかりも星くずのようにちらちらまたたいてみえます。
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