はじめに――――物語について




以下‘聖譚曲’第31章より一部抜粋


   「人間には聖〈holy〉な瞬間というものがございます」…
   和光先生のこの言葉が、私にひとつの童話を考い付かせる。地上が好きで好きで
  たまらない、天使の物語を。

   地上が好き――だって地上こそは、変幻自在な彼の居場所、生きた受肉の場なの
  だから。それ以外、彼は置き去りだ。躯を無くし、天空に預けられたまま放り出されて
  いる。現象学のいう未完結性、けして閉じられない輪(神様の、少しずつ欠けた夢)の
  あのイマージュとともに。

   天と地とをつなぐ一本の線…天使の垂れる釣り糸。蜘蛛のつむぐそれのように透き
  通った、光の糸――画家の眼を通す。
   また、子猫たち、画家に引き取られたサーカスの娘、及びひとりの放浪詩人(=孤
  児)の少年の眼を通す。それは同時に地上の生き物(小鳥や虫達、たんぽぽの綿毛
  の精、蜘蛛[媒介者]ら)による、天使への音の 祝祭⇔贈与 の出来事―――但し
  何の犠牲も払わぬ純一なる昇華としての――との一致。 (なだらかな丘にて)

   地上のものは大抵、天使の垂らす目に見えない釣り糸で、ぐるぐる螺旋を描いても
  誰も見向きもしなければ、この軌道に躯をあずけてもくれぬ。おのおの自分かっての
  方向をむき、動めいている。だがときに地上の目覚めたものが何ものかに喚起される
  ように みずからまたおのずから 姿勢を整える=(立て直し)。
   すなわちひとりひとり自律的な「極」としての主体に共にかえろうとする。このとき天
  は無限に地上に近付く。縦糸と横糸の密なる繋がり(ドーム状に編込まれる光の糸
  =蜘蛛の巣)。
   地上の生き物たちと風景への天使の受肉=稀に訪れる暗示にみちた瞬間の訪れ。
  昇天と降天。リルケのいう昇りゆく幸福と天下る幸福(さち)。その「一」性(合致)…。
  地上そのものの自律運動を徹底的に尊重することと、御意の反映の無矛盾性。
  ‘聖なる瞬間ということ’…自発性の秩序の発現ないし回復。地上それ自体における
  事事無碍。 そしてまた分極 (それぞれの異なった己れへの還帰。)――――

                                  

        
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参考Essay「Cahier」長編童話「天使パド物語」を記する
    にあたっての 雑記帳



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