第2話 天使のパドがカデシさんのアトリエに降りて
                     かわす秘密の話





 お空の天使は、きょうも雲のうえで、いつもの
鼻歌をうたっています。

  「フンフン、だれかがよんでいる
   フンフン、だれかがさがしてる
   フンフン、だれかがおもいだす
   みえない天使 パドのこと!
   地上のおつかい、ありませんかあ?」


 けさのパドの雲のざぶとんは、いつもよりあつぼったくて、底がたいらで、なんだかおたまじゃくしみたいです。低いお山のまわりには、ソフトクリームの入道雲を、いくつもいくつもつみかさね、高いお山には、生クリームをミキサーで思いっ切りかきまわしたような、うず巻もようのお帽子を、ちょこんとのせてきました。つり糸を、猛スピードでぐるぐる回して!
 たいくつなお空の仕事は、ようやくひとだんらく。いよいよ、パドのなによりお気に入りの、チッポルの丘のある村がみえてきました。

 夏をま近にひかえて、丘のうえもそのまわりも、エメラルド色のやんわりとした光から、ふかい、しっとりとこけ色のかげりを帯びたみどりへと、色の階段をすこしずつ、おりはじめています。

 パドは、丘のま上にやってくると、いつものように光の帯のほし物を、まずまっすぐにたらしました。それから、ざぶとんの雲がおひさまをかくすその瞬間をみはからって、原っぱめがけて光の網を、えい、と投げかけました。網のすそが、チッポルの村のはずれまでいきわたるよう、気をつけながら。

 やあ、いま竜の八人兄弟のお山、ジムリ岳が、パドの雲にむかってごくろうさん、って手を振っています。ハンカチの雲をひとすじ、ゆっくりとたなびかせながら。

 ジムリ岳のふもとには、ポツンとひとつ、オレンジ屋根の光の粒がみえてきました。ちょうどチッポルの丘からのびる、じぐざぐの小道をたどって行きつくさきに。
 そう、パドの大好きなカデシさんの家です。アトリエの塔のてっぺんでは、風見鶏がくるくるまわって、パドのご機嫌をうかがっています。

 「カデシさん、きょうはどうしてるかな? みてみようっと。」
 パドは雲のポケットから望遠鏡をとりだすと、はるかむこう、オレンジのとんがり屋根の下をのぞいてみました。
 色とりどりの絵画がずらりとならんでいます。そのまんなかで、いつものベレー帽をななめにかぶったカデシさんが、パイプをくわえてまっ白いカンバスに向かいあったまま、じっとしています。……いったい、どうしたんでしょう?

 パドは知ってます。こういう時、カデシさんは、パドが降りてくるのを待っているんですよ。いま、カデシさんは、描きたいものをソラでなぞっているのです。もっとはっきりするまで、待っているのです。パドが舞い降りる時、‘それ’がはっきりします。……形をとるのです。
 カデシさんは、パドがつり糸でツンツン、呼びかけた場所を振りかえり、ときにはじっとそこに目をこらすひとでした。いつかは、パドが大好きな場所、ある日パドが舞い降り、カデシさんに話しかけたその場所を、絵にしてくれたこともあります。そう、チッポルの丘のある、原っぱです。
 ときには、ふたりで話した中味やら、その話しかけるようすを、まわりの風景やものの形にたくして、絵にしてくれます。

 じつをいうと、この雲のうえの天使に、パドって名前をつけてくれたのも、カデシさんなのでした。パドはたいそうよろこびました。なにしろ名前で呼びかけられるのは、生まれてはじめてのことでした。それまでパドは、天のくににいる他の兄弟たちと同じ、透きとおった天使、名なしのごんべえでしたもの。
 パドはちかごろとくに、カデシさんのアトリエを、よくおとずれているのです。もちろん、カデシさんの、お仕事のじゃまにならぬよう、姿のないままそっと、アトリエに降り立って、絵をみせてもらうのですが。まあ、ときにはカデシさんのあたまのなかや、まぶたのうらへ入りこんで、じっとしていることもあれば、さかんにおしゃべりしてあげることも、ありますけれど。でもそれはけっして、じゃまをしているわけではないのです。そう、天使のお仕事を、ちゃんとはたしているんですよ。パドがそうできるときは、カデシさんのお仕事の調子がのっているとき、というわけなのです。

 それにしても、パドには、たったひとつ、つくづく残念なことがありました。
 それというのも、パドにはまだ、はっきり面とむかって、カデシさんとお話したことがないのでした。カデシさんのなかに入り込むのではなく、かといって透きとおったままでいるのでもなく、カデシさんと、おたがい向き合って、お話したことがないのです。
 もっともこれは、カデシさんにかぎらず、相手がだれでもおなじことでしたが。向きあうことができない。それは天使というものの、宿命のせいでした。
 じぶんじしんの、きまった姿がないというのは、その点、ちょっとかなしいものです。ああ、だれかパドに、しばらくの間姿をかしてくれればいいのですけど。もしも、地上のだれかの姿をしばらくまとっていられたなら、パドは、カデシさんとごくふつうに、おしゃべりすることができるでしょう。たとえばカブリオルが、子ねこのカノンとフーガが、いつもそうしているように。この、ごくふつうに、というのが、天使にはどうしてもできないのでした。

 まあ、それはともかく、カデシさんはいつも、こう言ってくれます。いつでも遊びにおいで。待っているよ、って。
 「ぼく、いってこよっと。」
 パドは、雲のざぶとんをほっぽりだすと、じぶんのつり糸をつたって、いちもくさんにすべり降りていきました。
 いえなに、ちっともかまわないんです。こうして地上とじかにつながることが、みはりなんかより、よっぽど大切でしたもの。

 そう、パドが降りる時は、カデシさんのこころの中の絵が、そしてカデシさんをとりまくまわりのものすべてが、神様のねがいとひとつになる、ちょうどその時でしたから……。
 チッポルの丘にそびえる、教会の塔のてっぺんに降り立ったとき、パドはもう、雲のうえにいる間のような、光の輪っかにまっ白い翼、などではありませんでした。そう、目にみえない、そこいらぢゅうにあるもの、だったのです。

 パドはね、さも以前からずっとそうでいたかのように、この辺りの風景になりすましていました。それがあんまり上手に、すっかり融けこんでいるものですから、辺りには、なんのへんてつもない光がみなぎっているだけでした。

 でもよくみると、……やっぱり! パドはまったく元気よく、あちこち跳ねまわっています。
 チッポルの丘をとりまく野辺いちめんに、フンフン……あまずっぱい、いいにおいがしています。――クマイチゴのにおい! パドが、まきちらしたのですよ。 それからパドは、原っぱのすみでひるねしている、でこぼこのマイクロバスのまわりを、こもりうたでもささやくように、しばらく漂いました。そしてすぐ近くでうたたねしていた少年の声をかりて、わがままなたんぽぽの精たちに、いまできたばかりの、でまかせの詩を、うたってやりました。

 それからパドは牧場へ飛んでいくと、無関心そうにポツンと立っているサイロのなかへ舞い込んで、またたく間に宙へ消えました。するとサイロは眠気がふっとんで、なんだか見知らぬ牧場のなかに、生まれて来たような気がしました。

 と、その間にパドはもう、牧場のむこうを流れる小川の水になって輝いていますよ! おひさまの光をいっぱいに浴びながら、ラムネ色の矢をはなって、キラキラ踊っています。黄色いセキレイたちが、パドのみちびく波形を追って、すいすい宙をとびかいます。河畔のトネリコたちも、いっしょになって梢を揺すぶり葉を鳴らしながら、まぶしそうに目をしばたたかせています。
 ああ、地上って、なんて気持がいいんでしょう。もううれしくって、しかたありません。

 わぁい、わあ〜い!
 パドは村ぢゅうにとどきそうなくらい、さけびました。…とともに、教会のま昼の鐘が、 ガラ〜ン、ガラ〜ン。 パドそっくりの声で時を告げています。
 パドは空いっぱいにひろがると、ぐる〜ん、ぐる〜ん。大きならせんを描きながら、あっという間に丘をおりていきました……。

                           
              

                        

 ここは、まるでいま生まれたばかりのおとぎの国。――ふしぎな色とりどりの絵が、壁のあちこちにかかっています。
 ガラスの小瓶のなかで、跳ね踊る赤いアネモネの精。
 小川の岸辺におい茂るすすきの指先から、まばゆい空へとのぼっていく、虹の音譜。
 オルゴールのとげだらけな円筒のうえで、玉乗りしている曲芸師の娘と、そのとなりでクモの衣装をまとってあぶなげに綱わたりする、ピエロの少年。
 いちばん奥にかかった絵には、手廻しオルガンを持つ悪魔のおじいさんが、羊門のまえでうとうといねむりをし、そのむこうのかしいだ館のなかでは、魔法使いのおばあさんが、カラカラ糸車をまわしています。べつの部屋には、たくさんの小悪魔の生徒たち。
 そうして、まむかいのちいさな額縁のなかには、みょうにみなれたふたりの子ねこがはまっています。おひげにのった一匹の虫を、ふたりして横目でにらんでいます……。

 「こんにちは、カデシさん。」
 パドは、カデシさんの絵のなかから、ひょっこり顔をのぞかせました。
 その絵は、どこか風変りでした。クモによく似た、黒・黄まだらの八本足の衣装をまとうピエロの少年が、クモ糸みたいに透きとおった、か細い綱をわたりながら、車輪のようにひろがる傘のホネに、コウモリの羽根をはりつけて、くるくる回しているところです。となりには、それとちょうど対をなすように、やはりサーカスの絵がならんでかかっています。それは、まっ白い衣装をつけた曲芸の娘が、オルゴールのとげだらけな円筒のうえで、す足のまま、玉乗りの練習をしているところでした。
 パドは、ピエロの少年がわたっている綱をじょうずにつたって、そっとアトリエに降りたちました。

 「カデシさん?」
 「おや、パドかい? その声は? よく来てくれた! やあ、じつはもうそろそろやってくるような気がしていたんだよ。なんだか、外の景色がきゅうにうれしそうにおしゃべりし出したものだからね。さあ、おいで。」 
 カデシさんは、パドの気配を感じとって、振り向かないまま、そう言いました。

 「きょうはなにを描くの? カデシさん。」
 パドはカデシさんの背中にききました。
 「そうだなあ。ぜひ、パドよ。きみのような男の子が描きたいものだね。」
 カデシさんは言いました。
 「わたしはいままで、きみを通して、神様からいろんな大事なものをさずかったろう? きみのようにあかるくていちずな、くったくのない女の子がほしいとおもえば、カブリオルがサーカス一座からぬけだして、わたしのあとをついてきた。またある日、きみのようにあいくるしい、子ねこがほしいとおもえば、きみのかしこい部分と、あどけない部分をそれぞれあわせもった、子ねこが二匹、やってきた。雨にぬれたカブリオルの学生鞄のなかから、ひょっこり顔を出したんだ。 そう、……こんどはぜひ、こころの奥にけなげな、きみのように透きとおった光をやどした、男の子がひとり、ほしいものだ。」
 カデシさんは、祈るようにそう言いました。

 「だがね、パド。じつはいまわたしは、それがようやく、描きだせそうなんだよ。そう、きみを通してあらわれる、ひとりの少年。きみのまたひとつの、地上でのじっさいの姿がね。」
 「ほんとなの? それ。」
 パドがおどろいてききました。
 「ああ。だんだんと輪郭があらわれてくる気がするよ。とくにこのところ、きみがあししげく、ここをおとづれるようになってからは、みょうにね。なにかこう、足音のような予感がするんだ。」
 「ええ? ほんとカデシさん! ぼく、その男の子、みてみたいよ。ほんとにぼくにそっくりかな? ねえ、会えるといいんだけど。」
 「じき会えるさ。だからきょうはもうしばらく、ここでゆっくりしておいで。そのうち、きっと描きあがるよ。」
 「うん、きっと!……ぼく、会いたいもの。」
 パドは、はしゃいだ声で、ちからづよくうなづいたとおもうと、ふとしばらくだまりこみました。

 やがて、めずらしくおもいつめた口調で、パドったらこんなことを言いはじめました。
 「カデシさん……。ぼく…、まもなくぼくを映してここにあらわれることになるかもしれないっていう、その男の子に、ずっとなっていたいな。その男の子にすっかり入りこんだら、そのままその子になってしまいたいよ。そしてそいつのからだから、ぼくもう、ぜったいにはなれないんだ。そうすれば、大好きな地上にずっといられるし、面と向かって、カデシさんや、カデシさんの家族のひとたちとお話もできる。相手をじっとみつめて、おしゃべりすることができるでしょう?」

 「なんだって? パド。」
 カデシさんは、おもわずきき返しました。

 「ねえ、カデシさん?……ぼくね、まえにカデシさんの娘さんや、子ねこたちが、カデシさんの前にあらわれたとき、そう、つまりあの子たちのなかにぼくが入り込んで、ぼくを映し出してた間にも、そっと思ったのだけど、……どうしてぼくが入り込んだ地上のものたちは、そのままずっとぼくを宿しつづけていられないんだろう? カブリオルにしても、子ねこたちにしても、花たちや、小鳥たちや、その音楽たちにしても……。
 そりゃあしばらくの間いられたり、ほんの一瞬入りこんだりはできるけど、じきにそこを離れなければならない。カデシさんのなかでさえ、永遠にいられるわけではないもの……。ぼくが、地上にあらわれるために、その姿かたちをかりるものは、どうしてそのままずっとぼくとひとつではいられないの? またじきに、透きとおったぼくと、そのものたちの姿かたちとに、別れわかれになるのはなぜなんだろう? そのままずっと、そのなかに、ぼくは住まうことはできないのかなあ?」

 「なあ、パド……。」
 カデシさんは、考えぶかそうな声で、カンバスをみつめたままこたえました。

 「地上の、なにかあるひとつのものだけに、なったままでいられる天使など、いやしないんだよ。天使ってものは、そういうものなんだ。逆にまた、永遠に天使のままでいられる、つまりすっかり天使になり切れる、この世のものだって、ありはしない。それどころか、たいていの地上のものたちは、自分ではちっともそれとは知らずに、天使を宿しているくらいなんだ。もっともそのほうが、天使も入り込みやすいだろうがね。
 さあ、だが、そんなすてきなときばかりが地上にあるわけじゃない。地上のものたちはみんな、天使だけでできているものじゃないからね。それとは別の部分も、あわせもっている。それはけして、それらをべつべつなままもってる、ってことではないけれど。ともかく、ふたつの部分をあわせもっている。ところがある時ふと、天使の部分が、すべてをおおうんだ。ちょうど、自由なものが不自由なものをおおうように。ふっと開けて、なにかが生き生きと通じ合った気がする……。それはそれ、きみが降りてくるときさ!
 ……だがそれは永遠にはつづかない。きみは、別のところへも、おなじように行かれるのでなくてはならない。あるいは、また天にもどるんだ。天使に入り込まれる、わたしたちのほうも、たとえ天使が自分に宿ったのを気づいた者だって、そのままでいたくて、天使を閉じ込めようとすればするほど、逃がしてしまうのがおちだ。たいていはね……。
 それらはおたがいの宿命。たったひとつ、おなじことの、おもてとうらさ。
 天のものと、地上のもの。形のないものと形あるものとは、ときどきひとつになったり、また別れたりするものなんだ。さようならをしているかとおもえばまた、生まれかわってひとつになる。天使がわれわれ地上のものを、生かす:生まれかわらせてくれるんだよ。そしてそのときわれわれのほうは、天使に、それぞれのいろんな姿かたちをかしてあげられる。とびきりいきいきと輝いて。
 神様ではないわたしたちに、できることといえば、そのふたつが、なるべくちかく、よくむすばれるようにすることだろうね。そう、そのふたつがしょっちゅう、あるいはつよく、たしかにひとつになれるよう、ねがいたいものだね……。」

 「いやだい、いやだい。」
 パドはだだをこねました。
 「ぼく、ずっと、これから会えるその子のなかにいて、ずっとそいつの姿かたちのままでいるんだい! ぼくもう、透きとおってるのなんて、いやだもの。」
 「ほっほう。」
 カデシさんはわらいました。背中がくっくっ、揺れています。

 「パド。それじゃあ、まるでこれからここへやって来るにちがいない、だれかさんとおんなじようじゃないか。そうそう、ちょうどいまごろ、その子もこう言ってるのにちがいないよ。
 いやだい、いやだい、こんな不自由なからだなんか、もうまったく透きとおって、お空へ消えてしまいたい。なんだってぼく、こんなところに、とじこもってなけりゃならないのさ。ここをぬけだして、ほかのところへ生まれかわりたいよ。ぼく、どうして、天使に生まれてこなかったんだろ? 天使みたいに、羽根でもはえて、自由にいろんなところをさまよえたらなあ。どんな世界のなかへも、すっぽり入りこめたらなあ! このからだが、光のように、空気のように、見えなくなるくらい透きとおって!……なんてね。
 はて。いったい、そう言ってるのは、どこのだれかな? いまごろ、どこでなにをしているのかな? ふっふっ。」

 カデシさんは、パイプをはなして、口でぷっぷか、輪っかをつくり、アトリエのたかい天井へほどいていきました。
 「なにいってるのさ? それじゃ、まったくぼくのと反対のおねがいだい!」
 パドがむきになって言いました。
 「反対だが、じつはおなじひとつのねがいごとさ。」
 カデシさんがすましてこたえました。
 「無理もないと、わたしも思うがね……。だがね、パド。それはやっぱり、どうしようもない、かなわぬねがいなんだよ。
 そう……。われわれ地上のものが、かぎりのない、まったく自由な、透きとおった存在になろうとするのが、無理なねがいなのとおなじように、もしも天使が、地上のなにかひとつの、きまりきった姿かたちのままでいようとしたり、それを自分じしんの姿にひとりじめしてしまおうとするのは、けっきょくは無理なねがいなんだ。もし天使が、むりやりそうしたとすれば、そいつはきっとたちまち「天使」では、いられなくなってしまうだろう。そう、もう二度と透きとおったものに、還れなくなってしまうんだよ。」

 「還れなくたっていいよ。ぼく、地上の、形があるもののほうがよっぽど好きだもの。透きとおったものになんか、もどれなくったって、かまわないやい!」
 「ほんとうに、そうかな?」
 カデシさんはゆっくりと聞き返しました。


 「いいかい、パド。きみが地上を好きなのは、いったい自由にいろんな場所にただよったり、いろんなものの姿に、あちこちで生まれ変われるからじゃぁないのかい? もし、たったひとつにからだをきめられて、ほかのかたちのなかへは、いままでのようにそうかんたんに入りこめなくなってしまったとしても、それでももとどおり、透きとおったものに、もどりたくなることなどないと、言い切れるかね?

 だいいち、そんなふうに、天使が天使としての役目をすててしまったら、
地上の、できるだけ多くの、いろんなちがった人間や生きものが、それぞれに、たとえ一瞬でも天使そっくりに生まれ変わる、そんな機会を、すっかりうばってしまうことになるんだよ。そうしてパド、きみじしんも、もうほかのいろんなすばらしいもののこころをうごかしたり、そこいらじゅうのすてきなかたちをとることもできなくなる。しあわせなうた声をそこらぢゅうにまき散らすことも、できなくなるんだ。
 それでもいいのかい?」

 天使のパドは、もうそれ以上なにも言いませんでした。

 「ああ……。そうだ、だがパド。わたしに、ちょっとした名案があるよ。それはもちろん、けして永遠に、というわけにはいかないけれど、うまくすると、これからきみは、だれかひとりのなかにしばらく宿ったままで、しかも自由にいろんな場所やほかのひとたちのなかへも同時に出入りする、ってことが、できるかもしれないよ。きみはひとつのきまったところに閉じ込められずにこれまでどおり自由でいて、しかもあるひとりのこころのなかに、住まうんだ。」
          

 「え? そんなこと、ほんとにできるの?カデシさん。」
 パドは息をのみました。

 「もちろん、たったひとつだけにきみが閉じこもらない、っていうのが、条件だよ。つまり、こういうことさ。きみには、いわば分身の術をつかってもらうわけなんだ。ひとつのところにいたまま、同時にいろんなところにもいられるようにだ。いいかい?」
 「いいにきまってるさ。」

 パドは大声でどなりました。自信たっぷりにこう言ったのです。
 「ね、カデシさん! じつをいうとそういうことは、ぼくのおおとくいなんだ。知ってる? あのね、いままでだってぼく、分身の術なんて、しょっちゅう使っていたんだよ!」
 「ほっほう。」
 カデシさんは、目をまるくしてみせました。パドはいっそうとくいになって話します。

 「地上に降りるには、ときどきそんなわざを使うことも必要なのさ。たとえばよく地上のみんなが、同じなにかを同時に見るときがあるでしょう。そんなときには、ぼくはその〈なにか〉のなかに入りこみながら、それを見てるひとりひとりの目のなかへも、いちどに入ってあげなくっちゃならないからね。」
「なるほどね。」

「それにね、カデシさん! ほんといえば、天使ってものじたい、もとはといえば分身の術でできてる生きものだ、っていってもいいくらいだよ。天のくにでは、じっさいぼくら天使の兄弟は、しじゅうそうしているもの。だからそんなの、かんたん。お手のものさ!」
 「ほう! そうかい。天のくにで、分身の術ね。……そう。天のくにには、パドのような天使がたくさんいたのかい。」
 カデシさんは、おどろいてみせました。

 「そうさ。みんな名もない、ぼくによく似た兄弟たち。いっしょにうまれた、神様の分身だよ。透きとおった、神様のひとつのからだ。そしてぼくら兄弟は、ひとつからたくさんにわかれたり、また出会ってひとつになったりして、じょうずにたすけ合ってはたらくよ。」

 「そうなのかい。天使はばらばらに、はたらいているんじゃないのかい。」

 「うん。もとはひとつの、神様のからだだからね。まあ、地上のおつかいするときは、それぞれがみんなとわかれて、なにかの形にきまるけれどね。でも天使は何人かと組んで降りるときも、ときにはあるよ。ぼくなんかは、天のくにより、どっちかというと地上のほうがすきだから、よくみんなからはなれて雲にのっては、地上のだれかに気づいてもらいたくってうずうずしながら、つり糸をたらすけど、あまりそうしない兄弟もいるよ。地上のおつかいが、好きじゃないのかな?…… 

 ぼくは、じきカデシさんとつながって、パドって名前をもらったし、そのときから雲のうえでは――つまり天と地上のあいだでは、――カデシさんやまわりのみんなが想像するとおりの姿、光の輪っかに白い羽根を、うっすらと帯びてもいるけど、そんな仮りの衣装なんか、ちっともまとわないやつもいる。そう、いつまでも名もない、透きとおったままのやつだって、いるんだ。きっとそのほうが、神様に近いと思っているんだよ。
たまに地上に降りたとしても、そういうやつは、むずかしい文字のすきまにもぐったり、あまり形のはっきりしないものに入り込む。そう、雰囲気とか、霊感とか、暗示だとかってやつにね。」

 「そういうわけかい。」
 カデシさんはゆっくりとうなずきました。 

 「ってわけで、まあともかく、ぼく分身の術はお手のものさ。まかしてよ! それじゃあ、そいつひとりだけの中に閉じこもらないって約束すれば、そいつんところにしばらくいてもいいんだね?」
 パドはわくわくして言いました。

 「そう、まあしばらくの間。いつもより、すこしは長くね。」
 「わあい、わあい!」

 「どれだけ長くいられるかは、たぶんこれからあらわれる、その子の〈ひとがら〉によるけれど、それはきっと、だいじょうぶだろう。
 というのも、その子は、天使がそっと自分のなかに入りこんだのにもし気づいても、しばらく天使に逃げられずにいられる、ちょっとふしぎな、やんわりとした心の術を、こころえているやつかもしれないんだ。
 つまり天使をひとり占めせず、そのあたりに自由にさせたまま、自分のもうひとつの部分とも一心同体でいてもらう、そんなちょっとしたやわらかい魔法を、自分にかけることができるってことかもしれないんだがね。
……そうそう! それと、そのなかに、きみがすこしでも長くいることがゆるされるように、わたしがいまからちょっとしたさいくをしよう。夢のなかのようなね。
 それは、ちょうどシャボン玉が、しばらくはじけずに宙をおよいでいるくらい、むずかしいことかもしれないんだけれど、どうだい。やってみるかい?」

 「やるよやるよ!」
 パドは、はしゃぎ声をあげました。

 「そのためにはパド。まずきみに、これからちょっとした冒険をしてもらおう……。そうそう、きみにも、それからきみと合体してもらう、あいぼうにも。」
 「あいぼう?」
 パドは聞き返しました。
 「そう。これからこのアトリエにやってくる、だれかさんのなかに、きみといっしょにしばらく入り込んでもらう、ちいさなやつだよ。だれかさんのなかの、天使でない、もうひとつの部分になって、はたらくやつさ。」
 カデシさんが言いました。

 「ぼくといっしょに入るやつ……。もうひとつの部分……。ねえねえ、カデシさん! じゃあそいつが、だれかさんって男の子のなかで、そのイッシンドウタイっていうのになるために、ぼくと組むやつなの?」
               

 パドが、むずかしそうに口をゆがませながら、たずねました。
 「……そのとおりだ。」
 「そりゃすごいや。わあい! 冒険だ、冒険だ。ね、でそれは、いったいどんな冒険なの?」
 あちこちはしゃぎまわって、パドは聞きました。
                      
 「絵のなかでするのさ。」
 「絵のなか? 絵のなかへはいるの? それなら、いつもやってるやい。」
 「だが、きょうのはただ出たり入ったりするだけじゃない。つれてきてほしいんだよ、その、ちいさなやつを。絵のなかの世界から、脱け出したがっているんでね。」

 「あいぼうを、だね? ここへつれてくればいいんだね? アトリエに!」
 パドは、おもわずカデシさんのベレー帽にちゃっかりのって言いました。と、そのとたん、カデシさんがなにか思いついたように、手をたたいて言いました。

 「そう。……あ、それからね、パド。きみはシャボン玉をつくるのが、とくいかい?」
 「うん。まあたぶん……。」

 「こんなふうに、つくれるかい? フッ、と息をふきかけて、虹のようなシャボン玉が生まれたら、ここがちょっとむずかしいよ……。きみが、そのなかへ入るんだ。つくりながらだよ。こわれないように、そっとね。シャボン玉の輪が、閉じるとき、きみはそっと入り込む。そのつくり手であり、透きとおった中身であり、しかもいまにも閉じようとする、その膜じしんでもあるように……。これはそうとう、むずかしい技だよ。神さまでさえ、自分の創ったもののなかに、ついついごじしんは入り込めないでいるのだからね。……どう、できるかい?」

 「うん。ぼく、やってみるよ。」

 「シャボン玉のなかにはね、きみのあいぼうをのせるんだ。かれがきみをよく見ようとしないように、なるべくうしろからそっと付き添うように。そう、いわば見えない膜でそっと包み込むようにね。そうしてこのアトリエぢゅうを、旅行してごらん。そのうち、シャボン玉はわたしのこのカンバスになかへすい込まれるだろう。それまでには、この絵も、仕上がっているとおもうよ。……わかったかい? パド。それさえできれば、きみはそのあいぼうとともに、これから訪れるひとりの少年のなかに、入り込んでいられるからね。いいかい?」

 「わかった。ぼく、きっとやるよ。」
 パドは元気よく言いました。

 と、カデシさんはもう、木炭でカンバスをそっとなぞりはじめています。……なにごともなかったように。

 「カデシさん、じゃぼくきょう、ほんとにずっと、ここにいられるんだね:?」
 「ああ。自由にしておいで。」

          *


 アトリエぢゅうの絵を見まわすと、パドは見おぼえのある、ひとつの風景のまえにちかづいていき、つくづくながめはじめました。
 それは、パドのいちばんのお気に入りでした。あかるい、野辺の丘。――雲間から、一条の透き通った日ざしの帯がまっすぐに降りて、丘にとどいています。
 丘のてっぺんには赤い屋根。塔の十字架はぽつんと、真珠色の星のようにかがやいてみえます。
 「チッポルの丘だ。」
 いつものように、パドはとくいそうにつぶやきました。
 「そうだよ、パド。きみが照らす丘だ。」 カデシさんも、いつものようにこたえました。パドはにこにこしました。

 むかいの壁にもうひとつ、同じくらいの大きさの額縁にはまった、ふしぎな絵が、かかっています。チッポルの丘とは、なにか正反対の雰囲気をかもしています。

 それは、なんとなく眠い、夏のお庭でした。うっそうとしたしげみのまん中に、ぽっかり空いたひだまりがあります。がらんとしたそのひだまりには、一本のハシバミの木がたっていて、梢のてっぺんからおもちゃみたいな虹がかかり、お空にとどいています。いっぽうその根もとには、木陰が不気味なほどくっきり、映っていて、時間をすいこんでいます。

 その奥には、おじぎしているキノコみたいな、ひからびた館があります。それはよく見ていると、ちょっと不気味な、幾つか尖った塔のあるお城のようにもみえるのですが、そのうちまたまたふくらんで、おどけたキノコたちの姿にもどってしまうのでした。
キノコのかさのお屋根たちは、すすけたオレンジ、壁はひからびた灰色をしています。

ツノみたいに曲がったエントツがくんにゃりとのびています。

 キノコ館のまんなかの、一番高い風見の塔には、ニワトリのかわりに、魚の骨がつきささっています。入口の扉には、ドクロがかかり、歯をカタカタいわせてよそものの気配を知らせます。
 キノコ館の中には、巣穴めいた通路がくねくねのびて、いくつかの小部屋にわかれています。
 エントツが通じている部屋は土間になっています。となりの部屋には、悪魔の子どもたちがあつまって、なにやらガヤガヤやっています。みんなまっ黒い衣装を身にまとっています。先のとがった黒いシッポをつけ、頭にはちんちくりんのツノをはやしています。部屋にはなにやら黄色いけむりがもうもうとたちこめているようです。

 広間では、魔法使いのおばあさんが、糸車をカラカラまわして糸をつむいでいます。その隣には、ちいさな男の子が、ほかの悪魔の子どもたちから、ぽつんとひとり離れてすわりこみ、おばあさんのお手伝いをしています。

 広間からだいぶ奥まった、オルゴールのかたちをした箱部屋には、織物をしている女の子がぽつんと座っています。びっしりならんだオルゴールの金のくし歯のはた織り機をひとりこいでは、織物を仕立てているのです。女の子は、まるでバレリーナのようにまっ白な衣装を身にまとっています。オルゴールのはた織機から出てくるのは、黒糸の五線譜の織物です。やがてまっ黒な悪魔の衣装に仕立てられるのでしょう。トゲのはえた、ぜんまい仕掛けの円筒が、はた織の歯さきでぐるぐる回り、奇妙なメロディをつむぎ出しているのが、聞こえるようです。

 さて、キノコ小屋の外には羊門があり、かたわらには、白いあごひげをはやしたおじいさんにばけた、魔王がどっかり、腰をおろしています。シルクハットは足元におき、さもおとなしそうな顔をして、手廻しオルガンを持ったまま、うとうといねむりしています。……
 「カデシさん、この絵、なんかへんだよ。」
 「おや、やっぱりそうかい。」

 たしかにへんです。パドはいつも、この絵をみるたび、へんなの、って思っていました。
 でも、きょうはことのほか、ようすがおかしいんです。じっと見ていると、小屋のなかから、だれかのさけび声が聞こえてくるんですもの! と、そのうち、絵のすみにいたオルゴールの箱部屋の女の子が、はた織機のまえにすわったまま、胸のうえで手を組んで、なにやら祈るようなおももちで、おまじないめいた文句を、口のなかでブツブツ、つぶやきはじめたのです。

 はてさて、それからは、いったいどうしたことでしょう。アトリエにかかっている、ほかの絵までが、ガタゴトいいはじめたではありませんか。

 ひとつは、ガラスの小瓶にとじ込められた、アネモネの精の踊り子でした。ぐるぐる回ってとび跳ねながら、コルクの栓をいまにもあけようとしています。

 もうひとつは、あの一対のサーカスの絵。クモの衣装を身につけた、ピエロの男の子のほうは、綱のうえでまだじっとしています。でも、玉乗りの少女のほうは、どうでしょう? なにかもう、いてもたってもいられないというように、ステップを踏みはじめたではありませんか……。少女を乗せたオルゴールの円筒は、だんだんと速度をましながら、めまぐるしく回りはじめました。
 円筒の下にずらりならんだくしの歯に、とげが当たってはじき出される音楽も、それはもうペチャクチャペチャクチャ……、おとぎばなしのメロディを、猛スピードでまくしたてています。

 曲芸師の娘らしい、その玉乗りの少女は、衣装こそはたんぽぽの綿毛のように白いけれど、よくみると小瓶のなかのアネモネの精と、よく似た顔ではありませんか。

 そういえば、キノコ小屋の奥の箱部屋にいる、はた織の少女も、いくぶん内気そうな表情はしているものの、顔だちは、ほかのふたつとそっくりでした。

 少女の顔ばかりではありません。はた織機だってそうでした。曲芸の絵のなかで女の子が乗っているのとおなじ、金のオルゴールでできているんです。

 パドは、こうしてアトリエの絵をみくらべているうち、いくつかの絵が、なにか、あるひとつの糸で結ばれていそうなことに、ようやく気づきはじめました。

 男の子だって、そうなのでした。それがだれかはわからないけれど、ともかく魔法使いのおばあさんの隣でコウモリ傘をつくっている、キノコ小屋の絵の小悪魔は、クモの衣装を着て綱わたりする、ピエロのこどもと、うりふたつです。

 それでは、このピエロの反対側の壁で、ちいさな額縁のなかにおさまっていた、ふたりのねこは?……ふたりのねこ!
 そういえば、アトリエぢゅうでいっとうかわいらしい、子ねこたちの肖像画は、どうしているでしょう?
 「あれれ?」
 パドは、きょとんとしています。なぜって、さっき見たときは、ふたりの子ねこはお顔をこっちに向けていて、ピンとはったおヒゲのうえをはう虫を、横目でにらんでいたはずだのに、いまはすっかり背中をむけて、ふたりして奥の景色をしきりにのぞき込んでいるんですもの。
 いったい、どうなっているんでしょう?

 「ニャワ〜ン」
 「グルワ〜ン」
 ふと、ふたりの子ねこは鳴き声をあげました。それぞれシッポをトントンして、いっしょけんめいカデシさんに、なにかうったえはじめましたよ。

 「どうしたんだい? カノンや、フーガや?」
 カデシさんは、パレットに手早くえのぐをときながら、落ちついた声でたずねました。
 「なにかあったのかい。」
 というまに、ふたりのねこは振りかえるなり、いきなり絵の外へ、トン、とそろって飛びおりました。

  おやまあ! いままで額縁だとばかりおもっていたのは、ほんものの、小さい出窓の窓枠でした。カデシさんが、あそびごごろで、出窓の壁に、金のふちかざりをとりつけていたのです。うしろの景色とみえていたのは、ほんものの、窓からみえるチッポルの丘の風景なのでした。

 かわいらしい子ねこの姉妹は、ニャオ、ワオ。ご主人に、しきりになにかを知らせながら、えのぐだらけのズボンにからだをすりつけます。それは、こう言っているのでした。
 「カデシさん、いまから何かおこるよ!」
 「何かがやってくる気がするわ?」 って。
 窓の外を見てみましょう。チッポルの丘を。

 教会の塔のてっぺんで、十字架のお星さまがまたたいています。なにかの信号のようにも、おもえます。パドがいつも、ま上から、ツンツンするときとおなじような、あのまたたきです。いつもパドがどきどきわくわくすると、塔のお星さまもこうしてまたたくのです。まあ、いまパドは、雲のうえではありませんけれど。
 絵のほうは、どうでしょう? 絵の中の丘は?……振りかえりますと、ほんものそっくりのまばゆい光に照らされた丘のふもとから、ほんものそっくりにはてしなく広がる、あの原っぱを見おろすように、森をぬけ、ほんものそっくりにじぐざぐ折れた、たんぽぽの小道がこっちへむかってのびています。その小道をたどって、おや? 虫のように、ほんのちいさいなにかの影が、えっちらおっちら、坂をのぼってやってくるではありませんか。

 「とうさん!」
 おもわずそう叫んだとおもうと、天使はいつのまにまっ赤な服のひだをひらひらさせて、カデシさんのほうへ近づいていき、柔らかな白い手で、とん、とカデシさんの肩をたたいていました。
 「よう。どうしたね? おさげちゃん。」 カデシさんが、いつもとちっとも変わらぬえがおで、振りむきます。
 「また、おさげちゃん? カブリオルといってよ。」
 女の子は元気よくさけびました。パドそっくりの声で。
 「ねえ、とうさん。あたし、きょうは何だか胸がさわいでしようがないわ。」
 女の子はスカートのすそをまわしながら、アトリエの床を踊りあるいて言いました。

 「ほんと! カブリオル。あたしもあたしも。」
 「なんだか胸がどきどきするの。きっとなにかがやって来る!」
 ふたりの子ねこも、口ぐちにそうさけびました。あちこち飛びはね、ちいさい鈴をチリチリいわせながら。それはそれは、パドそっくりのはしゃぎようです。
 そしてカノンとフーガと、カブリオルは、声をそろえてこう歌いはじめました。

 「フンフン、なにかがよんでいる
  フンフン、なにかがさわいでる
  フンフン、なにかがやってくる?
  さてさて、それはなんでしょう!」

 「きっと、それは特別の日! ふしぎな光のできごとの日!」
 カノンが、茶トラのシッポを巻いて、ゆらゆらゆらしていいました。

 「きっと、天使がやってくるんだ。だれかにばけて、じゃなかった、だれかのかっこして! あたちたちんとこへやってくる!」
 フーガが、おもちゃみたいにカタカタ跳ねてさわぎました。

 「きっと、それは男の子よ! ほらみて、だれかが坂をのぼってる。あれはたしかに男の子。」
 カブリオルは、まるで虫でもはうように、絵のなかの小道をあるいている、ひとつの影を指さしました。

 「ちがうよ。あれ、虫さんだよ!」
 フーガがわめきました。
 「そうじゃないったら。もっと近づいておおきくなれば、わかるんだから。あれは絶対、男の子! あたしにはわかる。予感がするの!」
 カブリオルは、踊りあがってそう言うなり、
 「まあ! それはそうと、ほらほら。なんてことでしょう? うごいている絵は、あそこだけじゃあなくってよ。ほかの絵をごらん? カノン、フーガ!」
 カブリオルは、アトリエのあちこちを指してみせました。

 「いつかあたしが、このうちにやって来たときとおなじ。胸がわくわく! なにもかも、そっくりだわ。ほら、その証拠に、あのときとおなじ、ガラスの小瓶の踊り子が、むやみとくるくる回っているし、サーカスの少女だって、さっきまではまるで憑かれたように、玉乗りしてるとおもったら、いまにもやめて、曲芸団の列から脱けだしそうよ! おつぎは、ほらあそこ。魔王の学校の地下室にとじこもってる、妖精の女の子なんか、いまは気もそぞろ。たましいの脱けがらみたいになって、すわっているわ。もう手も足もうごかしてはいないのに、はた織機だけが、パタパタからまわりしているの!」

 「ほんとだ、ほんとだ。」
 「おまけにみんな、カブリオルに似てる!」
 カノンもフーガも、目をさらのようにしています。
 「そうさ。たしかに、なにもかも、あの日とそっくり。」
 カデシさんは、パイプを片手に、満足そうにうなづいています。
 「そっくりどころか、それ以上よ。あたしが、こんど来るのは男の子だっていうのも、このせいだわ。みて!」

 カブリオルは、ピエロの坊やを指さしました。
 さっきまで、宙にピタリととまったままのはずだったのに、いつのまに、あぶなげな足どりで、すこしづつ、綱わたりをはじめているのです。コウモリ傘のホネをくるくる回しながら。……

 カノンもフーガも息をのみ、すっかりくぎづけになってこれに見入っています。

 クモの衣装のピエロの子どもは、じりじりと、やっとのことで、透きとおった綱のまんなかまで、たどりついたとおもうと、いきなりパッ、とひとつ、ひらめくような宙返り!……

 と、そのとき、ぐらぐらっ。綱がおおきくゆさぶられました。 
 「あ!」
 「あぶない!」
 カノンとフーガと、カブリオルが、あわててその絵に駆けよると、おや?……
 ピエロはいまにも落っこちそうなかっこうのまま、とまっています。身うごきひとつしていません。
 まっ赤にぬった口は、わらってはいますけれど、さっきからおんなじ大きさのまま、ちっとも変わりません。
 でもなにか、変わったような気がするんだけど? もとどおりのかっこうはしていても、ピエロはもう、すっかりたましいの脱けがらのようになって、しずんでいます。

 「ちがうったら! みんな。ぼくだよ、宙がえりしたのは。」
 パドそっくりのわらい声が、どこからともなく呼んでいます。
 みんながきょろきょろ、あたりをさがしていますと、さっき見入った絵のなかで、ゆらゆらしていたわたり綱をつたって、一匹のクモの坊やがはいだしてくると、たったいま、つむいだじぶんのたて糸を一本、ツッゥ、とつたい降りてきました。

 「あっ、こないだのクモさんだ。」
 カノンとフーガが声をそろえてさけびました。

 「あはは。また会えたね。」
 「なあんだ、あんただったの。」
 カブリオルは、ちょっと肩をおとして言いました。

 「がっかりさせてしまいましたね。まあ、ひとつよろしく。」
 クモの坊やは、パドそっくりに、じつにさっぱりあいさつすると、目のまえにせまっている、ピエロと玉乗り娘の絵を、かわりばんこにしげしげながめました。

 「それはそうと、」
と、しばらくしてクモは、もったいぶって前足を組みながら、
 「だれかがこのアトリエにやってくるって、知ってるかい?」
 そうカノンとフーガとカブリオルに、たずねました。

 「知らないけど、そんな気がしたわ!」
 「気がしたわ!」
 「でもそれ、いったいだあれ?」
 みんなは口ぐちにきき返します。

 カデシさんは、お口をゆがませてわらっています。カンバスには、木炭で、うっすらとけぶたげなひとりの少年のデッサンが、おおざっぱに描きかけてありました。そのうえにいま、すこしづつ、つよい線がくわえられています……。 カンバスのあちこちをはしりまわる、木炭筆のむこうがわから、男の子らしい輪郭が、だんだんとはっきり、浮かびあがってきます。

 少年の身なりはきたならしく、シャツにはかすかなしま模様が、はいっているようですが、すすけてはっきりとはわかりません。でも、その顔は小川の水のようにすみきっています。なかでもその瞳は、ひたひたと遠くをみつめ、まるでそのむこうにあるなにかを、いっしんにすかしみしているようです。

 さて、しかしみんなは、そんなことも知らず、しきりにさわぎのつづきをしています。

 「たったいま、ぼくは耳をすまして、いろいろと聞いてきたばかりなんだ。この、アトリエぢゅうの絵がささやきかける、内緒話をね!」
 クモの坊やが言っています。

 「で、いまからぼくは、クモになって、小悪魔とそっくりのなりをして、ある男の子をたすけに行こうとおもうんだ。」


 「クモになって!?」
 フーガがすっとんきょうなわめき声をあげました。
 「クモになって…って、はじめっからクモじゃないの。」
 カノンも、すかさず言いました。

 「やあ、まちがった。そうだっけ! あんまりこうふんして、もともとじぶんが何だったのかも、わすれちまった。」

 パドの声をしたクモは、とぼけたべんかいをすると、しばらくだまって、ひと息つきました。
 カデシさんの肩が、なんだかくっ、くっ、ゆれてみえます。カブリオルが、けらけらわらいました。

 「ともかく、」
 と、クモはあたまをかきながら、カデシさんのほうへ近づいて行くと、
 「ねえ、ちょっとだけ、これかして!」
 そう言って、カデシさんからいそいでパイプをかりました。

 クモはあっという間に、キノコ館の絵のまえにやってくると、エントツからでてくるあやしげなけむりを、よくよくみつめ出しました。

 黄色いけむりは、それはものすごいいきおいで、もくもくうごき出したとおもうと、あとからあとからミミズのような字になって、アトリエにまでわき出してきましたよ! 
 けむりは、しきりに信号をおくっています。


 へんちくりんの、みたこともない字です。
 「ふむふむ、なんだかよくわかった!」

 クモはひとりで拍手してから、カデシさんにむかってこう言いました。
 「なんだか、カデシさんのいうとおりだ。わがままな子は、ここにいたよ。」

 と、そのうち黄色いけむりが、もういちどもくもくこっちへやってきました。けむりの字は、こんどは何かおねがいするように、アトリエの天井へとひたすらのぼっていきます。

 「こりゃあ、たいへんだ! いそがなくっちゃ。」
 クモの坊やはそうさけぶなり、いそいでカデシさんからパイプをかりると、すぐそばにいるカブリオルにたのんで、パイプをくわえてもらいました。

 「いいから、とにかくそれを吹いてよ!」
 カブリオルは、言われるままに、けむりのお返事をぷっぷかぷっぷか、ふきはじめました。なにやら、わけもわからずに。


 けむりは、まあじょうず! キノコ館のいっとう高いお屋根からにょっきりはえ出たエントツへ、みるみるはいっていきましたよ。
 カノンとフーガは、すっかり感心して、目をぱちぱちさせながら、ピンク色したふかふかのクッションみたいな手のひらが痛くなるほど拍手しました。
 うまいうまい! クモの坊やにおだてられながら、カブリオルは、まだどこか、きつねにつままれたような顔をしています。
 いったい、けむりとけむりは、どんなお話をかわしあったのでしょう?
 けむりの交信がすむと、クモの子は肩にのって、カデシさんにパイプを返しながら、とくいそうな声でこんなことを言いました。

 「カデシさん。もしかすると、じきこのアトリエ、もうひとりふえるかもしれないな。」
 「そうかい。それはすてきだね。なかよくしておあげ。」

 クモの子は、おおきくうなずくと、すぐさまおしりから透きとおった糸をつむぎだしました。そして、絵のなかにくんなりつき出たキノコ館のエントツに、糸のさきをとりつけました。
 クモの坊やは、みるみるそれをつたってよじのぼり、あっという間にエントツのなかへすがたを消していきました。
 そのときちょうど、アトリエの、あかりとりの小窓から、たんぽぽのわた毛がひとつ、あわ雪の踊り子のようにゆっくりとまわりながら、ふわふわ舞い降りてきました。それは、ちょうどいま、クモの坊やが姿を消した、キノコ小屋の絵のまわりを漂ったとおもうと、クモの坊やを追いかけるように、ふっとエントツのなかへすい込まれていきました。

 カノンとフーガは、いつまでも、じっとその絵に見入っていました。耳もおヒゲもピンピンはって。どきどきしながら、祈るような気持で。……

 さて、カブリオルはといえば、まっ赤なスカートのすそをひらひらさせてアトリエの外へ飛びだすと、いちもくさんにたんぽぽの小道へむかっていたのです。それがあんまりすばしこくて、カノンもフーガもちっとも気付かなかったほどでした。

 そのころ、カデシさんの描いた風景画ーーあのうっそうとした森をぬけ、チッポルの丘を見おろしながらじぐざぐのびる、たんぽぽの小道をのぼっていた、虫けらのようなちいさな影は、地面にくっきりと映し出された木陰の模様と、いつしかひとつにかさなって消えていました。……


     書斎

next