物語を綴りますと、よく感想を戴く機会にめぐまれます。感想である場合、ポジティヴな評価のものについては 嬉しいのは勿論ですが、かりに 自分にはこの辺のイメージが希薄に感じられた、また 私にはどうも複雑で錯綜していた気がする、自分にとってはこの辺りの表現が解りにくかったetcetc.というような幾らかネガティヴなものであっても、個々人がもたれた‘感想’――すなわち、「私には・自分にとっては」という読み手のがわ主観から語られた文章、換言すれば、読者自身の<読解力・語彙力・想像力・感受性・思弁性>などの一種の<告白>――であれば、それはそれで、書き手にとってたいへん興味深く受け止められるものです。自分の書いた作品が、他者に歓びよりも、戸惑いや欲求不満などをもたらしたとしたら、それを悲しく受け止めつつ、書き手の私は、<幸福な共有体験>を目指して、精進するでしょう。

 ただ、感想と称しつつ事実上の‘批評’を、なされる場合があります。
<この作品は>こうだ、<この作品>の<この部分は>こうだ、また<この作者は>こうだと 言われる場合――つまり、読者の<自分自身の読書体験>として語られるのではなく、<作品論・作者論>として語られる場合です。これは、仮に「私は……思う」と書いていても、その方ご自身の認識や感受が一般的に妥当なものとして、その作品を、その方の判定したモノとして、社会的・客観的に、<存立>させたいという自覚的・ないしは無自覚的の意図によって、作品論を展開される場合です。

 多くの場合、所詮、自分自身の事――特に欠陥――は他者の眼を通してしか自覚し得ないものだとすれば、そうした批評は、作者にとって大変貴重なものであります。私自身、そうした素敵な批評と出会い、自己研鑽に励みたいと願っております。

 ただ、実際には、ほとんどの批評という形をとる文章が、実は、主観的感想であって、批評とは言い難いものであるのもまた、事実です。
 例えば、興味深いことに、往々にして ある人にとって難解・混濁とみえる作品や 部分も、背景にあるものの理解と関心を含みあう人にとっては、むしろ評価に変わる――謎解きがよく考えられている;イマージュの選択とゆらぎがユニークだった;三位一体が 聖書以外の場とイマージュとで語られうるということに驚いた、あるいはまた 意識と無意識の構造が○○という形に具象化されているのが面白かった;まるで「存在と無」がファンタジー化したようで何とも不思議な気がした、などといった――ということは、よくあるものです。

 実際、私の物語につきましても、<難解>とのご指摘を賜ることがありますが、私の師である世界的な宗教学者や我が国を代表する一流の出版社の編集者に、主題(哲学的・宗教的思弁)の展開や、そのイメージ化等において、難解だとか、イメージの希薄・混濁といった批評は受けておりません。
 

 実際、このように、テーマと表現の難解さに対する感じ取り方、イマージュの蘇生・形成は、読み手の側一人一人の人生のいとなみや、読み手自身の得手不得手、知識と興味関心の志向性によって、じつに色々と異なるものでもあります。

 別な幾つかの所でも申しましたが、私の物語はしばしば宗教哲学的・形而上学的な何らかの意味役割と概念・表象化という要素をもっています。具体的には、キリスト教学・禅などの仏教的宗教哲学(仏教史的知識や具体的教義なのではなく、哲学的思惟の領域)、サルトルやメルロ-ポンティ、デリダ、あるいはカフカやブーランショ、リルケなどの形而上学性の濃厚な文学、などなどの哲学・思想をバックボーンとした哲学的思弁・宗教的思弁を重ねて物語が構成され、主題が展開されております。その際、主題となるものの思弁性・ないし抽象度の高い部分ほど、また背景となる概念形態の こみ入った部分ほど、観念 A と観念 B とに 元来容易に‘分別化’・‘簡素化’しえぬ難しさを、伴ってくるものでありますし、観念の示す‘実態’と表象(化)との間に ずれの生じやすさを、どう仕様もなく伴ってくるものでもあります。
 できればそうした背景そのものを 充分ご理解いただいた上で、ご批評をいただければ幸いです。

 ○頁×行の A の表現は、何々の観念を象徴するもので、他方 B の表現は何々の観念を象徴していると思われるが、そうすると その位相が△頁△行ではこれこれの表現によって同一化し矛盾するんでないかと思う。また、
 例えば○頁の×行目から×行目の文章は、これこれ〜しかじかへの概念形成の不明確さゆえに、△△というその表象部分の表現が錯綜し、観念1と観念2とがない混ぜになっている。或いは、
 この××という表現では、何々のイマージュの表象化は、是々しかじかの意味役割を持たせるのには十全とは云えないのでないでしょうか、むしろ○○という風にする方がこれこれの理由に於いて効果的だと思います。とか
 物語の主題が○○であり、この文章が主題の展開するkey部分であるとするなら、当箇所でのこの人物の個性や言葉と、次の出来事の間には必然性がとぼしいのでないか、飛躍があるのではないか 云々…
 といった、一定の深い共有と論証(具体的根拠)にもとづいたご批評を頂ければ、幸いですし、書き手としても 創作のうえでの建設的なステップが示され、たいへん有りがたいと存じます。

 尚、上記の私の物語の特色が、童話という分野に適応するのか否かという問題があると思います。「どんな難解な主題であり思弁であっても、童話として表現する以上、それは、よりシンプルに具象化すべきだ」――こうした事はごく一般的に言われている、いわば理解困難な作品に出会うと、必ずなされる常套句であり、私も十分承知しており、留意を計っているところです。

 ただ、先にも申しましたが、「難解」と誰が判断するのかが問題ですし、また仮に多数の人々によって難解とされていても、たとえば、クラシックファンの9割以上の聴衆に難解な作品と敬遠されがちなバッハの「フーガの技法」ベートーヴェンの「後期弦楽四重奏曲」群など、ある人々にとっては決して難解な音楽ではなく、むしろ人生と世界を如実に映し出し、己の思索と魂の最も奥深いところで共鳴し得る希有の作品として愛されてもおります。つまり、創り手の側だけでなく、受け手の私たちの側も、その作品が内包している<真実>に出会いたいのであれば、自らの人生体験や音楽・文学体験や思索体験といった様々な体験や修養を積まなければならないというのも、また実態かと存じます。
 もちろん、私ごときの作品をバッハの大傑作になぞらえるほど傲慢ではないつもりですが、ただ、「難解」との批判に対しては、書き手として、直ちに推敲の必要性を認めがたいというのも、偽らざる心境です。

 また、もう一点、「童話」という表彰についても、考えるところがあります。 私のものは童話と称さずに物語・ファンタジーであって、一向に構わないのでないかと思っております。童話とはどうあるべきか、などの論議がしばしばなされますが、私の主題の持つ錯綜世界と抽象度に見合う(当てはまるとみなされる)ジャンルが未だ――少なくとも日本には?――確立されていないかも知れぬという問題に於いては、私の実存と その欲する表現とが、そのような論争の埒外にあるのでないかとしばしば思います
 また、そもそも錯綜しがちな主題、また思弁性(いわゆる 思想性 といった意味ではなく、生まな哲学論文的作業行程にも近い性質)の濃い主題を、‘童話ないし物語ふうな’イマージュに 還元することそのものに無理があるのではないかという問題は、私自身 しばしば自問するところでもあり(笑)、したがってこの領域に私自身をはめ込むことに違和感を感ずるところでもあります。

 以上のような、作者の思いをご理解賜りまして、ご感想、あるいはご批評を頂きたく、心より、お願い申し上げます。




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