ひとりの天使が雲にのって、地上を見回りながらこう云いました。
 「クモの糸をつたってぼくの愛の息がそそがれている、この辺り一帯よ。目にみえないちからにうながされ、地上のちいさい生き物たちと人とが、ほんの一寸でいいから、いつもかれらとたわむれている、ぼくを思い返してくれますように。そしてかれらの瞼のなかのひらめきを、ぼくに映し返してくれますように。」
     ――――それは色の天使でした。かれは光の天使と大の仲よしでした。


                   *  

 ひとりのまずしい絵描きが、真っ白なカンバスをまえに、顔をしかめていました。なだらかな丘のある原っぱのまんなかに、画架をたて、こうしてじっと腕を組んだまま、たたずんでいました。カンバスには、もうずいぶんと長い間、なにも描かれていません。
 「なぜこういつも、描きたいものが描けないのだろう? 何か描きつけても、それがすこしも面白くないのだ。」
 絵描きは呟きました。またこうも云いました。
 「ぼくは自分の絵をみていると、息苦しくっていられない。」と。
 だが何故なんだ?…かれはひとりごちました。色を塗ると、それがべったりとカンバスを押さえつけ、かれの自由な心を押さえつけるのでしたが、なぜそうなるのか、自分でもはっきりとした理由がわからずにいたのです。

 「とにかく、呼吸(いき)がつまって仕方ない。ぼくの絵ときたら! こうして風景を見わたせば、それはどこまでも果てしなく拡がって、ぼくの目の前にある光のすべてが、息づいているというのに…! そしてまたそれこそは『色』だというのに! それをぼくときたら、こんな狭いカンバスのなかに押し込もうとするのだから。べとべとした油の色のなかに、押し殺そうとするのだから。」

 絵描きは大きなため息をつくと、目の前にひろがる風景を、ふたたび見わたしました。 
 野原のまんなかに、なだらかなみどりの丘が、おひさまの光を浴びてぽっかりと浮かんでいます。ふっくらとした丘のおなかは、日ごとに深みをましてゆく、目にもあざやかなみどり色と、未だ春先の余韻の残る ごくか弱い黄みどり色との しま模様におおわれていて、ところどころにたんぽぽの、ぬくもりにみちたお喋りな光が、点々と続きながら丘のてっぺんへと向っています。たんぽぽのじぐざぐの道の脇には、赤やら桃色、あんず色のひなげしたちが、めいめいの色のうろこをあちこちに落としては、そこから伸びる長い首を、ゆっくりと風に揺らしています。。。

 丘のふもとには一本のこぶしの樹が、天へ天へとかざした枝を、まるで蝋燭の火のようにたちのぼらせて立っていました。その枝という枝のあちこちに、もんしろ蝶さながらの白い炎の花びらを、それはそれはまぶしげに、手のひらみたいに広げては、ひとつひとつ  それらの光を、空にはね返しているのです。ちょうど、光の噴水みたいに――。

 その隣には、背の低い、目にもあざやかな桃の木が、不器用に身をよじりながら、ねじけた枝を空へと差し向けて、一身に受けた春の光をほうぼうに乱反射しています。春のぬくもりを精一杯に放つように、ほてった頬べに色の、無数の花をつけています。なんだか自分のまわりの景色まで、そのあかるさですっかり包んでしまいそうなほどの、上機嫌さで。
 そうかとおもうと、そんな自分の足もとの木陰には、あおあおと深い陰を宿し、かすかに射し込む光と影に、きらきらといそがしく鬼ごっこさせているのでした。

 野原は、だんだんと光沢をました、碧(みどり)のお髭の草むらが、ときおり起こる風にいっせいになぶられて、心地よさそうに波だっています。それはたがいをたおし合い、ささえあって、天の息にくすぐられてはざわめきたち、そうして自分たちの息を天へと湧き返していくのです。

 丘は、その処どころに銀糸をまじえた若草色の、なんともいえぬ光沢を放っています。まるで自分のからだのなかから、ちょうどランプの灯りが、みどりの円屋根(ドーム)のなかからほんのりと光を放つように、野原の広いテーブルにこんもりと浮かぶ灯をともしてみえます。この辺りの風景は、たしかにどこをとってもおひさまの光にみち、生き生きとした息づかいにみちているのでした。

 『すべてのものがおひさまの光を受け、光をやどし、放っている。あるものは憩い、またのびあがり、あるいははじけるようなよろこびに満ちて、あつめた光を返している。なんだかお礼を云うみたいに…。』

 絵描きはいつしか気を取りなおすと、心のなかでそう呟いていました。
 『あつめた光を返している。あるものは鏡のように(それは湖)、あるものは宝石のように(それはキンポウゲ)、反射させて。またあるものは、光の噴水のように(こぶしの花や、桃の花だ)。』

 それから絵描きは、目の前の、野原一帯にゆっくりと目をやりました。
 『これもまた、あつめた光を返している。あるものは、もっとあいまいなかたちで…。ああ、この無数のひげのように生える草たちの、光の返しかたときたら…。辺りいちめん、もやめいた光の網とたち込めては、まるでかげろうさながらにゆらゆら揺れては立ちのぼる、光の呼吸のようだ。』

 それから絵描きは、丘のむこうに、まぶしそうに目をやりました。遠い山なみからむっくりとわきたつ、雲のすじ。山なみと丘とをつなぐ空の、あつい雲間に、まるでのぞき穴のように、ぽっかりと口を開けた空。その彼方にはやがて宇宙の紺碧が待ち受けているのを予感させる、あざやかな蒼い空へと、まっ直ぐに立ち昇っていく、一本の雲のすじ。それはまるで祈りのように、一心に空へ吸い込まれていくのでした。そしてそのからだからは、背後に受けた陽の光が辺りぢゅうに反射されているのが、周りを被う雲のスクリーンを透かして、うっす映ってみえるのでした。

 『あれもまた、あつめた光を返しているんだ。そうだ、みんな、それぞれの仕方で。そして黄色、赤、白、緑、青…それぞれの色で。まるで、空にお礼を云うみたいに! 
…だけど、いったいそう思えるのは、ぼくの気のせいなのか? 跳ねたり、立ちのぼったりして、〈返して〉いるように見えるのは。あれは空のあかりが、ただ映っているだけなのか? ありがとうを云ったり、よろこんだりなど、ほんとはしてはいないのかな?』
 貧しい絵描きは、そうひとりごちて、やせた首をかしげました。
 が、すぐにぽんとひとつ、手をたたくと、 
 「だが、それでもちっともかまわない。ぼくにそう思えるのなら、そのように描けばいいじゃあないか!」

 絵描きは、自分にそう云い聞かせました。が、そう云うなり、ふとまた首をかしげ、腕を組んで考え込んでしまうのでした。
 『だが、ぼくが〈それ〉を描くと、たちまちみんな息を止め、死んでしまう。躯にあびたものを、放つことなくしおれてしまう…。』 そう云って絵描きは、ふたたび打ちひしがれてしまいました。

 その時でした。一条の光が、雲間からまっすぐに射し込んできました。と、その光の足は、ほどなく丘のてっぺんにとどきました…。
 すると、丘全体がふっと浮かびあがり、そのてっぺんはやんわりと、それはそれはあかるい、みどりの空気に包まれました。そして陽の光がいっそうますにつれて、ふもと近くの、未だかげりを帯びた深草色との境界線は、いよいよくっきりあらわれはじめました。互いに分かたれた色の世界は、また互いをひきたて合っているのでした。

 「なんて不思議なんだろう。日射しってやつは!」
 画家は、またひとりごちました。

 「この不思議なものが、描けたなら! ああ、だがぼくには一向に、日射しというものが描けない…。だってそいつはあんまり不思議すぎる! そうだろう? 日射し。……そいつ自身は色も姿ももたない、すき透ったもの。だのにすべての景色を分かち、それらのものの色や形を、くっきりと照らし出し、浮かび上がらせるのだから! いったいそんな奇妙な目にみえないものを、どうしてぼくは色に、形に、したらいいんだ?」

 「目にみえないものなど、見えるものみたいにかこうとしなくたって、いいじゃないですか」
 どこからともなく、声がしました。
 「え?」 
 絵描きは驚いて振り返りました。
 ふたたび声がいいました。
 「姿をもたぬもの、それ自身の色や形がないものなど、描けやしないよ。それでいいじゃありませんか。描かなければいいんですよ。目にみえないもの――それは、目にみえるものたちを、そう見せているもの。それ自身、姿のなきもの、描けぬもの」
 「だれだい? きみは。」

 絵描きは、辺りを見まわしました。が、誰もいません。でもたしかに声はしています。絵描きは言い返しました。
 「描かなければいいだって? 一体何てことを云うんだ? そいつを描かなければ、風景はちっとも‘ひきたたない’じゃないか。そいつこそ、日射しこそが、この世界を生き生きさせている、いちばんの鍵なのだぞ?」 
「それではそいつを、あなたはどんなふうに描きますか? 一本の〈線〉を、空から引くのですか。」 声がききました。 
「じ、実際、そうしたこともあるさ。子どもの絵みたいに。あるいは中世の画家のように。だが それじゃぁまるで、風景の中にとつぜん座標軸の線でも走ったみたいになるだけさ。」
「なるほど。では、雲間からひろがる光の網のようなものは、どう描きますか?」
 声がまた、たずねました。
 絵描きはむきになってこたえました。
「はてさて。網のように一本一本、線をつないで描いてみたとしたら? きみだってわかるだろう。そんな設計図みたいなもの、風景画だなんて云えるかい?」
と、絵描きは笑いとばしてそう云ってから、きっぱりとした口調でこう続けました。

 「もちろん、わざとそうする大人たちだっているだろう。でもぼくが描きたいのは、そんなんじゃないんだ。」
 そう云い放ってから、たちまちかれ自身の言葉に負けたとでもいう風に、うつ向きしおれそうになった、そのときです。声が云いました。

 「見えないものを、見えるもののように描こうとするから むずかしくなっちまうんです。」

 「おい、いったいだれなんだい。きみは?」
 絵描きが思わず頭をもたげ、ふと見上げると、ツツウ――、一本の透きとおった糸が、ゆっくりと目の前に降りてきました。と、おや。その糸先には、くすんだ黒と黄色のまだらもようの、クモが一匹、ぶら下がっているではありませんか。
 「形のないものは、形のないままに、色のないものは、色のないままに…。」
 クモは曲芸師のように、透きとおった糸にぶら下がりながら、こう云いました。

 「それはつまり、描くのをあきらめろ、ということか?」
 画家はむきになってたずねました。

 「ねえ。こうしてはどうですか。‘日射し’を描くのはやめて、それ以外のもののほうを描くんですよ。色も、形も。目にみえるもののすべてを、カンバスに映しとってはいかがです?…すると日射しもきっと、もうそこに描かれているでしょう」

 「やれやれ・・」 絵描きは、大きなため息をつきました。
 『なんてまどろこしい世界なのだろう? ぼくが ほんとに描きたいものを描くのに、それ以外のものの方を、描くだなんて!(――だが…待てよ、何故そんなことを、今まで思い付かなかったのだ?)』
 絵描きは心のなかで、あれこれ思いめぐらしました。

 またふと、見上げると、いつの間にやらクモの姿は何処かへ消えていました。ただまっすぐに降りるか細い糸が、やわらかな春の風に揺られては、くんなりと、たわんで遊んでいるばかり。と、そんなふうに、糸が風にゆれるその拍子に、すっ…と、なにかすばしこい色の影が、糸のうえをすべりわたるのに、絵描きは気付きました。……それは、虹の精でした。が、もちろん絵描きは、それが虹の精だなどとは、思いません。ただなにか、虹のなかに映っているのとおなじ、さまざまな色のかげが、またたく間に移り変っては逃げていく、そんな光の綱渡り師のようなやつが、クモの糸をしきりに昇ったり降りたりしていると、そう思ったのでした。

 「目にみえないと思っていたものに、虹の余韻が宿っていたなんて。透きとおったものの上を、虹の跡が、こうしてすべっていたなんて。」

 そう云う間に、またさきほどのクモが、ツツウと糸をつたってよじ昇って来ました。と、ふいっと何処かへ姿を隠したかとおもえばまた、あたらしくつけた足場からたちまちツウーとまた糸をひいて、たちまち反対がわへと消えていくのです。
そしてまたじきに戻ってきては、別の足場から糸をひく。そうこうするうちに、こんどはめまぐるしく、糸の渦巻をぐる、ぐる、ぐると巻きはじめました。と見る間に、こんどは反対まわり。そのとき仮に作っておいた足場の糸を、自分でこわして消していきます。
 そんなふうにして、あっという間にたくみな糸の織物を、絵描きの目の前につむいでみせたのでした。…
 おや。そのうち、一匹の小虫が 網にかかりました。クモはそれを待ち構え、一気にエモノをとらえました。

 「ほう。みごとな腕前だ……。」 絵描きはすっかり感心しました。

 「透きとおった糸を、思いのままにあやつるクモの手品師よ。おまえが、目に見えないものをこうして編むのは、なぜなんだい?」 絵描きが、そっとたずねました。

 「ごらんになっていたとおりです。」 クモは答えました。

 「見えないものをつかって、エモノを取るためです。わたしたちはこうして生きのびなければなりません。けれどもじつをいうと、それだけではないのです。わたしたちは、目にみえないものをつむぎ、それによってすべての生き物たちが、そのよろこびを天に返すことが出来るようなものを、造るように、との、天のお告げにこたえているのです。これはわたしたちのよろこびと、天へのささやかなお礼です。……ほら、みえますか?」

 絵描きは、よくよく目を凝らしました。と、はっきりとは目にみえにくい、この立派なレース編みの、いたるところに虹のかげがたわむれているのです。どれもすこしもじっとしていず、ひとつの色にとどまることなく、青みがかったぶどう色から、すみれの紫色に、あかね色に、またこはく色に、エメラルド色に、マスカット色に、そしてまたラムネ色に、…めくるめく水車のごとく色を移しては、往ったり来たりしています。

 絵描きは、立ったまま、しばらくの間うつけていました。それから、ぼんやりと空をみあげ、うつりゆく雲のおなかを眺めはじめました。その雲の白は、ちょうど真珠の玉が、かすかに虹の膜を帯びた独特の光沢を放つように、すべらかな虹の影を、空との境界線に浴びて光っていました。 

 木陰に目をやりました。その陰は黒というよりはむしろ、時折射し込む こもれ日とたわむれながら重なりあう、るり色、あかね色、白んだ黄緑色たちのおりなす、何とも云えない躍るかげり、なのでした。……

 絵描きはふと思い立つと、じつに色とりどりの絵の具をしぼって、パレットに並べはじめました。なかには、風景の中には見あたらなそうな色までもが、並べられています。でも今、この絵描きには、それらの色が必要になったのでした。かれは、ようやく心の目で風景を眺めはじめていました。いつしか風景をまえにしながらもこれにすっぽりと包まれているのを、気付いたひとに特有の、躯ぢゅうのちからがすっかり抜けたたたずまいを、かれの姿はみせはじめたのでした。かれ自身は、そう気付かずにいるかも知れませんが。
 そして、ただもう一心に、木立のかげりに、とおい山なみや、こんもりとした森のシルエットに、またなだらかな若草色の丘の稜線に…、日射しのように透きとおった自分のまなざしをそそいでいるばかり。その目は、いままでかれが風景の中に、けして見出さなかった、光と影とにひそんでいる、ごくささやかな色の粒を、感じ取っていました。

 こぶしや桃の木陰には、ただの薄暗がりではけしてない、微妙な色の交わりが、虹の七色とその〈あいだ〉を、かれのカンバスのなかで往ったり来たり繰り返しながら、たえずお喋りをかわしていたのです。ていねいに、色の粒を置いていくほどに、しだいに色と色とが重なりながら形を帯びていきました。

 いつしかカンバスのなかの木陰には、しっとりとしめった空気が漂いはじめ、一方その外のあかるみには、思わずまぶたの底のくらくらしそうな、痛いほどにまばゆい光がよみがえりました。とおく紫色にけぶる山々には、ふつふつと昇りたつ冷気までが、カンバスのなかにたちこめ、それが絵の具にまみれた筆を通して、絵描きの手もとへつたわってきます。さて、手前に広がる野原のほうはどうでしょう? 
 野原のまん中にふくらんだ、丘のおなかのこんもりと丸みを帯びたぬくもりも、その姿のまどろみも、いまではすっかり手にとるようにわかるのでした。

 すべてのものが、色のなかに息づいていました。かれにそれを描かせているのは、日射しでした。目にはみえない、色のないもの。でもかれは、それが照らしだす すべてのもの、――丘、波立つ草、たんぽぽやひなげし、桃の花、こぶしの木、とおい山々……そうしたものたちに宿る、めくるめく色の粒を、カンバスのなかにもすっかり移り住まわせることが出来ました。〈みえないそれ〉を、まるで秘密を解き明かすように、絵筆のしたに、次から次とそっと浮かび上がらせていったのでした。一匹のクモと、気のせいのようなお喋りをした時から。そしてクモ糸をつたい、クモの編み物にたわむれる、虹の精を目にした、その時から……。



中編童話の扉表紙