ふたりの天使の兄弟が、雲にのって、地上を見回りながらこう云いました。
 「クモの糸をつたってぼくらの愛の息がそそがれている、この辺り一帯よ。目にみえないちからにうながされ、地上のものたちが、ほんの一寸でいいから、いつもかれらを驚かせ、不思議がらせる、ぼくらのことを思い返してくれますように。そしてかれらの心と躯の動きのひらめきを、出来るならばよろこびとともに、ぼくらに映し返してくれますように。」
――――それは、透きとおった天使と、秘密の天使の兄弟でした。あらわれの天使と、かくれの天使ともいわれました。かれら兄弟はまた、さすらいの天使ともいわれました。かれらは、神の背中に、神とともにいて、天使の中でももっとも初めにいたものたちでした。そしてたいてい弟は、兄に遅れをとっていました。それが神のおぼし召しでした。兄弟の間柄は、遠くて近く、近くて遠いのでした。けれどもまれに、かれらはまた、ふたりでひとりでありました。かれらには、まったくひとつに合わさる瞬間がありました。それは地上のものに幸福な出来事のおこる瞬間でもありました。      


         *


 ひとりの少年が、丘のみえる村の辺りをさまよっていました。けぶたい、不思議な恩寵の光のなかに、丘はしずかにたたずんでいました。かれはそれに近づこうとしていました。なぜかよくわからないまま、なんとかして近づこうとしているのでした。でも、けして叶わないような気が、心のどこかで していました。かれの姿勢はいつも前のめりでした。
 あの丘へと向かう道は、いったいどこにあるのだろう?… そう思ってさがしつづけているのでしたが、一向にみつかりません。いつまでたっても、あの丘のまわりをぐるぐる巡っているばかり。 そして、なにより奇妙なことに、その間ぢゅう、かれはたえず何かに付き添われているような気がするのでした。 それは、かれ自身にもほとんど気付かれないような巧妙さで、付いて来ているような気もしましたので、なあに一向にかまうことはないと思うのでしたが、ひとたび気にかかりだすと、もういたたまれなくなるのでした。そうして振り返ると、だれもいず、また何もありませんでした。かれは振り返った自分の頭の重みを感じながら、自分の肩ごしに、背負った少しの荷物と、たどって来た道とをみるばかりでした。
 『何のへんてつもない出来事だ。』
 『何のへんてつもない光景だ。』
 かれは自分に言い聞かせました。それにしても、なんと丘は遠いのでしょう。こんなにも近くに見えるというのに。…少年はひとりごちました。
 そしてまた不思議なことには、あきらかに〈それ〉の廻りを巡っているのに、永遠にそのものへとたどり着かない気がするのと、たえずなにかの影に付きまとわれている気がするのとは、なんだかまったく無関係でないようにも、想われるのでした。
 「それにしても何故こうも、たどりつけないのだろう? どこまで行ってもおなじ風景のなかを歩いているだけのよう。まるで動く円盤のうえを逆回りにまわっているみたいだ…。そうしてなにより一番不思議なのは、どこを歩いていても、いつもここが辺境線のような予感のすることだ。でもいったい、何と何との間だろう? 何処と何処との境だろう?」
 かれは思い切って歩いているひとに――めったに出合わないのでしたが――尋ねてみました。
 「すみません。ここは、村境いですか?」
 「たしかに、ここは村のはずれ。だが、私らにとっちゃ、ここがまんなかだ。なにしろ、すぐそこに、あの丘がみえるのですから。」
 「そうですか、それではこんなに間近いあの丘へは、どうやって行ったらよいのでしょう?」
 「どう行ったらって、どこからでもお行きなさい。道は至る所にある。ああしかし、きみはあれをもっていますかね?」
 「あれ、とは?(もしかすると、昨日落とした、あの赤い切符のことかな?)」 少年は戸惑いました。
 「ああ。いったいおまえは何を戸惑うのだ?戸惑ってはいけない。戸惑っては手にすることのできないあのものだというのに。おまえはもう失格者のようだ」
 そう云って村人は去ってしまいました。
 少年はまた歩き出しました。が、相変らず丘へ近づくことは出来ません。そしてまた、相変わらず〈ここ〉は辺境地帯なのでした。赤ん坊を背負った、ひとりの婦人にたずねました。
 「あのう、ここは村境いですか?」
 「村の中心ですわ。丘のふもとですもの」
 「それでは、丘へはどうやって行ったらよいのでしょう?」
 「どうやってもなにも…。道はほうぼうにありましてよ? お見えになりませんの? あ、ただ」
 「ただ…?」
 「例のものは、お持ち?」
 「例のものとは?」
 「落としまして?」
 「えっ? 」 かれはわけもわからず、かがみ込みました。そしてまた、振り向きました。何か落としたのかどうか、思わず躯を触ってもみました。
 「わけもわからぬものに振り返るなんて。もってのほかだこと!」
 ご婦人は急に怒った様子で云い放ちました。 「あなたには、おそらく、もうあの丘へ行くことはできないでしょう。」
 その女の人は、暗い家のなかへ引っ込んでしまいました。 
 そうしてまた、とぼとぼと歩きはじめました。
 丘はすこしもかわることなく、もやめいた空気に包まれ、にび色の不思議な光と影とをその稜線にそっと映し出しています。また長い間だれにも出合わず、かれ自身にさえ出合わぬままに、少年はもうほとんど夢ごこちで歩いていました。
 腰のまがったおじいさんが、杖をついて向うからゆっくりと歩いてきました。あんまりゆっくりでしたので、後じさりしているようにみえました。
 「すみません。ここは村の境界ですか?」
 「いいや。この村はじつにひろい。わしらの足では何処まで行っても境界などないじゃろう。」
 「丘へは、行ったことありますか?」
 「ここはもう丘のふもとと云ってよいくらいじゃ。これ以上近づいてどうする?」
 「ちょっと登ってみたいと思ったので…。あんまり気持ちよさそうに見えたものですから。」
 「あんたは他所ものかね?」 おじいさんがたずねました。
 「たしかに、遠くから来ました。どうやって来たのか、よく憶えていません。いつの間にかこのあたりに居たのです。」
 「自分のきっかけもわからずに、自分のゆくえを知ろうというのか?」
 「え?…」 少年はその言葉におどろきました。そして少し考えてから、かれは何か云おうとしました。が、声になりませんでした。
 「そういうものには、うんと〈迂回〉してもらわねばならんじゃろう。道は遠い。気のとおくなるほどにな。よほどのことがないかぎり…。おそらくこの先、何人ものひとに会い、姿を視られ、話をせねばなるまい。」
 おじいさんは言い捨てると、背中を向けて庭のほうへゆっくりと姿を消して行きました。

 夕方になりました。子どもたちが、石けりをして遊んでいました。短い影が、道にくっきりと映し出され、けり石のそれは短剣のようにとがった先をこちらに差向けて伸びていました。少年は、子どもたちの後ろ姿にすこしほっとしたと同時に、ますます気が遠くなるような気もしました。とくにどれということもなく、幾つかの背中にかれは声をかけました。

 「ねえきみたち、あの丘へ行ったことがあるかい?」
 「うん。当然さ、毎日。」 子どものひとりが振り返ると、いばってこたえました。
 「ねえ、あんただれさ?」 こんどはその子のほうから聞きました。
 少年は笑って言葉をにごしました。

 「どこから来たの?」 別の子どもが尋ねました。 
 「遠いところから。」 
 「何故ここへ来たの?」
 背の高い子どもが聞きました。
 「わからない。」
 「どうやってここに来たの?」
 また別の子どもが尋ねました。
 「さぁ、憶えていない。ただ歩きつづけていたんだ。」
 「住むところがないのかい?」と、またひとりが、すっとんきょうな声をあげました。それは、すこし馬鹿にしたような調子でした。
 「ああ…。何処にいても、ぼくの住処ではないようなんだ。居てはいけないような…そうしてまた、何かを探しに出てしまうのさ…。」
 「なら、ここにも居られないよ。あなたには、どこか居心地わるそうだもの。」
 いっとう年上そうな子どもが、おとなびた顔つきできっぱりとそう言いました。
 「何だって?」 少年は驚いて、言葉につまりました。いきなり顔のまえに鏡を突き出されたような気持になりました。
 
 「食べ物は食っていたの?」 誰かがぶっきらぼうにたずねました。
 「自分で稼いでいたから。暗い工場にいたんだ。ガラスをふくらまして、コップや花瓶をつくっていた。でも、ふくらんだガラスが割れて、目を片方無くした。それで止めたんだ。そのあとは仕事をしたり、しなかったりさ。食べ物がなくなったら、また何かするよ。」
 「お父さんとお母さんは?」誰かおさないものが、すこし心配そうな声をあげました。
 「いない。或る日、小屋にいきなり兵士が来て、連れて行かれた。そしてそれ切りなんだ。兄弟も消えた。いつもぼくにはわからないまま、いきなり何かがやって来て、事が起こり、そのまま〈そうなって〉しまうんだ。そういえばそうさ…ずっと。生まれたときから。こんなぼくだから、あの丘に行く資格がないんだろう?」
 少年は、ふとぶっきらぼうに云いました。はき捨てるように。
 「資格って?」子どもたちが聞き返しました。

 「この村のひとはみな、そう云うじゃないか!」
 みんなは顔を見合わせました。
 「そうかなあ?」 だれかが云いました。
 「きっともっと他の理由だよ。」 もうひとりが云いました。
 「さっきぼくに、きっと丘には行かれないと云ったやつがいた。 ねえきみ。なぜそう云ったのだい?」
 その子はちょっと驚いてから、手を後ろに組むと、仕方なさそうに、ぼんやり下を向いて云いました。
 「資格がないというのじゃなくて…。何だか、あなたの様子が、何かを追いもとめていて、ちょうどそのぶんいつも何かが欠けているように、――そう、弱みでもあるようにみえるからさ。なんだかずっとずっと、何かに付きまとわれてるのさ。そうして探し求めているものに、いつまでたっても近づけないんだ。」 少年はぎょっとしました。思わず自分からその場を去って行きました。

 たえず自分のかたわらにありながら、けして近づくことのできぬ、でもたしかに佇んでいるあのけぶった光の丘を、かれはもう見つめることさえできない気がしました。
 「ぼくがいったい何処からどうやって来たのかも、思い出せないのが、いけないんだろうか? それが弱みなのか知らん?」


 「まあ? あなたったら、なぜ逃げているの?」
 ひとりの女の子が、急に立ち止まって訊ねました。
 「逃げている、だって?… ぼくは、ぼくは探しているんだ。」
 少年はむきになってさけびました。
 「なにを?」 
 女の子は道ばたで踊りながら、こう聞きました。その声は笑いをふくみ、手をひらひらさせては、一本の足でつま先だってくるくる回っています。少年は小声でこたえました。
 「何なのかは、よくわからない…。」
 「あたし、知ってるわ。あんたの探してるもの。それはあんたの躯(からだ)よ。」 女の子は躯を止めて、振り向きざまに云いました。
 「躯だって?」
 「そう。…あんたは自分の躯を追っているわ? ほんとうの躯。そしてその分、逃げられているの。だからいつまでたっても何処まで行っても、突き当たらないのよ。あんたの探しているものに。…ねえ、なにか失ったの?」 
 「失った? なにかって……
 『そうさ、いろんなものをさ!』」と、思わずそう叫びたくなるのを、小年はやっとこらえていました。
 「わかったわ、その目よ? 失ったもの。それはあなたのその片方の目…。」
 女の子はそう云うと、いきなり駈け寄りました。(その走る様子に、かれは少し驚きました。それは、何ともいえぬ独特のしるしを帯びてみえました。)そして、少年の肩に手をかけると、女の子は、少年の底無しの湖のように深い目の奥を、くい入るようにのぞき込みました。そしてその深くえぐられた片方に、そっと、自分の息をふきかけました。
 それからかれらは、しばらくじっと黙っていました。

 やがて少年がしずかに尋ねました。
 「きみは何故、踊っていたんだい?」
 「いつだって 踊っているわ」 女の子はこたえました。そして小首をかしげてから、
 「でも、どうして踊るのかしら。」 と、踊りながら笑いました。
 「きっと、あたしの躯を追っているのよ。あたしの躯の、けして振り返れない場所。そして、私の躯を立たせている、不思議なものを。」 そうして、そっとまゆを持ち上げると、
 「でも、つかまらないの。いくら回っても…。」 そう云いながら、女の子はそっと身を離しました。
 「それでもいいのよ、とても気持がよくなるのだから。」

 そう云うと、女の子はそっと両手を組んだまま、道の上をくるくる廻っては、時々振り返って小年に笑いかけながら喋りました。

 「ときどきは、躯を宙に放り投げて、すっかり消えたくなるときがあるわ。それでつい、飛んだり、跳ねたり。でもすぐに躯は〈あって〉、それはもうたちまち降りてくる…。それでもいいの、とても気持ちがよくなるから。ほら、こうして回りながら、思いきり宙を舞ったとき、そのまま躯が空に消えたように思えるの。また躯となって、降りてくるけれど、それでもいい。十分だわ。たとえ一瞬でも空に吸いとられたから。なにかに受け容れられたから。そしてあたしの躯はあたしとひとつになるの。嬉しくて仕方なくなって、ひとしきり跳躍するのよ。こうして、脚を交叉して。フェッテ。シェネ。アラベスク。……」 

 女の子は、ひとしきり踊ってみせました。それはたいそう上手でした。
 「踊りを習っていたんだね?」 
 少年が尋ねました。
 「習っていたのでなく…」 女の子は息をはずませ、途切れとぎれにこたえました。
 「踊らされていたの、サーカスでしこまれて…。もう、飛び出してきちゃったけど…。こんな細い綱のうえで、舞ったり、飛び跳ねたり。何度も落ちたわ、ネットのうえに。でもそのうち、自分の躯を引き受けることができるようになったの。」
 「自分の躯を引き受ける?」
 「そう。自分の躯の見えない部分にまで、心をそそぐの。手の届かない部分にまで。そうでないとすぐにぐらつくし、落っこちてしまうわ?」
 それはちょうど、天から一本のみえない糸で吊られたような感覚なの。ひとりでに立っている…。何かにかなっているの。すとんと肩が落ち、上から引っぱられるように背筋がくっとのびて。そんな姿勢になったとき、この躯は、ぐらつかず、よく宙に浮くのよ。もちろん、すぐに降りてくるけれど。でもそれをたえず繰り返すの。すっかり疲れ切るまでね?…ねぇ、ほら! これをみて。」
 女の子は、道ばたのクモの巣を指さしました。ふたりは並んでその傍へ近寄っていきました。
 「天から一本のみえない糸で吊られた感覚って云ったでしょう? あれは、ちょうどこんなふうなものかも知れないわ。クモが自分の糸をつたって降りてくる。そして吊られている。その糸はか細くて、よくはずむ、どこまでもしなうもの。そしてぐるぐる回るでしょう? 巣を編むために。この子は、自分の躯がすっかり見えていなくても、自分のつむぎだす糸のことも、それと躯との関係も、足場にする枝との間隔も、引力のことも、ちゃんと全てを知っているのね。どう動けばいいのか。自分の躯をどう使いこなせばいいのか。…きっとすっかりわかっているのだわ。そしてただそれにしたがっているの。みて。このたくみなわざ。足使い…。こんなか細い綱渡りよ? サーカスのピエロみたいね。」
 「だがきみは、もう止めてしまったんだろう?」
 少年はクモの巣からじっと目をはなさずに、呟くようにそう尋ねました。
 「サーカスのことね?」
 女の子の顔がふとかげりました。
 「片脚を折ったので。いまではもう、すこし長さがちがうのよ。」
 「(それだったのか…。)」 少年は。はっと心のなかで思いました。
 「長さのちがう脚の踊り子など、使いものにならないから、自分からテントを出てきたわ。でもそれでよかったの。踊りが好きといっても、綱のうえでは、時折、さすがにこわくなる。とくに本番ではネットが外されてしまうのだもの。それと、なんだかあたし、それで食べていくというのが、いやだったの。食べるために、どんなに躯がぼろぼろになっても、眠る時間もなかった。それほどに働いても、お小遣いなどほとんど無かった。一日に一度食べるのが、精一杯だったくらい。そうして何より、そのために踊ることがイヤになるのが、一番こわかったのだけれど。」
 少年の目には、知らぬ間に涙が溢れていました。それは零れ落ちました。見える目からも、見えない目からも。涙もまた、かれの躯のひとつなのでした。それはたしかに、かれ自身のものであり、かれ自身であり、かれ自身の出来事でした。
 「丘へいきましょう。」
 女の子は云いました。少年は、『どうやって』『何処の道を』…とはもう云いませんでした。もう辺境線などありませんでした。
 気がつくとふたりは、金糸のおり混ざったやわらかなみどりの草を踏みしだき、夕ぐれの丘をのぼっていました。たんぽぽの目を射るような黄金色のじぐざぐが、なだらかなのぼり坂をかげりとともにかたどっていました。
 丘のうえには、古びた白い教会がたっていて、あかね色のまばゆい光を一身に浴び、その入り口はまるで洞くつのようにぽっかり開いたまま、日がなあくびをしているようにみえました。よくみると、奥に朽ちかけた木造りの扉があるのでしたが、夕方の斜めの光とポーチの暗がりのためによくみえませんでした。
 ひとりの牧師さんが花の咲き乱れる前庭に出てきました。長い影を引いていました。
 「こんにちは」
 「こんにちは」
 牧師さんが、ふたりに云いました。
 「しばらくここで仕事をして行きますか。」それはもう、たくさんありますよ……ステンドグラスの窓拭き、祭壇と床の掃除、祈祷席の修理、日曜日のための用意。いろいろと、と。
 かれらはうなずきました。
 そしてみな、赤暗くそまった扉のなかへと入って行きました。…
 入口の扉のすみに、大きなクモの巣がかかっていました。サーカスの網のように…。女の子は云いました。




 「ねえ牧師さん。おねがいがあるの。お掃除をしても、この網だけは捕らなくてもいいでしょう? きっとあたしたちの命の恩人に違いないのですもの?」
 「かまいませんよ。…ああ、だが」
 と牧師さんはふと考え込んで、
 「日曜日に来られる、清潔ずきなご婦人がたの高い頭の列に、ひっかからないようにしなくてはね…。はて、どうしたものかな。」

 「目立つように、いろいろと〈しるし〉をほどこしたらどうでしょう?」 少年が云いました。
 「なるほど、それはいい考えだ。それではふたりで、いろいろと手をほどこしてやってください。一目でそれとわかるよう、草の実やら、うつくしい花びらなんか、釣り下げてね。」
 みんなの笑い声がひびきました。
 ふと教会の鐘が鳴りました。鐘の音は丘をかけ降り、村ぢゅうへ広がっていきました。 「ねえ牧師さん?」 女の子が云いました。 「私、さっきのクモの巣に飾り付けをほどこしたら、それをここの暗がりにではなく、鐘塔の屋根にささげたいと思うわ。空に少しでも近づけたいの。空に、何かお礼を言いたいんです。」
 「いいですよ。」 牧師さんは笑いました。
 「ぼくも手伝うよ。」 少年が云いました。 そして棒切れでそっとクモの巣の端を触りました。が、思うようにはがれません。
 「これはむずかしいよ。網の目がくっつかないよう、きれいに取り外すのは…。こわれてしまいそうだ。」
 すると、ツツウ…、一匹のクモが、透き通った糸をはきながら降りて来ました。
 「クモさん……。」 少年はあわてて謝りながら、巣をつついたわけを話しました。
 「塔の屋根にうつれと。それでは、私じしんがそこへ行って、もっと丈夫なあたらしい巣網を作りましょう。」 クモは云いました。 それを聞いて女の子は喜び跳ね回りました。そしてさっそく中庭へ飛んでいきました。  まもなく、スカートのすそをいっぱいに広げて、女の子が戻って来ました。スカートのなかには、ちいさい草の実や、れんげの花びら、たんぽぽの綿毛が小躍りしていました。
 それからふたりは牧師さんの後についてゆき、鐘塔への螺旋の石段を、ゆるゆる昇って行きました。少年はクモをそっと棒切れの先にのせ、女の子は大切な飾り物がスカートから飛び去らないよう、気をつけながら。
 鐘楼へたどりつくと、少年は屋根の軒先にそっとクモののった棒切れを差し出しました。 村ぢゅうを見渡す高いたかい楼の屋根の軒先で、クモはあの独特の踊りをはじめました。 時折風にたわみながら、光の精のきらきらつたう、魔法の糸を繰り出して。
 弾力のあるあたらしい巣網が、みるみるうちにできあがりました。女の子は、さっそくスカートに包まれた色とりどりの〈しるし〉たちを、ていねいに飾り付けはじめました。 小さなしるしたちは、ちらちら打ちふるえながら、巣網のうえで心地よさそうに風に揺れました。
 こうしてすべてがととのったと、みなが思った時でした。一条の光が、あたりに射し込みました。とクモが、ふいに楼の軒先から、宙たかく舞い上がりました。そして瞬く間に消えてしまったのです。それはまるで雲間から、天の使いが光のつり糸を引いて、クモを天に連れていったようにみえました。みんなが立ちすくんでいると、しばらくしてクモが風にのって舞い戻ってきました。
 「いったい何処へ行っていたんだい?」
 「塔のてっぺんですよ、見てください。」
 みんなが目を凝らしますと、塔のてっぺんの十字架に、クモの巣網の先端がとどいてきらきら光っていました。鐘塔にはためく巣網――それは、空の海にひるがえる、透き通った船の帆のようでした。
 みんなは祈りをささげました。
 
        ***

 いつも雲のうえからじっと地上を見まもっていた天使たちは、これらの不思議な出来事が起こって、さぞよろこび、はしゃぎまわっていることでしょう?
 そう思って、ちょっと空をのぞいてみますと……。おやおや?雲のうえには、だぁれもいません。いったい、何処へ行ってしまったのでしょう。
 そう、神様と天使たちはいつも、この不思議なよろこび の出来事が起こった瞬間、かならず姿を隠してしまいます。いいえ、それは隠れるというより、天と地上とのすきまが無くなって、いつもの、おきまりの居場所がなくなってしまう、とでもいうようでした。 それは、さぞ迷惑なことでしょう、って? それが迷惑どころか、神様たちにとってもこれ以上のよろこびはないらしいのです。天使のひとりが言っていましたっけ。雲のうえの居場所や、天の上の姿が無くなることほど、うれしいことはないのですって。
 
 神様と天使たちが地上にさずけた、「不思議」という地上への贈り物と、地上に生きるものたちが返した、「喜び」という、天への贈り物とが、目に見えない魔法の糸で、こうしてひとつに結ばれたというお話。




中編童話の扉表紙