《Cahier》文学編

(注:これは創作(Essay)ではありません noteです)

〜文学空間から童話へ〜

 1997’7月3日

長編童話「天使パド物語」
      記するにあたっての
雑記帳

――――M・ブランショ「文学空間」
       の記述に添って――



注)下記文章中

―色字 ブランショ自らによるリルケその他の引用
―色字… ブランショ「文学空間」より.Rei抜粋の文章
―色字… Reiの雑記
―色字 Reiによるリルケの引用


◎参考:童話「天使パド物語」へリンク









 7/3  リルケ/ブランショ
         自我;非=自我・無意識


 *童話の第3(少年詩人オトノムの)章の冒頭

  (無意識;オルフェウス的無辺さ;純粋に開かれた空間
  
否定のないどこでもないところ――リルケ:ドゥイノ第8悲歌)
  
 ◇ はらっぱ、丘へのぼる一面のたんぽぽ
  
――無限であり、意識の枠がなく、己が状態に向ける目をもたない(リルケ)――


 
M・ブランショ「文学空間」
 
 
・(書くとは)終わりなきもの、止まざるもの
 ・語ることを止め得ぬもののこだまとなることだ
 
中断することなき断言、言語がその上に己を開示することによってイマージュに、想像的(イマジネール)なものになる巨大なつぶやきを{ききとれるもの}とする
のだ

 ・死せる現在とは、何らかの現存を実現することの不可能性だ、 
  一切の現在に重なりあうものとして現にそこに存在している
  不可能性、現在がおのれのうちに担い、つつみかくしている、
  {現在のかげ}だ。
  私が孤独である時、私は孤独ではなく、この現在のうちにあって
  既に、私は、「誰か」(quel qu'un)というかたちで、
  私に立ちもどっている。誰かが、そこに存在し、そこで、私は
  孤独なのだ。私が孤独であるところでは、私がそこに存在する
  のではなく、誰ひとりいるのでもない、だが非人格的なものが
  そこに存在するのだ。

 ・(幻惑の場においては)人の見るものが、視覚をとらえ、視覚を
  終わりなきものにする、またそこでは、視線は光となって凝固し
  また光は、人がそれを見もしないが見ることを止めもしない一個
  の眼の絶対的な輝きである。――なぜならそれは鏡に映ったわれ
  われ自身の視線なのだ/何かじっと動かぬもの

 ・視線が、何の視線も輪郭も持たぬ深み
 

 
・(文学空間の言葉) : 引用memo
それは本質的に、
「彷徨するもの」だ、この言葉はこだまによく似ている。こだまは、「最初に呟かれたことを声高に言いあらわすばかりでなく、囁きにみちた広大なひろがりに入り混り、響きあう空間と化した沈黙」となる。「あらゆる言葉にみちた外部と」なる。ただ、この場合、「外部は空虚であり、こだまは、『時間の不在のうちでの予言的なもの』として、」前もって、繰返し語っているのだ。

 ・[出エジプト記]
「汝おのれのために、何の偶像(イマージュ)をも彫むべからず、また、上は天にあるもの、下は地にあるものならびに地の下の水の中にあるものの何の形(フィギュール)をも作るべからず」
――想像界(イマジネール)の彷徨(エルール)
#イマージュとイマージュの空間以外に何ひとつ留まるべき処も生きる手段も持たず想像的なものの中に追放されているのを出す 

            
(ブランショによるまとめ)


 
・彼岸としての死(生の側面)
死が、われわれの学び知り、認知し、迎え入れ――おそらくは促進しなければならぬ、一個の彼岸であるのは、この地上においてであり、「純粋に地上的な、深い浄福なる地上的意識において」
〜(#リルケに於る“キリスト教的解決”の拒否)
 
…………この領域は、「われわれに背を向け、われわれの手を逃れ去っているもの、一種の超越」なのだろうか?」

〜知っているのは、自分が、それから「外らされて」いることだけなのだ。
〜自分の前にあるものしか見えないが、背後にあるものを、心に思い浮かべることは出来る。意識によって、われわれは、いつでも現に自分がいるのとはちがった場所にいる。
(同時に不幸として)われわれが、絶対的におのれの外を見つめていると時でも、われわれは、自分自身に直面しているのだ。

  
(#表象による直面性という束縛の復活、自意識、対自、即自の喪失)――Reiまとめ 
   

 
“これが運命と呼ばれるのだ、向きあっていること、
  それ以外の何ものでもない、常にただ向きあっていること”
                 ―――ドゥイノ第8悲歌
               
 “そのすべての眼で、被造物は、
  開かれた世界を見ている。われわれの眼だけが、
  いわば逆転されている…”
                 ―――同上       

 〈世界内面空間〉
 “あらゆる存在をつらぬいて、唯一の空間がひろがっている、
  世界内面空間が。われわれをつらぬいて
  鳥たちが黙々と飛んでいる。おお、私が伸びようとして、
  外部を見つめる、すると私の中に、一本の樹が伸びている。”
                 ―――後期詩集


 
・詩作品の空間――すべてが、奥深い存在に転回している空間
  あの二つの領域の間の限りない移行が存在する空間
 [もっとも大いなる循環と絶ゆることなき{変身}の空間]

→#オルフェウスは‘天使’として存在しているのではない、天使の中で、変形が成就され、天使は変形のもつ危険も知らないが、またその恩恵や意味も知らぬ。オルフェウスとは変身の営為
 


 
・鳥たちが横切り飛ぶ空間は、
  お前のために形姿を高める内奥の空間ではない。……
 
 ・空間はわれわれを超え、事物を言いかえる。
  だから、お前のためにひともとの樹を存在させるためには、
  樹木のまわりに内面空間を投げかけよ、お前の中に現われている
  あの空間から。抑制で樹木をつつめ、
  樹木は己れを限ることを知らぬ。お前の諦念の中で
  形をとることによって、はじめて樹木は現実に樹木となる。
                  ―――後期詩集

 ・“息づくこと、おお眼に見えぬ詩よ!
  絶えず自分自身の存在と
  純粋に交換される世界空間、
  リズミカルに私が己れを成就していく対重、
  ……
  空間の獲得。”
  “真に歌うこと、それはもうひとつの息吹だ、
  何ものでもないものの息吹、神の中の飛翔、風。”
                  ―――ソネット第二部
                   
 
〈死の変質〉
 ・“……そしてうつろいを糧として生きるこれらの物たちは、
  おまえが彼等を讃えていることを理解する
  はかないものでありながら、われらもっともはかないものに、
  救いとる力を与えるのだ、
  (それらの)物たちは願うのだ、われらがかれらを、眼に見えぬ
  心の奥底で変形させることを、
  おお、われらの内部への限りない変形を!”
                  ―――ドゥイノ第9悲歌


 
〈法悦の「即自」――転回の成就?〉
 ・“此処にあることと彼処にあること、このふたつが何とお前を
  とらえることか、異様に、無差別に。”
 
 ・“私がそのなかにいない唯ひとつの物もない、
  私の声だけが歌うのではない、すべてが反響する。”
 
 ・“身を包むものもなく、苦悩にむかって開かれ、光に悩まされ
  あらゆる音に心揺らぐ存在。”

               
――――#R・パド物語のテーマ
               
 
〈二重の死の秘密〉
 
・「すべてに心をととのえた何ものも拒否せぬ人間」
               
――上記、「身を包むものもない」存在

{自分自身を固執せぬ者;「私は」と言い得ず何ものでもない者
非人格的死、そのものである者、のもつ超越的なまなざしをもって真に事物を「見る」ために、死の深みから、出発する}

 
1)好んで本来的と呼ばれる死
 
2)非本来的と呼ばれる死                 
               ――にたいする二連関。


    
確実にしてとらえ得ぬもの、
    不可避にして近づき得ぬもの、=否定の力としての死
    
    非決定性としての死(嘲笑)
    決定し支配したと思う瞬間逃れ去っている死
    然りを言い得ぬ死;対自的に取りくめぬ死


 
これが、詩的経験を通して生まれ変わる新たな意味性 ↓
 〈オルフェウス的空間〉
 ・「私自身へと向かう道」(=芸術)が→導くもの、場所

                
自動記述的地平
                「ひとりでに」(オトノミー)

 =「私がもはや私自身ではなく、私が語っても語っているのは私でなく」
  「私(自我)は語り得ないような」場所

               ………リルケにとってのオルフェウス

 
あの、私の声ではない声との出合い……歌と化した死
 (たとえ私が、その中にますます深く消姿しなくてはならずとも 私の死ではない死
、との出合い)



 注)「オルフェウス」
であるものとは、
 詩人が代弁者となるあの超越、詩人を導いて、私が語るのではなく、神が私のなかで語るのだ、と云わせる、あの誇らしげな超越の象徴ではない。
(永遠性や不動性の意味ではない)

 
「詩的なもの」を、限度を超えた消滅の要請と結びつけるもの
  より深く死ぬこと
への、より極限的「死」に向かうことへの呼びかけ であるもの

 
{詩的に語る}ことと{姿を消す}こととが、ある同じ運動の深みに属している、ということ。


 “たとえ消えゆくことの不安が彼をしめつけようとも。
  彼の言葉が、この地上を歌いつつ超えゆくと見るまに、
  ……
  もう彼は彼方にいる、君たちには共に行き得ぬ彼方に、
  ……
  彼は従いつつ、彼方へとむかうのだ”
                ―――ソネット第一部・5



 「外部の世界を、内面にみちたひとつかみのものへ」
変形作用

 ・ほとんど、輪郭もなく、節約されたような、
  より純粋に内的で、全く、異様にやさしく、
  すみずみまでおのれを照らし出している
存在
  これに似た何ものも、われらに与えられてはいないのか?


 
◇詩とは(詩における詩人とは)
 ・世界へと開かれ、存在に余すところなく身をさらした、この内奥
 ・世界であり、事物であり、絶えず内部へと変形
される存在


[この時、言葉は――空(虚)のなかで――もっとも深い内奥に触れ、一切の外面的なたしかさの放棄を求めるばかりでなく 己れ自身を冒険する]

 ・すべてが絶えず再び始まり、死ぬこと自体が限りないつとめであるような場所

  オルフェウス的言葉の開放―
「否定のないどこでもないところ」である空間が断言される

  
その時《語る》とは
  栄光にみちた透明さ、讃えること(迎え入れ、呼びおこし、讃える)     
                                                



 “彼はそこにいる、ひっそりと場所を変えながら、眼以外の、耳以外の何ものでもなく、ただその上に体を休めるもろもろの事物のみから自身の色彩を受け取りつつ。彼は観客だ、いや、彼は隠れた道連れだ、あらゆる事物の無言の同胞だ、〜苦悩にみちた享楽というこの能力、これが彼の生の内容のすべてなのだ。〜彼は何ものをも無視することができない、人間の頭脳から生まれたいかなる存在、事物、幻、幻覚に対しても、彼は眼を閉じることを許されない。まるで彼の眼は瞼をもたぬかのようであった。彼は自分を襲う思考のたったひとつでも、自分は別の秩序に属している者だからと言い張りつつ追い払ってしまう権利を持たない。なぜなら彼のものである秩序の中では、事物のひとつひとつがそれぞれの場所を見出さねばならぬからだ。彼に於てすべては出会わなければならず、また出会おうと希うのである。いかなる事物に対しても彼の魂への接近を禁じないということ、これが彼の従っているただひとつの掟なのだ”

         ―――フーゴー・フォン・ホフマンスタール 


  ルネ・シャール「反対物の熱狂的同盟」
 「詩人とは前へ投げ出す―存在と、引き戻す―存在との発生点である」

                         
――前進=遡行:サルトル(?)


 “おお、御身、失われた神よ!御身、終りなき足跡よ!
 敵なる力が御身を引き裂きつつ、遂には御身を四散せしめねば
 ならなかったのだ、われらをして今、耳を持つ者たらしめ、一個
 の大自然の唇たらしめようためには。”
                ―――ソネット第一部・26 


        ************************************************************


 #天使パド
                
 ・地上に於る天使:聖霊の受肉とは何か
 ――画家にとって・音楽と詩(少年)にとって
      風景。光景。世界という「体験」
 *現臨;無辺;無碍自在――この肉身が清浄無垢となって
 (即身成仏);自力の機執(はからい)から脱する云々
 ――コギトの透明性と自他不二;超脱さ
 明徹な光;異邦性の無化=辺境線の無化。ある種の不在;
 踊躍歓喜の心(親鸞);無窮動性;兆(徴:signe)の到来=
 〜としての閃き。意味の横断、云々――アンカルナツィオン

 
 
[リルケ]

 ・私が眼にとめるまで何ひとつ完成されてはいなかった
  すべての生成がとまっていた 
  私の眼さしは熟れている そして花嫁のように
  どの一瞥にもその欲する事物(もの)がやって来る
 
 ・もろもも事物のうえに張られている
  成長する輪のなかで 私は私の生を生きている 

 ・もしかしたら 一つの大きな力が
  私の隣で動いているのかも知れないのだ

 ・あなたは彼の孤独の相手
  彼の独白の静かな中心だ
  そしてあなたをめぐって引かれたすべての円が
  彼のために時の外に圏を画いている

 ・私が親しくし 兄弟のようにしている
  これらすべての事物のなかに私はあなたを見出す 
  種子としてあなたは小さいもののなかで 日に照らされ
  大きなもののなかでは大きく身を与えている
 
 ・あなたは変身する姿です
  いつもひとり運命のなかから聳えます
  原始林のように歓呼されることもなく
  嘆かれもせず また ものに記されることもありません
  あなたは事物(もの)の深い精髄です
  自分の本質の最後の言葉を語らず
  異なった人にはいつも 異なった姿で現われます
  船には岸と 陸には船と
 
 ・呼吸よ 眼に見えない詩よ
  絶えず私自身の存在と引換えに 
  純粋に交換された世界空間 その中で
  私がリズミカルに生まれでる 対重よ
    〜
  空間の中でどんなに多くのこれらの箇所が
  既に私の内部にあったことだろう 多くの風は まるで私の息子
  のようだ〜
 
 
【風景としての具体例】
 *小川、牧場、樹、蒼穹(空)――空間と形姿

 ・いつ ひとりの人間が 今朝ほど
  目覚めたことが あったろう
  花ばかりか 小川ばかりか
  屋根までもが歓喜している
  その古びてゆく 縁でさえ
  空の光に明らんで
  感覚をもち 風土であり
  答えであり 世界である
 
  一切が呼吸づいて 感謝している
  ……
 ・小川のあらゆるささやきを
  岩窟のあらゆる水滴りを
  ふるえながら かよわい腕で
  私は神へと返すのだ
         
 ・あまりにも久しく抑えられてきた幸福が
  既に一層高く噴きだして 牧場いっぱいにあふれている
  背伸びをした巨人の夏は 既に感じている
  老いた胡桃の樹のなかで その青春の衝動を
  軽やかな花はやがて散ってしまった
  いまはもっと厳めしい緑が樹々に忍びこんで働いている
  けれどもそれらの樹々をめぐって 空間がなんという
  円天井を作っていることだろう
  そして今日から今日へ なんと多くの明日があったことだろう
 
 ・鵜が歌っている その円い誘いの歌を
  その歌声があたりの空間へころがって
  幸福な牧場が 幸福な樹木の
  背景をつくっている
 
 ・小川が結びつける 別れわかれになって
  納得した存在のなかにもぐりこんでいるものを
  小川はまぜる あらゆるものに
  水っぽい天の要素を
 
 ・到るところ埃をかぶった
  藪の下を
  生き生きと水が走っている
  水はなんと幸福そうに言っていることだろう
  走ることは歌うことだと

 ・鳥たちが横ぎって飛ぶ空間は
  お前のために形姿を高めてくれる あの親密な空間ではない
  (あそこの戸外では お前はお前自身にさえ拒まれ
  絶えず消え去って もう帰って来ることもない)
  私たちの内部からひろがった空間が 事物(もの)を私たち
  のために言い換える
  だから お前のために一本の樹を存在させるためには
  樹の周りに内部空間(インネンラウム)を投げかけるがいい
  お前のなかに{在る}
  その空間のうちから。そして抑制で樹をつつむがいい
  樹は自分を限定しないからだ お前の諦念のなかへ移された
  形姿となって 初めて樹が真実の樹となるからだ
                   ――――(Reiによるリルケ引用)
 


 
*欠損としての存在⇔充溢   
 *自我と超自我の相即       
 *秩序の発現地点――零落      
 *純粋な反省・不純な反省(即自:対自)
 *実存の目覚・発語(発話)の原初 …云々   (個人的なまとめ)
                 ――――ドゥイノ悲歌
                 

 
開花する、凋落する、この二つは同時にわれらの意識にやどる、
 …われらは一事に心をつくしているときに
 すでに他事の損失を感じている。葛藤対立は
 われらにいっとう近しいのだ。…
 たった一瞬時の景をあらわす素描がわれわれの眼に見られる
 ためには、
 それとは異なる地の色が営々として
 塗られるのだ。それがわれわれの感受の
 輪郭を知らない、外部から割るもの、それを知っているだけだ。
 …世界と
 玩具とのあいだにある中間地帯の、
 太初から、純粋なありかたのために設けられた
 ひとつの場所…                第4

 どこに、おお、どこにあの場所はある――わたしはそれを心情の中にもつ
 かれらがまだまだあのように熟練せず、たがいに挑みあいながら
 まだしっくりと番(つが)わぬ二匹の動物のように
 組んでは落ちていたあの場所は?――
 重さが未だ重さのままであり
 無器用にあやつられる棒の先から
 皿がまだよろめき
 落ちる初心の場所は?……

 と突然、このたどたどしい「どこでもない場所」のなかに、突然、
 言いようのない地点があらわれる、そこは純粋な寡少が
 解しがたく変容して――あの空無の夥多へと急転する。
 桁数の多い計算が 数をのこさず割り切れる。      第8

 ……動物は……(あゆむとき)
 ……永遠のなかへとあゆむ、湧き出る泉がそうであるように。
 われわれはかつて一度も、一日も、
 ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る
 純粋な空間に向きあったことはない。われわれが向き合っている
 のは  いつも世界だ、
 けっして「否定のないどこでもないところ」(であったことはない)
 ――たとえば空気のように呼吸され無限
 と知られ、
 それゆえ欲望の対象とならぬ純粋なもの、
 見張りされぬものであったことはない。……
 わたしたちはいつも秘造の世界に向いていて、
 ただそこに自由な世界の反映を見るだけだ、
 しかもわたしたち自身の影でうすぐらくなっている反映を。…
 生命とはこういうことだ、向きあっていること、
 それ以外のなにものでもない、いつもただ向き合っていること
                       第9

 無限であり意識の枠がなく、おのが状態に
 向ける眼をもたない(――冒頭)
               
 あらゆる存在は一度だけだ、ただ一度だけ、一度、それきり。
 そしてわれわれもまた
 一度だけだ。くりかえすことはできない。しかし、
 たとい一度だけでも、このように一度存在したということ、
 地上の存在であったということ、これは打消しようのないことで
 あるらしい。
 それゆえわれわれはひたむきにこの存在を成就しようとする、
 この存在を素手に抱き取ろうとする、
 いよよ充ちあふれるまなざしに、もの言わぬ心のうちに、それを
 つつみこもうとする。
 地上の存在になりきろうとする――誰にあたえようとして?
 できるなら 
 いっさいを永久にわれわれのものとして保有するために……
 ああ、しかし地上の存在の後に来るあの別の連関へは
 何をわれわれはたずさえて行こう?…
 ……われわれが{地上に}存在するのは、言うためなのだ、
 家、橋、泉、門、壷、果樹、窓――と、〜
 この地上こそ、{言葉でいいうるもの}の季節、その故郷だ。
 されば語れ、告げよ、〜
 天使にむかって世界をたたえよ、言葉に言いえぬ世界をではない
 〜ただ素朴なものを示せ。世代から世代にわたって形成され、
 われわれのものとして手のもとに、まなざしのなかに生きている
 素朴なものを。〜
 天使に示せ、ひとつの物がいかに幸福に、いかに無垢に、そして
 いかにわれわれの所有になりうるかを。
 (歎きうったえる苦悩さえ、)いかにそれが形姿たらんと至純の
 決意をし、一つの物として仕えるか、または死して一つの物となる
 か――そして、その死のかなたでいかに至福のひびきをもって提琴
 から流れ出るかを。〜
 それらの物たちは願っている、われわれがかれらを目に見えぬ心情
 のなかで転身させることを、
 おお、われわれの内部への限りない転身を!たといわれわれが、
 いかにはかない存在であろうとも。
 大地よ、これがおんみの願うところではないか、目に見えぬものと
 して
 われわれの心のなかによみがえることが?――それがおんみの夢で
 はないか、
 いつか目に見えぬものとしてよみがえることが!
 転身をほかにして、何がおんみののっぴきならぬ委託であろう。〜
 …見よ、私は生きている、何によってか? 幼時も未来も
 減じはせぬ、……みなぎる今の存在が
 私の心情のうちにあふれ出る。

 (そして)われわれ、昇る幸福*(さち)に思いをはせる
 ものたちは、ほとんど驚愕にちかい
 感動をおぼえるであろう、
 降りくだる幸福*のあることを知るときに。
                       第10


                   
――――(Reiによるリルケ引用)
                       


          *****************************


(パド)

 【会話】――アトリエにて

 オトノム

 「おじさんの絵には額縁がないみたいさ。ぼくそう思う。
 だってこうして見ていると、どんどん奥へ入り込んでいくようだもの。
 そしてこの眼の両側もはてしなくひろがって、いつの間にか
 ぼくをすっかり取り巻いているのさ、どこまでいっても、
 突き当たることがない。そうなるともう、この景色を見張ってるものなど
 何もないんだ、そうぼくを見張ってるものなど。」
 (言外:こんなにも多くのものに、取り巻かれているというのに。)


 天使パドと小悪魔ニムリムの会話

 「この絵のほうぼうにぼくはいるんだ。ぼくがこの絵のなかにすっぽり
 入り込めば入り込むほど、この絵ははじめからぼくの中にもあったのさ。
 ぼくの開いた眼のなかに。そう、まぶたをなくしてる眼のうらに。」
 (媒介者――クモ)
 「この絵をよおくごらん?ぼくがいるだろう?原っぱの絵のなかさ
 絵の中に入ってきてごらん?一緒に歩こう。歌いながら!」
 クモの声がこだまします。……

 少年オトノムと画家カデシさんの暗唱しあう歌、手前
 「ぼくにとってこれは、天使を呼ぶ歌なんだ」
 「私にとってもだ。待ちに待ったものがついに降りてくる歌だ」


 オトノム
 
「船には岸と……」

 
カノン・フーガ
 「空には雲と!」
 「雲には丘と!」

 カデシ
 「丘には鐘の音と…」

 カブリオル
 「塔には日射しのつり糸と!」(歌いながら)

 オトノム
 「原っぱには小鳥たちの音楽と…!」



          ******************************

 パドの練習の効果――“シャボン玉の芸当”

 ・シャボンの枠をつくりつつ、その中に己の躰も這入り込んで(乗って)
  いること。(つつまれる超越)
 ・自らがシャボンの枠でありつつシャボン玉を放つものであること
                      ――分身の術
 ・自らの躰がシャボンの膜の「表にぴったり張りついて」それ以上のものにならぬこと、それでいて、これを解き放ったものでもあること

 :三位一体




エッセイ扉  


芸術の扉 麗子の書斎