Monet and Gogh

感覚が固定され、注意力が極度に張りつめて意識は恍惚に近いありさまで催眠状態の入口に立ちどまる
（深淵のほとりの夢想者のように）眼前の光景が世界となり、意識はその世界との関係で成り立っているのだ。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―――ポール・ヴァレリー

彼は何ものをも無視することができない。…いかなる存在、いかなる幻、いかなる幻覚に対しても、彼は眼を閉じることを許されない。まるで彼の眼は瞼を持たぬかのようだった。
そこでは、すべてが絶えず再び始まり、死ぬこと自体が限りないつとめであるような場所
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―――Ｍ．ブーランショ

此処にあること彼処にあること、このふたつが何とお前をとらえることか、
異様に、無差別に。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―――Ｍ・Ｒ・リルケ

　午後、悦ちゃんとモネ展に行って来た。
　睡蓮――その大きな実物にじっと見入っているうち、ああほんとうにこの人の絵は、時間の移り変わりというものを、ひとに気付かせると思った。光を刻々と追いかけている筆が絵具の背後に、わたしの睫毛のうちに、彷彿する……。
　時間への推量――それは、ことにバルビゾン派に見いだされる。彼らの絵画は、ある一つの時刻を―――そのほとんどは夕刻のようだ――明瞭に融和させる。その日溜まりの眩しさ、木陰に漂う冷気、街路をふちどる光と陰の明解な分離、（目に見えない）陽射の方角、暗鬱とした樹海や地平線いっぱいに広がる草原の、あのむせかえるような初夏の湿り気を帯びた、或る時刻特有の空気感…彼らは忠実な筆致で、それらの全てを再現する。けれども彼らの時間はつに「対象」だ。彼らは、一定の時刻を、あらゆる形象を通し絵画のなかに凝集する。だがモネは、時間のなかにすっぽりと埋没している。埋没したまま、その辺り一帯で移り変わるすべて、現われ映し出されては消えるすべてのものを表現する。彼にあっては、光と時間とはただ一つのものであるかのようだ……交錯する視線。変遷と追従。瞼と世界との、絶え間ない交感……

「何時ごろかなあ…、これ描いた時間？」
「ほんとねえ」
　ある部分だけを見ていても、今とついさっきとではもう光の差し込む方向が微妙に異なっているのを、その筆致から読み取らされてしまう。見れば見るほど色彩のなかにすっぽりと迷いこんでいる……
　こうなるともう、幸福と不安との境界すらわからなくなってしまうものだ。窒息状態にも似た沈潜のなかで、容赦のないこのまばゆさを満喫している！……そうしてもう、自分の視線が、視線として存在できなくなっていいくのを、感じている。何か対抗できなくなっていくのを……。

　人々の気配（ざわめき・＜空間＞の占拠）……不意打ちをくらう。
『いったい何故、そんな訳も分からぬ罪悪感を抱いたのだろう』
　取り巻かれている……風景そのものだ（私は。彼は）――そう思った途端、画家（私？）は自分が視線を送っているのを気付く！　＜眼の前の＞風景。――私は見事に立会い人だ――が、それと同時にこの身はもう、それら二つのものの乖離に足をすくわれている間もない、動き続ける手指であるということも知っている。

　絶え間ない転身。――――

　そういう、めくるめく変遷の中で、彼はいつの間にかすべての境界、すべての異なった次元を、一つの地平に映現させている。水面の底とおもて、潜伏と顕現、映すものと映されるもの、大気と陰翳、「隔たり」と反射……
　すべての時間と空間が、うっとりと一つに溶け合っている……
　やわらかな、トリックの世界――――

　何ものかであることの拒絶
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―――Ｐ．ヴァレリ

　私は、いたるところで、私と存在とのあいだに、「存在であらぬ何ものでもないもの」として、ふたたび私を見い出す。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―――Ｊ・Ｐ・サルトル

　　　　　　　　アンチテーゼとしてのゴッホ

　Ｓ氏宛

　一昨日宛てた手紙に、未だ書かなかったことがありました。用事なのですが……
　今度もし、いらっしゃることがあれば（出来ればで結構ですが）ヴァン・ゴッホをもって来てくださいませんか？
　いろんな本の中に、ヴァン・ゴッホは登場するのですが、その度に評価や解釈が異なっているようで、不可解なものに思えて来ます。それに、それらの紹介はどれも断片的な為、イメージがよく掴めません。
　自分の眼で見たいナ　と思うようになりました。

「レンブラントを敬愛したゴッホは……自己の内面の変化を執拗に追い、……ゴッホはつねに『自分はいったい何の役に立つのか。他人にとってどのように有用なのか』と自分に問いかけていた。このつきつめた思考が、やがてゴッホの心をむしばんでいった。」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（名画解説誌）

「トウールーズ＝ロートレックや、ヴァン・ゴッホのおかげで、女郎屋というものを高尚な、詩的な場所のように想像していた。」
「ランボーやロートレアモンや、ヴァン・ゴッホがしたように、人が日常生活の中の取るに足らない偶有性を軽蔑することを望んでいたのである。……時間の停止を自分に強要し、数週間、数ヶ月ののちに自己を不動静止の凶兆なしの時の中に見出してもよという覚悟……」
「テート・ギャラリーでは、『黄色い椅子』や『ひまわり』の前に釘づけになっていた」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―――ボーヴォワール

「一台の馬車が並木道をこちらに向かって走ってくる絵……この絵を見て、彼は外界から遮断されていると思った。周りの風景、車輪のぶれなど、その筆致や視覚からは、たしかに非常に真迫力のある情景のはずなのに、そこからは不気味なほど、音が聞こえて来ないのである。」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　―――八木誠一

　Ｓさん、絵画でいう、狂気ってどんなものなのですか？　ヴァン・ゴッホはほんとはどういうところが、狂気の人（？）なのでしょうか……外界と一致していく意識ではない心の位相で己（世界）をとらえ、それをママ表現してしまうので、外界との乖離や、軋轢が赤裸々に反映されてしまう、そのことが狂気？　それよりか、ひとりの人間の裡の無秩序と、それを「凝視」している眼差との緊張関係――彼におけるそれ自身がもう、狂気なのでしょうか？
　正直いって、狂気には強く惹かれてしまう面が、自分にはあると思います。それに、その気にさえなれば「狂気」は、いたる所に見出すことが出来そうでしょう？　私は自分を狂人とも狂気じみているとも思っていないのですが、それでもとても親密な思いをこめて狂気（じみたもの）に浸り、眼をみはったままに、喜々としてその中で呼吸しているのが好きなのです。そうしなければ、たえず背後（外）から襲って来てはがんじがらめに自分を巻き込んでしまう、狂気の偶然性にたち打ちすることが出来ないし、そこから自分をすくいあげることも――せめて狂気を遊戯へと裏返してやることも――出来ないからです。

　おそらく兄が、私にかんして持っている憶測よりかは、自分は狂気につよく、ほとんど懶惰なほどこれに馴染んでもきたように、思っているのですが、とくに関心をもって接してしまうのは、甘んじられた狂気――理性が、それにつかることを自分自身にゆるしてしまったもの――でもなければ、狂気を露呈してしまおう（しまいたい）と思う余白ぶん、明らかに健全な自我の座に、転身してしまったもの（＝演戯）でもなくて、ただ意思によってのみでは抑え切れない狂気――発狂（膝・手指等）肉体の自律運動・神経の亢奮状態・叫び・或る種の催涙・戦慄の感覚……分裂症・偏執――自殺への執拗な意思……等なのです。
　そして胡魔化しのない、真の狂気は、けして試されるもの、見込まれたものでもなければ、理性や意思の力が必ずしもここから自己を救えるものでもないことを、認めた上でなお、渦中に投げ込まれているその只中にありながら、距離をとってこれを見つめている主体、明徹なわたしがいること、その「眼差」と「狂気の当体」との一重＝二重構造のようなものが、ありそうなこと、そしてそのように極度な緊張関係のもとでは、そのどちらも同じくらい真実なもの、隙がない、＜実存それ自身＞なのであって――逆にいうとどちらか一方のみにはけしておさまり切らない自我の構造が、あるはずなのであり――そうでさえあるなら狂気は、極めて高度に良心的な、ひとつのヒューマニズム、全＜人格＞に離反しないどころか、ある弁証法によって必至に合一されてゆくか、もとの円環へとり込まれてしまう、と感じる（信じる！）のです……
　これは狂気に対する軽蔑、経験の甘さになるのでしょうか……

　Ｎ氏宛

　……この十日から今朝まで、東京へ行っていました。ブラームスのレクイエムをうとうと聞きながら、明け方五時過ぎにはげしい雪のなかをこっちへ戻ってきました。
　西新宿にも出ました。安田ビルのてっぺんに上り、そのあとゴッホの『ひまわり』も見ました。他の作品群（写真）も見てまわりました。……たしかに、ものすごく惹きつけられました。兄も私も、しばらくの間棒立ちになってとらわれていました。（ことに、パリ時代の『ひまわり』には！）

　でも、こんな強烈なものを前に、何かが無いのを感じていたのです。もの足りないというのではなく、ここまでの姿をとる間に、何か犠牲にされたものはないでしょうか。私には、ゴッホが自分の眼差と、対象との間の境目を喪失してしまっているように、思えてなりませんでした。

　「へたをすると、アナクロニズムの世界だなあ…やっぱりもう狂人すれすれのものを持ってしまっていたんだろう」
　兄があとで耳打ちをしました。
　たしかに、見るもの絵を吸い寄せてしまう、眼の位置を失わせてしまう、壮絶な何かがあるんです。それだけに温和な一定の空間が、消えてしまっている。空間そのものをあそこに描き留めたのではなく、喪われているのです。……あそこには、他者というものがまったく介在できない、エレベーターの中で、私は兄にそう言いました。でも逆に言えばゴッホは、それだけ凄い迫真力、凝集力であの事象に、隅々まで、まるで感受性のかたまりのような自分を、マメツ仕切ることができたのでしょう。それほど彼自身が完全に＜あちらがわ＞へ、投影されてしまっている、ひまわりのかたちをとってしまっているのです。ただその仕方が、正常な自我のものではないのだと、私達は話していました。……

　こういうものを藝術（家）のじつに典型的な姿だというなら、たしかにそう思うし、その意味でゴッホの達成している次元は考えられるかぎりの最高のものだとも、思いました。けれどもこうしたものの見（え）方が藝術の唯一の、すぐれたあり方だといい切られるとしたら、やはりそうも思えないでいるのです。
　私はあれを見ていて、救われない、と思いました。藝術というものに、やはりどうしてももう少し別のもの（ある意味では全く逆の方向へむかうもの）を、求めてしまう……。

　空間をもちたいのです。対象と「一」になり親密になりつつも、そうなればなる程やはりそれと同時に、ある、空間の広がりというものは保たれてもよいし、じつのところ保たれるはずなのではないでしょうか？（そうでないと私たちは自滅してしまうか、あるいは完全に相手をのんでしまう、モノにしてしまうと思うのです）。兄が言っていたように、たとえばルノワールが対象を、愛情をもってみているような――あるいはピサロなんかの日常をとりまくものたちへの至福に満ちた――ああいう眼差の中に見いだすことが出来る空間――自分と全く同化し切ってしまうことのけしてない、別々の呼吸を息づいている相手、一個の存在としての相手を見詰めている、そういう、何か対象を尊重し切っているような、いつくしみに充ちた空気感を、失いたくないのです。

　「たしかにあの絵には釘付けになる。画廊片隅に、額も何も無しに無造作に置かれていたとしても、『ああ　これは……』と思わずその前にたたずむだろう。が、それはやはり異常な世界への反応としてのものだろう。」そういう話になりました。

　求心力と遠心力。―――もし、ベートーヴェンのいうように、この地球上、宇宙の、全ての摂理と同じように、人間のほんとうの在り方もこの二つのものの同時的な力から成り立っているのだとしたら、ヴァン・ゴッホがひとを惹きつけるあの力は、やはりそういう両義的働きとは別のもの、何か訳のわからない強制力としか、いいようがないと思うのです

エッセイ目次芸術の扉