2004年03月19日

一ヶ月振りになってしまったが、次回からCp1からの楽曲分析に入りたい。
その前に一度バッハの他の主要作品と比した時の「フーガの技法という作品」に就て、この時点で形成された感慨を記しておきたい。
一体ここで表現されているものとは何なのだろうか。
先ほど自分の部屋を離れ、或る用事で兄の部屋を訪れた時、フーガの技法と「類似した音列」が偶然耳に入ってきた。
たしかに同じ類型に属されるであろう音型である。ドアノブに手を掛けたまま耳を澄ますと、それは聞き慣れたはずの平均律第1巻8番fugaであった。
平均律第1巻それ自体、2巻と較べれは「フーガの技法」の世界とはやや離れたロマンチシズムの有る音楽性のものが多いかも知れないが、4,8,12,24番というのはかなり実存性が濃厚な作品であり、その精神世界も諦観や虚無に通じるシビアさも伺える。
がやはり、8番にはまだ或るロマンチシズムともいえる境地が残っているであろう。あそこには、所謂「祈り」がある。
フーガの技法には、「祈り」はないのだろうか。
厳密な意味に於る祈りは、全くないとは云えないのだろうが、両者にはやはり、宗教性の意味、その位相が異なるという印象を受ける。
元来平均律に於てさえ、その「祈り」とは所謂キリスト教的な意味の祈りというよりは、その境域を脱皮してしまった<実存>の祈り――‘他の存在者’を介在させない、じかに<己自身の魂>の祈り――がある。がそれは言い換えれば余計な要素(介在的観念)を取り除いた、純一に・高度に普遍的な意味に於る「宗教的」次元としての祈りであるとも云える。
だがフーガの技法に見出されるのは、――祈りがある、と言うにしても――もうすでに「祈り」に含意されるであろうロマンチシズム(向き合いつつ包摂される存在者≒神、というものを前提にした主観や観念)の片鱗すら殆ど皆無であって、実存者の思弁と思惟が殆ど剥き出しになっている、という印象を強く受ける。

バッハの作品に限らず、或る音型乃至或る音型の連鎖というのは、そのままその作品および作者の「精神」を現わしている、といえる。そういうことになってしまうのである(音楽表現、というものは。おそらく)

するとフーガの技法にあっては、そこでバッハが対峙していたものとは神(と言われるもの)でもなくいわゆる宗教「性」でさえなく、敢えて言うなら宗教的もしくは哲学史的に見、また思想的に言っても、本当にぎりぎりの‘宗教性’に属する境位の膜をすら脱皮してしまうかにみえる魂の位相に於ける(祈り)=括弧付きの祈り、であるということが出来るのかも知れない。じつにシビアな実存者としての己が露わとなった世界である



2004年03月20日

>本当にぎりぎりの‘宗教性’に属する
>境位の膜をすら脱皮してしまうかに
>みえる魂の位相

とは何か...

所謂「祈り」をなくした次元の実存にも残りうる最後の宗教性、というものがあるとしたら、それは何か

全てを説明され尽くしたあとに残る一文、
では何故‘このように’在る(有る)のか、という応えのない問いかけであろう
それとともに、とにかく‘このように’在るものにただ即するのみ、という実存の軌跡であろう。

それは言い換えればまた、バッハ自身が達成しえたもの、それ自身のもつ神秘である。

何故かは知らぬが‘このように在る’ものに即し・是を形象化(成就)し得たその特異なる営為、その人為の神秘である。



2004年03月25日

平均律第1巻8番Fugueと
The Art of Fugueとが、

>同じ類型に属されるであろう音型

であると思われるにも拘わらず

>8番にはまだ或るロマンチシズム
>祈りともいえる境地が残っている
>であろう。

のに、

>フーガの技法には、(殆ど)「祈り」は
>ない

のだとすると、それは何故か。

>両者はやはり、その持つ宗教性の意味、
>その位相が異なるという印象を受ける

ということに、何故なるのだろうか。
是に就て、先日まだ省みていなかった。

ところで「フーガの技法」の殊にどの部分が、平均律(1巻)8番と同類型に聞こえる音列と感じられたのか...
それはおそらく両者の主題(基)そのものの組成にあるだろう

改めて思い直してみたところ、
最も端的にはこのようなことが思い当たる

・平均律8番…(変ホ短調)ミ♭-シ♭--ド♭シ♭ラ♭ソ♭ラ♭シ♭-ミ♭-ラ♭--ソ♭ファ

・フーガの技法…(ニ短調)レ-ラ-ファ-レ-ド-レミファ-ソファミ
[or
・フーガの技法-終曲第1主題…(二短調)
レ-ラ--ソファ---ソ---ラ---レ--]


このうち、♭が6つの平均律8番のほうを仮に半音下げて同じ「二短調」にして考えると、こうなる。


・平均律8番…(変ホ短調)レ-ラ--シ♭ラソファソラ-レ-ソ--ファミ

・フーガの技法…(ニ短調)レ-ラ-ファ-レ-ド#-レミファ-ソファミ
[or
・フーガの技法-終曲第1主題…(二短調)
レ-ラ--ソファ---ソ---ラ---レ--]

こう見るとやはり同じ親から出現する変奏曲同士のような関係であることはわかる。
ではそのフレーズ処理の主な違いは何か。

一言で言って、双方ともに巧みな対位法に基づいた楽曲ではあるが、前者はメロディク、すなわちメロディ性がより前面に出た音列によりロマンティックなアップダウンが目立つ。そしてその醸し出されるメロディの息の長さが優先される分、対位法の展開が先へ先へと持ち越される形になっている。

だが後者フーガの技法では、メロディクに旋律を生かすことよりも、対位法の駆使が何より優先されている。きわめて厳しい音の持続性と和声の緊張感の高さが際だつ処理がなされていく。したがって、前者ではまだ名残のみられる第2声部の出だしのもつ付随性(主題=第1声部に対する従属性・伴奏性)が、後者に於てはより(主題=第一声部に対し)対等・等価に近づく。これにより、いわゆる「雰囲気」と呼べるような空気感――主観性の膜――の醸成はそがれ、代わって弾力性・躍動感(こちらは主に冒頭主題)か もしくは、凄絶さ・絶望感(こちらは主に終曲第1主題)が、何れにせよ、現実にじかに即した実存のシビアさのようなものが主題そのものに内在しはじめ、声部同士の関係にも重々しい気分と厳格さが否応なしに具わってくるように思われる。



2004年09月14日

再度、再開に際して

フーガの技法にかんする研究など、すでに多くの優秀な専門的知識を有たれる方々のなさっていることであろう。
そういう思いが、時折浮上しては、ふとこの探求を私自身にこれ以上続けさせぬよう働きかけてきたかも知れぬ。

だが物事は必ずしもそういうものではないだろう。

これまでの私の筆記を読み流していると、やはりこのよな文句が多々登場する。

「…の主題は、一見何かの目的のために便宜的に持ち込まれた、無関係の主題のようであるが、これ自身もじつは…に出てくる基本主題の変形の転回形…といえる形の応用である。それは、元はといえば△△主題の転回形…からおそらく生じているだろう...」

「何故、この二つは呼応するのか。
また何故、××の主題は、《出現しうる》のだろうか」
「このように、別の主題のエサンスの代表同士も、勿論基底が同じな為、互いに緊密に繋がっているのではある。
(これらが半音階性脱着がそのまま主題化し…主題の《巧みな伏線》になることは非常に示唆的である。)
バッハは未完フーガに於る対位法駆使の中で、この種の半音階性の脱着を、《水面の波のように可変的に繰り返し》ながら、いよいよ主題そのもののkey音を用いて第1主題→第3主題(=B-A-C-H主題)への移行に寄与させるのである」

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専門的な学科や先生に付いて研究している訳ではないので、私自身まだ参考にする書物といえば2〜3のCDに添付されていた詳しい解説書くらいなものだが、そうしたものを読んでいる際にも、最も立ち止まる点は、

「まずは基本主題と《関係のない》第1主題が展開されゆき、…ついで○○が絡み合うようになる」とか
「この主題は暫く優位を占めているが、《やがてあまり知られていない2つの主題が加わ》って...」といった書法である。

それらの言葉は、まるで『或る主題Cは、AとB両者の対話進行や解決を図るためにバッハによって唐突に挿入された、これまでのものとは“無関係”の主題、』という印象を受ける。
尤もこうした書法は、素人へのフーガの技法の構造解説書としては充分なのかも知れぬ。が、私の場合どうしても立ち止まる。

哲学でもよく、「対立するふたつのものの対話と対決を解決に導くためには、これらと《まったく無関係な第三者の秩序》が必要とされる、そうした者の登場が、稲妻のように解決への道を開く」といった物言いがなされるように思う。
しかし、無関係な第三者的秩序、といわれるものは、そもそも何故登場し得、また本当に無関係、なのであろうか。無関係なものが、(解決のために)突如として現れる、ということがありうるのだろうか。
物事が進展し某かの解決がはかられる時、そこには底深い次元での緊密な「秩序としてのつながり」が隠されていない、などということがあり得るだろうか…。

私には、ひとの思考・行動が、はたまた自然界のうごめきが、何故「そのように」成立するのか、そこには何が働いているのか、どう作用しているのか、等に就ての執拗な興味がある。
「Cを着眼しろ、そうするとこうなるからZという結論になる」
と言われる時、「何故Cに着眼するのか、何故Cは、登場してくるのか・しうるのか、また登場するべしと“発想”するのか」「(登場すべきは)Dではなくて何故Cなのか」「Cはそもそもどこからどのようにしてやってくるのか」「Cの登場はこのA×B問題の進展・解決と、どこでどう深く繋がるのか、何故それを見抜く(直観する)ことが出来るのか」

端的に言って、物事の必然性に就ての執拗な探求心がある。
それは私自身の思考が飛躍に付いてゆけないからと云えなくもないが、じつは丹念にひもとくと、飛躍の中に目を見張るほどに緊密な摂理と、物事の連関性を裏付けている、その巧みな働き――要素間の磁力的相互作用と、それらの主体の対話・発展をより緊密に成就せしむる磁場そのものの形成もしくは出現、等々――を見出すことが多いからである。

バッハの魅力もそこにある。
殊にフーガの技法ほど、徹底した合理的摂理に裏付けられた自発性の音楽はない。
同時にそれは、徹底的に“自然な自発性”が生んだ秩序をこれほど合理的構造が貫通している作品はない、ということでもある。

作品をつらぬく、このように傑出した濃密な「熟達さ」こそが、たんに神学と音楽、のみならず、科学と音楽、そして科学と神学という一見これ以上ない程相反する、と云われる者同士を結びつける驚愕を生むのだ



2004年09月16日

Cp.1に就て

すこし長いブランクがあったが、その間も折に触れてナガラでずっと聞き続けていた。
無意識にも深く入ってきていた所為か、Cp.1――この冒頭第1曲を聞いてすぐ、最終曲(未完フーガ)が彷彿される。聞いていて、そのまま並行するようにありありとあの未完Fが思い浮かぶのである。
そしてまた随所に、これがあの最終章の各声部フレーズの生まれる端緒になっているであろう所のフレーズというのを、既に冒頭フーガのあちこちに、見出す。

あの未完となった最終フーガの4主題のうち、推測される第4主題とされるものは、いかにもこの冒頭、Cp1の第1主題(A)自身であるから、それ以外の各主題に就て順に触れてゆくことにしたい。

まず未完F第2主題(114小節〜)の由来、前哨的片鱗に就てであるが、
この主題の開始、ファソファミレ#ド(レ)、を彷彿させるものが多々ある。わけても直接的なものは、この一連の動きからであろう。(この前哨となっているものは、伏線的効果(=Cp1、第2声部冒頭旋律自身といえる)や転回形めいたものを含め、他にもあるとして)

まずこれである
Cp1第3声部が登場してから3小節目、つまり11小節目に現れる第2声部、ソ⌒ソファミレド、続いて(目立ちにくいが)14〜15小節目の(ミ)レ♯ドレファミレ♯ド。
(続いて準-前哨線としての)29〜30小節の第3声部の動き、シミ⌒(ミ)ラレ⌒(レ)レ♯ドシ♯ドレミ⌒(ミ)⌒ミレ♯ド、があり)、
これを引き継ぐ最低音部(第4声部)によるファ⌒ファミレドレドシ。
そして32小節の第1声部ド♭シラ♭シラソ♯ファ
こうした伏線達に、弾力が付けられ、折々に16分音符での駆け込みも加われば、未完フーガ第2主題を形勢していくことになるのは必然的である。

またCp1の第1主題(主旋律)自身から伏線を見出しうるのは、まさしく57〜58小節、ミ⌒(ミ)ドレミファレソ⌒(ソ)ミラソファミレド...の部分、また67〜69、ラレファミソファミレ⌒(レ)ファミファレミ⌒(ミ)レドシドラソ♯ファソシ♯ド、であるといえる。

次は、Cp1に見出す、未完F第2主題の由来




2004年10月13日

先日Cp1に見出す最終楽章(未完フーガ)での第2主題の予兆(前哨的片鱗)に就て記し、次回は同第3主題に就て記すとしたが、これらを語る際、実は何とも曰く言い難いやっかいな事情があった。
というのも、こうして鑑みるにつくづく、未完フーガの全主題(1・2・3・4)が、このフーガの技法の冒頭主題そのもの=Cp1冒頭自身に既出しており――つまり未完フーガの全構造そのものが元素としてCp1の冒頭に顔を出し――言い換えればCp1の初めの4小節(より正確且つ充全には初めの8小節)が、未完フーガの各主題で「出来ている」とさえ云っていい程の精妙なイレコ的事情*が、このフーガの技法にはもともとあるからである。

*…私の場合、Cp1第1〜2小節(つまりCp1-第1主題かつ未完フーガの来たるべき第4主題)は、未完フーガ第1主題と同じ親の子。
Cp1第3小節は未完フーガの来たるべき第4主題(=Cp1第1主題)自身の一部であるとともに大いに未完フーガ第3主題(B-A-C-Hの主題)の伏線である――これは更に8小節まで1括りと考えれば7〜8小節目(第2声部の動き)により明確に存在する――と考える。

また未完フーガ第2主題は、Cp1第4小節の後尾が伏線となり、これは更に8小節まで1括りと考えれば6小節目(第2声部の動き)により明確に存在する、そしてその後の運動によってより推進力を得、未完フーガ第2主題の迫力それ自身へと近づく――、と考える。


しかも、未完フーガの各「主題の由来」と成り立ち」とは、同時に「未完フーガそれ自身の構造(運動)」、ひいてはフーガの技法全体を織りなす構造と運動の成り立ちにも重なり合う訳で、こうした点を顧慮した記をしようとなれば、実に表現も説明も狂おしいほどやっかいにならざるを得ないのである。
何れにせよバッハの音楽、殊にフーガの技法は、そうしたえも云われぬ重層性と交錯性を帯びる有機体、生きた音楽というより他ないが、なおかつ思い切って分節化してゆかなければならない...
したがって次に書く未完フーガ第3主題(B-A-C-H)の由来を記す際には、所々で、親でもありつつ、且つ対等な運動をなす4主題のひとつとしても在る第1主題とのイレコ構造や、すでに触れたばかりの同第2主題との緊密なつながりにも触れながら、という形になるかも知れない


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