　ひとりの天使が雲にのって、地上を見回りながらこう云いました。
　「クモの糸をつたってぼくの愛の息がそそがれている、この辺り一帯よ。目にみえないちからにうながされ、地上のちいさい生き物と、人とが互いに結ばれて、それによって人が、〈われ〉に返ることが出来ますように。それからかれらがひとつになって、ほんの一寸でいいから、いつもかれらの心の声を聞いている、ぼくを思い返してくれますように。そしてかれらの心の響きを、木霊にのせて、ぼくに返してくれますように。」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　――――それは音の天使でした。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＊

　ひとりの音楽家がいました。お城の有名な伯爵さまにかこわれて、城の湖の畔に小さな館に住んでいる、フルート吹きでした。でも、近頃あまりいい音が出ないような気がしていました。ひとには気付かれないのでしたが。それからまた、お偉いたちの集まる夕べなどには、即興演奏をたのまれるので、よい曲をその場でつくれるようになりたいとも、思っておりました。でも、なかなかいい音楽も浮かんで来ないのでした。ひとには誉められるのでしたが。ようするに、彼は自分に納得がいきませんでした。
　或る朝、かれはフルートをもって、城の庭を散歩していました。城の館の壁まわりは、まだすっかり葉の生えていない、茶色がかったツタの蔓辺にぐるりと囲まれていました。
それはまるで、音符のない五線譜のようにみえました。そこかしこ　ささくれだち、からからに乾いて、音も無く、まるで音楽家の心そのもののようでした。ただ一つ箇所、ツタの蔓辺を足場に、たいそうりっぱなクモの巣が、そよ風に揺れてななめにかかっていました。天にとどこうとでもするかのように。

　一匹のクモが、巣のなかにひそんでいました。クモはたんぽぽの精たちに、天の楽譜の注文を受けて、つくろっているところでした。　長いことかかりましたが、もうそろそろ、完成するのです。それはこの辺りの森に住む小鳥たちが天使にとどける音楽の贈り物を、正確に記しているものでした。そのじつにたくみなクモの編み物の、しんなりたわんだ五本の横糸には、たんぽぽの種をはじめ、まつぶさの乾いた実のかたまり、また冬を越してまもない蔦や葡萄の、からからに枯れ縮んでは記号のように巻きついた蔓べなんかがからまっては、ちらちらふるえ風に揺られているのでした。その様子は、すこし離れたところからみると、靄がかった天の五線譜のようにも見えました。
　しかし、気の滅入ったこの音楽家には、そんな風情のある光景も、たわいもない日常の断片にすぎず、またうつくしい城の庭を行き交う小鳥たちのさえずりも、なんだかうるさいお喋りのように聞こえてしまうのでした。
　「ほっ…と。」
　音楽家はなんだかぐったりとしてため息をつきました。
この時かれは、さっき通りすぎたクモ糸の楽譜の、端の一糸が頭に付いたまま、ツツーとつながっていることに、ちっとも気づいていませんでした。
「やれやれ。なんだか毎日つまらなく、そして疲れることだわい。」
柔らかい草むらにフルートを放り投げ、らんぼうに腰をおろすと、そのまま草のうえにねそべってしまいました。音楽家は、しばらく空をみあげていました。かれの頭に付いた糸は、そのままふんわり宙をくぐると、高く高く、舞って天へと昇っておりました。と同時に、かれの頭が引いてゆき、のびあがった楽譜の糸は、いつしかその全体がくんなりとたわんで伸びあがり、この城の庭の草むらを足場に、この辺りの森一帯にぐんぐん広がっても行きました…。もちろん、音楽家は気づきません。まばたきするのも面倒くさいというように、うっとりとするうち、なんだか急に眠くなって、そのままうとうとと眠りこけてしまいました。
　どれくらい経ったでしょう？　
　カッカッカ、カッコウ！
　不器用なかっこうのしゃくりあげる声に、おどろいてふと目覚めると、あたりはもうすっかりま昼の光にみなぎっていました。生まあたたかい空気が、顔をうえをなぶっていきます。あたりの草が波のようにざわめきたっていました。
　チチチチッ！
と、そのうち一羽のセキレイが、黒いのどを鳴らして城の庭を横切ってきました。たいそうせわしなげに、尾っぽを上下させながら、宙に波をいくつもえがいてわたると、やがてとげだらけの木に止まりました。
　きりりとした姿勢で停まったまま、何かの機会をうかがうように、小首をかしげ、仕切りに尾を上げ下げしています。
　「なんだ、いやにかしこまっているじゃあないか。まるでこれから音楽会でもはじめようとする、オーケストラの指揮者でございと云うように！」
　音楽家はあきれて肩をすくませましたが、何だかちょっと気にかかるのでした。――　　セキレイは、とてもよい姿勢をたもったまま、しばらく辺りの様子をうかがっています。待ちのぞむように…。　
　さわさわさわ…城の庭の草むらも、まわりを囲む森ぜんたいも、天の息にくすぐられるように身をくねらせて、葉ずれの音にざわめき立っています…。
　でも、何ごとも起こりません。
　「なあんだ」
　ひそかに心はずませていた、おとなげない自分をあなどるように、音楽家はふん、と鼻をならして呟きました。
　ただ、とおい森の奥のあちこちから、色々な声の小鳥たちの歌声が、かすかにまだ湿り気を帯びた森の空気につつまれて、しっとりと木霊しては聞こえてきます。
　キョロンキョロン、ツキー。アカハラの、ふくみを帯びておどけた声が、森の木立の低い位置から辺りに響きわたっていくのが聞こえます。そうかと思うと、
　キヨコキィー！、唐突にはじき出した、つややかな高音。城をとりまくこの森ぢゅうにさえわたる、イカルたちの輪唱が、耳に飛び込んできたではありませんか。
　それから、クロツグミのものまねが、まるでやまびこのようにそっくりに、イカルの輪唱を追いかけます。
とそのうち、お調子もののカッコウたちの拍子とり。森の輪唱は、あっという間に３拍子。
……みな普段から自慢の声を森のあちこちにまき散らしている連中が、互いにとおく離れたまま、競ってのどをためしているよう。が、みな好きかってなメロディを、くちぐちに口ずさんでいるようにも聞こえます。それは、森のなかから聞こえてくる、いつもの小鳥たちのさえずりと、べつだん変らないかに思われました。…
　「まぁ、ぼくには関係ないさ…」
　音楽家がふたたび、そう思いはじめた時でした…。
　不意に、一条の光が城の庭めがけてまっすぐに降りてきました。スポットライトがいっそう明るく、森のなかの庭の舞台を照らしつけたのです。音楽家は、おもわず空を見上げました。……辺りが一瞬ほの暗くなるなか、ただひとつ城の庭の舞台だけが、雲の裂け目から洩れ降りる一条の光の束にくっきりと照らし出されたかにみえました。
　風が止み、庭をかこむ森一帯が、耳を澄まして静まっています。
　と、セキレイが、風のしるしに応えるようにうなずくと、ふとトゲだらけの木を飛び立ちました。そして、一度急降下するように宙をえぐってはまた舞い上がり、そのまますいっ、すいっと大きな波形をいくつもえがきはじめました。「スラーだ」
音楽家は、宙に浮かんだ楽譜を見たような気がして、思わず目をこすりました。
　「なぁに、気のせいさ。」がセキレイは、まるで森ぢゅうにのびやかな指示をあたえるように、これを何度か繰り返したあと、やがてまたぐんと宙をえぐって舞い上がると、ふたたび波をえがいて城の庭をわたって行きました。黒いしっぽのタクトを上下するたび、じつにあざやかな裏地の黄色をちらつかせながら。それは、まるで天から一本の糸で吊られているかのような、ひとつの姿でした。そして今、その影は、またたく間に森の低いしげみへとすべり落ちていきました……。
　でも、いったいだれがその合図を受け取ったというのでしょう？
　チン・チン・チン・チン……。おや？　トライアングルを打つような銀の音。かすかにかすかに、森の奥から風にのってやって来るではありませんか。耳をすますと、ついさっきセキレイが姿を消したしげみのほうから、銀の音は聞こえてきます…。それは、コルリのさえずりでした。音楽家は、このあいらしい序奏にたいそう気をよくしました。なんだかのどがふるえます。
　とまた、セキレイが森から姿をあらわしました。チク、タク、チク、タク…宙を舞いつつきざむ、几帳面なそのタクトにぴったり合わせるように、コルリの序奏はときおり舞い立つ風にあおられては、いまにも消え入りそうになりながら、庭のうえをたしかに漂っているのでした。その調べは永遠につづくかとも想われました…。
　と、まもなくセキレイは、いきなりタクトをつよくもたげ、中空にやんと振り下げ一回転しました。
　キキヨコー、ピピッツ！　とたんにはじけた天の玉声。庭いちめんをつらぬき通りました。イカルのボーイ・ソプラノです。銀の音の序奏の余韻さめやらぬ、うっとりした真昼の庭を裂くように、目の醒めるようなかがやきが庭全体を横切ると、さてはうつくしい音の調べが、ようやく幕をあけました。
　……お兄さんイカルと、弟イカル。じつにすがしいソプラノで、息のあった二重唱を繰り広げています。ピッコロさながらの甲高い声音を、あたり一面ばらまいて。
　と、こんどは森の東のあかるみへ、セキレイがすいっと姿を消していきました。ともう息つく間もなく、その辺りからアカハラ親子のろうろうと丸みを帯びたメゾ・ソプラノとテノールが聞こえて来たのです。それはイカルの二重唱を追いかけて、たくみに絡み合うメロディとオブリガードをさえずりはじめました。
　「なかなか立派なフーガじゃないか！」
　音楽家はうなりました。そうしてもう、ただ目をまるくし、いっしんに耳をそばだてました。はて、よく耳を澄ましますと、ズｨンズィンズィン……弦をつまびく古風な音がしてきます。ちょうどオーケストラの伴奏をするチェンバロの音にも似つかわしい、空気を刻む幻の音が…。すばしこいセキレイの引く波形のあとを追うように、ジュルルル…とざわめきたちながら、城の庭めがけてやって来ました。
　そうです。この辺りの森でもっとも小さい小鳥たちの群れが、援軍にかけつけて来たのでした。それはそれはか細い、金属音のすれあう声を、楽器のごとくあつかうじつに器用な仲間たちです。シジュウカラ、コガラ、ヒナガにエナガ…。ズィンズィン、ズィン、ジュイジュイジュイ。微かだけれど、耳をすますほどにぎやかな、楽隊の音の援軍。かれらは森から飛び出して、城の庭を往ったり来たり飛び交いながら、トゲの木のまわりを、ぐるぐる旋回しはじめました。おどけた楽の音を草のなみまに響かせながら。
　音楽家の胸は思わず小躍りしはじめました。子どものころ、サーカス小屋の前でときめいた、あのころの気持にかえったよう。　　　　　　
　チチンチチン、チチン…。セキレイは、こんどは森のいっとう奥まった水辺近くの、背たかのっぽの木に向かって、何か指示を与えました。…と、その木のてっぺんから、あのものまね上手のクロツグミが、ちょうど一小節おくれのやまびこさながら、たくみな輪唱をはじめたのでした。
　「これはうつくしいカノン形式だ」
　音楽家は亢奮し、鼻をならして呟きました。
……ふと、音楽家は目をこらしました。
　「おや…？」
　小さな楽隊の援軍の群れが、透き通った糸帯をくわえ合って、しきりに翼をはためかせたかと思うと、ぱっ、と庭いちめんに解き放ったのです。たおやかな衣のように、それは、うつくしい調べとともにやんわり宙を漂いはじめました…。それはクモ糸でできた五線譜でした。枯れた巻蔓の、ト音記号やヘ音記号が、ちゃんど〈開始〉をしめしています。それから無数のたんぽぽの種。四分音符や八分音符がぶらさがり、それぞれの位置について並んでいます。そして和音、分散和音。冬を越した蔓べの植物たちの、乾いた黒い実の房のかさなりなのでした。おまけに枯れ草の休止符までもが、うれしそうに小刻みにふるえています。
　小鳥たちの音楽は、まさしく　これをあかしているのでした。だれもこの空の楽譜をみていないにもかかわらず…。おそらく、もうすっかり暗譜してしまったのでしょう。それとも、どこからともなくさえずりはじめた森のみんなの合唱が、ひとりでに空の楽譜と一致していたとでもいうのでしょうか？
　なんだか見なれた、クモ糸の五線譜…
　それこそは、いつも城の庭を散歩するたび目にしていた、ツタに絡んだクモの巣。小人のハンモックさながらの、あの五線譜だったのです。
　『いったいあんなちっぽけなものに、こんな音楽がひそんでいたなんて！』　音楽家は心のなかで云いました。
　『だがまてよ！　こんなのはみな、夢か幻にすぎないのじゃないだろうか。』
　別の声がささやきました。かれは思わず目をこすりました。そしてもう一度、クモ糸の楽譜に目を凝らしました。
　「いやぁ、たしかに合っている、この調べそのものだ…。」
　音楽家はあわてて自分のフルートを取りにいきました。草むらにうずくまる自分の銀の楽器にかれは、おもわず手をあわせました。
　「もう、夢でもうつつでもかまわない。ぼくは小鳥たちと響きをともにしたいのさ！　さあ、おまえの力を借りて。」　
　かれはたいそう使いなれた自分の楽器に、そう語りかけました。かれの楽器はきらりと光ってわらいました。
　このとき、音楽家は不思議なちからにふと身をもたげました…。ちょうど風船が浮かび上がるように。空から降りる一本の線につながっていくなにかのちからが、かれに　はたらいたのです。その姿のまま、かれはフルートを構えました。ふいにおとずれたその姿勢と、なんとも楽になった呼吸のおかげで、かれの口はフルートの先に吸いよせられました。

　音楽家はちいさな楽隊に、その楽譜を宙に浮かせてもらいながら、森のあちこちから聞こえるさえずりとともに、この枯れ草と木の実で出来た音符を追いました。そして、フルートのうつくしい音色に、ていねいに還（かえ）していきました。ときにはイカルのメロディを、またときにはアカハラのオブリガードを。たくみに組みあわさったそのハーモニーを、かれはくっきり浮かびあがらせました。フルートの音はいきいきと、生まれたばかりの音色のように、すがすがしく　辺りに響きわたります。小鳥たちも、なんだかうれしそう。いままでよりもっと軽やかにはずんでは、かれの音と重なりあったり、分かれたりしていきます。とそこへ、さっきのセキレイが宙を切ってやって来ました。そしてクモ糸の五線譜のうえを、すい、すい、すいっ、となめらかに横切っていきました。こうして本当にスラーがかかりました。音楽家はいっそうろうろうと、水面をすべるようにたおやかに、銀の楽器を吹き始めました。とそれはもう、小鳥たちの歌と、ぴったりひとつになった世界なのでした。　
やがて淡いかげりが、森の庭に降りました。……と、ちいさな楽隊たちは、いっせいに飛び立ちました。空に透けた、クモ糸の五線譜をくわえたまま。そしてふんわりと空へ昇っていったのです。
　音楽家はしかし、もう譜など必要としていませんでした。ふしぎと音が生まれてくるのです、銀の泉のように。かれはそれに身をまかせました。クモ糸の五線譜は天に召されたので、みんなはもう、その先は口からでまかせのメロディをそれぞれに奏でているのでしたが、ひとりでに重なりあい、もつれあってはわかれていく、その楽の音は、今までとすこしもかわらぬまま、脈の鼓動のようになみ打ちながら、あたりを漂い、響きあっていました。………

　　　　　　　　　＊
　それからというもの、この音楽家は、城の音楽会にもいやいやながら出席することはなくなりました。そして王様に即興演奏を命じられても、小鳥たちといっしょに奏でるときの、こころの底からわきあがる　よろこびにあふれた　あの気持で、フルートを奏でたのです。（小鳥たちが今日もいっしょに歌ってくれている…）、そう想いながら。そしてまた、これは天にとどくのだ、と。　あのクモ糸の楽譜が漂いながら、静かに天に昇っていったとおなじように、自分の調べも、きっと天にとどくのだ、とそう想いながら…。
　城の広間の音楽会は、そんなわけで、あの日から　いつも拍手喝采でありました。

中編童話の扉表紙