2006'03/30〜04/20


―マルクスとウェーバーの「社会的行為」理論比較―
「社会的行為」理論をめぐって〜労働に於ける人間論


当論文は、やすいゆたか先生編集WebMagazine「プロメテウス」創刊号に掲載されたものと同じです。論文推敲の際、先生の御著作を参照させていただきました。(後述)心よりお礼申し上げます。
なおこの論文はhttp://www.dcn.ne.jp/~skana3/reizakkidiary2_3.htmにて記した「マルクス・ウェーバー論を下敷きに、さらにわかりやすく考察をすすめたものです」


 かつて、「社会的行為」理論にかんするレポートを大学で提出したことがある。今回、それを振り返りながら、社会的行為理論、ことに労働というものをめぐての人間論を、主に自発的労働と、強制労働(やりがいを奪われた労働)に従事する人間像を軸に、再考してみたい。

(尚、後半の感想・あとがき、の部分では、殆どすべてをマルクス理論への感想にあてているが、ご容赦されたい。)


 大学時代(1981〜85)、じつに不真面目な哲学科生の私であったが、三年時に自由枠で履修した社会学の講義に、時折出席していた(社会学概論-S教授)。
学期末に社会的行為理論のレポートを提出しなければならないというので、講義で扱われていた諸理論のうち、何と何を比較検討しようかと迷っていたが、やはりあまりに典型的・一義的な社会的行為、といったパターンのものよりも、個人の至純な自発的=創造的行為が“図らずも”社会的行為と化していく地点(行為する本人の意図と、これを受けとめる他者乃至社会の構造の間にズレが発生する交錯的地平、ともいえる)に興味を覚えていた私は、マルクス理論とウェーバー理論を比較しようと考えた。

 上部構造と下部構造のそれぞれに充実した探究を施しながらも、終局的には下部構造が、上部構造を支配する、という地平で締めくくるマルクス理論と、労働に於てもあくまで個人の主観性と目的・意志・動機のレベルを尊重しようとする傾向の強そうなウェーバー理論、というのが、正直、ごくありふれた考えながら講義を受ける前からの印象としてあり、また実際講義を受けた後でも、そうした感がなお漠然とした印象として残っていたことから、レポート作成前のごく素人見識な予測としては、「私が比較検討の対象として設定したモデルケースには、おそらくマルクス理論以上にウェーバー理論のほうが、よりよく射程するはずであろう。」という思いがあった。が、同時に、ともするとマルクス理論によっても、これが案外どこまでよく射程するかも、同じくらい興味深い点でもあった。――というのは、マルクスは、そもそも「労働」というものの起源(労働の類的性格)を、強制されたニュアンス、疎外的状況のほうにでなく、むしろ労働が過酷に抽象化される以前、つまり自発的なニュアンスのほうに、置いているのを、講義を通して知ることが出来、そのことが、当時既にイデオロギー化していたマルクス「主義」のあのかたくななイメージからは、意外にナチュラルな印象を、私に与えたからである。

 以下に、当時のレポートをおおまかに記述する(※不明確な言葉遣いなどを、適宜修整――2005'1月 / 2006'3月)



【レポートの規定】
レポートの規定は、このようなものであった。

 【1】設定した社会的行為を述べよ
 【2】 a.社会的行為設定の背景を述べ、
    b.講義で学習した諸理論効用への意図を述べ、分析以前に
    予想をせよ
 【3】理論学説の効用を記せ(理論適用と比較検討・分析)
 【4】結果と発見を述べよ



【1】私の設定した「社会的行為」
設定してみた「社会的行為」の特徴を、まず箇条書きにするとこのようなものである。

・9歳の少年。(主人公。不当労働下における勤勉な少年)
・工場内の陰惨さ(労働の過酷、労働環境の不衛生や閉鎖性、長時間労働、低賃金など。工場内の他の労働者の荒れた、もしくは虚けた雰囲気、親方の怒声etc...)その中で緻密さの要求される人形細工作りの間断ない仕事。
・客観的には強制労働であるが、そのような状況下、ガラス細工の人形づくりの仕事において少年はある偶然を契機に、一種の芸術性の追求を志向しはじめるようになる(自発的労働、創造的行為へのめざめ)
・少年のあくなき、地道な自己錬磨の作業にも関わらず、その労働は客観的には搾取であり、不当強制労働であって、彼の作品も大量生産下安値の商品である事の不変。また経営者を利するだけの雇用者の不当労働である事の不変。

 このように、とりあえず、労働環境としては、あまりに古典的な程、言葉のごく素朴な意味としての「疎外」と「搾取」が典型的に当てはまる条件にしておいた上で、個人的次元に於いては(すなわちそこで働く或るひとりの少年の労働という観点に於いては)、創造的行為が社会的行為と化する(商品化・市場原理のシステムに組み込まれる)地点を選び出した、という訳である。

 次に、この条件を、物語風に記した文章が以下である。これによって、工場内の過酷ですさんだ労働状況/その強いられた労働を、みずから「自発的労働」へと転換し自己実現しようとする(ないし救済されようとする)少年の誠実な人間性/それらの努力にもかかわらず、その少年が客観的には搾取の現場から逃れることが出来ていない動かしがたい現実/その現実からますます心が荒廃せざるを得ぬ周りの人間たちの姿、などなどを、「同じ労働条件下に置かれた」登場人物たちのそれぞれの「個性と行動の差異・比較」を通して理解して戴き、またそれら「全体の意味する複合的状況」を、色々考えて戴くと幸甚である。


物語風な状況説明

 9歳のジァークは、陽光のまるきり遮断された地下室で、或る工芸職人の親方に雇われていた。地下室は広くて、蒸し暑かった。奥には大きな窯が昼夜を問わず炊かれており、その容赦ない炎の前で幾人もの大人達が、吹き出す汗を首に掛けたタオルでぬぐいつつ、細筒に力いっぱい息を吹きかけては、ガラス細工の人形を造り出していた。人形達は、熱が冷めると順ぐりに今度はジァークらのいる絵付け場へと、ベルトコンベアーに乗って運ばれて来る。ジァークのような、歳の比較的幼いものたちが、その人形のドレスに色を付け、顔に目鼻を付けていくのである。ジァークは、なかでも歳が幼いほうだった。ガタガタ揺れながらもゆっくりと運ばれてくる、すでに青いドレスをまとった人形達ひとりひとりに、ジァークら子供たちは空腹をこらえながらも、根気強く目鼻をつけてやっていた。
 ここで働く者はみな、毛布一枚のざこ寝が許されるたった5時間の睡眠時間の他は、殆ど一日中汗水たらして働いていた。彼らの労働は、一日3度のパンと、けちなスープ代に取って代わられるのだ。
親方が足を踏みならしてやって来た。
 「誰もさぼってはおらんだろうな。手を休めるなよ!逆らうやつは、また道ばたに放り出すぞ!もとの生活に戻りたくなかったら、せっせと働け。いいな!」どなりちらすと、親方は梱包場へと戻っていった。
ここで働いているのはみな、ホームレスやストリートチルドレンばかりであった。親方が彼らを囲って、生きるにそこそこの食べ物と、住みかを与えてやる代わり、殆ど無償の働き手として彼らをこき使っているのだった。

 「ふん。」老人のひとりがタオルで額をぬぐうと、馬鹿馬鹿しそうに首を振ってこういった。「行っちまった。おい、煙草でも吸おうぜ。」
 「バレるぜ。煙のにおいがすれぁ...ここを追い出される」別の老人が振り返って言った。
 「かまうものか。これじゃぁ外の生活と、大してかわらん」
 「だが冬になれば外はやっぱり寒い。ここのがまだ、幾らかはましだ...」
 「勝手にさせてくれ!わしは一服する」老人はいいながら、作業着からパイプを取り出した。
 髪と髭をぼさぼさにのばした若い者がひとり、煙草を手にした老人に寄っていくと、汚れたズボンのポケットから取り出したマッチを摺ってやった。
 「おう。」老人が煙をくゆらしはじめると、若者も一緒に吸い始めた。
 他の大人たちは、衰えた腰をそらしたりかがめたりしながら、細筒を口にくわえ、やせ細った胸から精一杯息を吹き込んでは、ガラスの娘達を休みなく生み出していた。

 ジァークら子供たちは、ベルトコンベアーの前に座り込んで相変わらず小さな手を動かしつづけていた。育ち盛りにはあまりに少量の朝食のみで、すでに空腹は限界に達していた。ベルトコンベアーを囲む彼らのあちこちから、おなかの鳴る音が聞こえた。幼い躯のあちこちに、関節の痛みが感じられた。

 「ねぇ、おじさん。」子供たちのうちひとりが言った。「ベルトコンベアーを、も少しゆっくりにしてくれない?ぼく、疲れてきたよ」
 「仕方がねぇよなぁ」禿げた初老の人が、しぶしぶ奥から歩いてくると、機械の調節器具をそっとまわしてやった。
 ジァークを含め、たいていの子供たちは、まだぎこちなさの抜け切らぬ筆遣いではあるものの、うつくしいガラスの少女たちを前に、みなまじめだった。
 ジァークも、まだ雇われはじめて間もなかったが、ようよう仕事に慣れてきたところだった。疲れてきた目をこすりこすり、小手先の仕事に精出していた。

 「おや?」ジァークはふと目を細めた。目の前にひとつ、胸の辺りがいくらかいびつな形をした娘が、送られてきた。ジァークはとっさにそれをベルトコンベアーから除けようとした。が次の瞬間、普段よりずっと遅くなったベルトコンベアーの動きから、ふとひらめいたように手早くその娘を取りだすと、いびつな形をした胸の隅に、小さな目鼻をそっと描いてみた。それからすぐに娘の目鼻を、丁寧に描き込んだ。
 『赤ん坊のイエスさまを抱いた、聖母マリアだ』心の中で、ジァークはそう呟いた。
 聖母の手もとから、幼子イエスを包む布地を区別するために、ジァークはどうしても赤い色を塗ってやりたくなった。
 「おじさん!ベルトコンベアーを止めて。」 ジァークは叫んだ。
 「なんだ?」さっきの初老のひとが振り返った。「たった今、速度をおとしてやったばかりじゃないか」
 「おねがい。ちょっと、特別なんだ。…マリアさまが出来たの。幼子を抱いて居るんだよ!」
 ジァークの背中のむこうから、たちまち失笑がもれた。
 「おまえ、何を言ってるんだ?」煙をくゆらしながら、からだをのけぞらせて髭もじゃの若者がからかった。
 「機械を止めてよ。見て。ほらこれを!」ジァークは懇願して、自分の座前のベルトコンベアーの上を指さした。
 さっきのおじさんが、またやってきてベルトコンベアーを止めてやった。
 「おいおい、よせや。芸術家気取りか。はたまた職人気取りか?」パイプをくわえた老人が言い放った。
 「おまえの“作品”を見せようってのか?」隣の若者も、髭をなでつけながらにやにや嗤ってそう言った。
 ジァークはうつむいた。
 隣の少女が、ジァークの手元をのぞき見て、叫んだ。
 「ほんとだわ。マリアさまみたい」
 「ね、赤いえのぐを貸して。」ジァークがそっと手を伸ばすと、向かいの子供が、近くの道具箱の引き出しから赤いえのぐを探し出して来て、ジァークに手渡した。
 ジァークは、赤いえのぐを急いで溶いで、聖母の胸元の隅に丹念に筆を置いていった。
 他の子供たちも仕事の手を止めると、少しずつ寄ってきた。
 「あれ。...不思議だな」「そういえば、ぼくたちはもうずいぶん教会に行ってないや」「マリアさまをみるのは、ひさしぶりだね」

 「おい!」さっきの若者がどなった。「おまえら、何か勘違いしてるんじゃないか?」
 遮るように煙草をたてると、こうつづけた。「おれたちは、何を作ってるんだ?しがない商品だぞ。匠の技でもなけれぁ、芸術家の創作品でもない。こんなものはみな、所詮どこぞの市場へ売られてしまうんだ。どれもみんなおなじなんだ。」
 「そうさ...そうして、われわれのもとには、何も残らない。われわれの働きは、所詮殆ど一銭にもならん、一日のケチなおマンマ代に姿を変えちゃあ消えていく。安いもんだ。」隣の老人も、しずかに煙をくゆらしながら、諭すように言った。
 「でもね、このガラスだけが、ちょっとかわった形をしていて、それがぼくには…」
ジァークが振り返りながら目の前のマリアの人形を指さして言った。
 「ああ、出来損ないだ。あいつら大人の吹き損じなだけだ。」老人は窯の前で働く人々のほうを指さして、首を振った。「そいつぁただの出来損ないだ、ジァーク。売り物にもならん。惜しけりゃ、そっとおまえのポケットにしまっておけ。」
 「そうさ。だいいちマリアなんぞを作って、何になる?俺達が作るのは、ただのガラス人形にすぎん。」若者も頷きながらそう言った。
 子供達はしんと静まり返った。

 「さぁ。仕事だ仕事だ!」誰かがどなった。
 「おマンマ代だ!」別の声が言った。ベルトコンベアーは再び動き出した……。思いがけぬ出来事などまるで無かったかのように、みなが機械仕掛けの人形のように、黙々と働きはじめた。あれから何時間が経過したろうか……。工場の窓の外には、たくさんのカラスが群がっていた。サイレンの音だけが、辺りにむなしく響きわたった。



【2】a.社会的行為設定の背景

 ここで取り上げたモデルケース=社会的行為とは、自己による自己のための――もしくは何らか目標や理念のための――純粋に私的・精神的レベルでの「創造的行為」(最も理想的な例では、工芸職人や芸術家にとっての、謂わばものづくり、といった次元にあたるもの)であるはずのものが、《図らずも》「社会的行為」へと移り変わるところのものである。
 また、この初発性がひとたび他者、不特定多数の人間たちや組織に引き渡され受けとめられる行為となってからは、ここからまさに《否応なしに》利害関係を発生し、この位相とは別の意味(労働者・行為者の《主観》とは別の意味)を持つ「経済的行為」となって出現し、社会的有機体の中で交換されて行かざるを得ない労働と化す、という転換地点のモデルケースである。
 尚この説明を、逆からも言い換えることも出来る。つまり、本来はただひたすら「社会的行為」としての《強いられた》労働を果たさざるをえぬ現場である“にもかかわらず ”、そこで働く人間の或る個人的な志向性が関与すれば、その労働は、至純で自発的な「創造的行為」へと転化しうる。だがこうした個々人の至純な初発性の尊さ“にもかかわらず”、その努力は社会的・客観的な状況としては《否応なしに》利害関係を発生している「経済的行為」の中に、また不当労働下において搾取されている現場に、依然、没したままである。

 いずれにしても、両義的・可塑的・また包括的地点としての社会的行為、という地点である。

 これを、こう換言することも出来るかと思う。

(1)個別の行為の主観性は、利害関係の固有の法則がみづからに及ぼす拘束性から、
 <精神的レベル>での“固有で自律的な法則性”に乗って開放・超越され得る。
(2)しかし個別の精神性“にもかかわらず”行為の<経済的意味合い>というものもまた現状として依然在りつづけるのであり、これが個々人の精神性を二次的に左右する。

 こうした、諸位相別々の自律的法則性を以て進行するものの絡み合いとしての、交錯した綜合性(全体的因果関係・構造の成り立ち)というものを考えたい、その中で「社会的行為」というものを捉えたいという意図、そのような意図のもとに、このような錯綜した地平を選んでみた訳である。



【2】b.効用(理論適用)への意図と予想

 さてこのような認識をもとにして、まず始めに漠然と立つ予測は、以下のようなものであった。

◇ウェーバー理論は、主に、前述した(1)の部分に、より優れて射程するだろう。
 (創造性⊃社会性)
◇マルクス理論は、前述した本来(2)の部分の分析と追求に優れているはずだが
 (社会性⊂個人の精神性・主観性)、今回この私の設定が、或る意味でこれとは逆説的な位置を採っているので、あまり行き届いた適用はなされないであろう。

 これを各々、逆に言い換えれば

◇マルクス理論からは、一体どの程度・またどんな仕方で、純-個人性(精神性・創造性・形而上性)のつよい社会的行為にも、射程するのだろうか。
◇ウェーバー理論は、行為の因果関係としての社会的意味合い=外的・客観的意味合いに対し、またそうしたものが行為者の主観云々にかかわらず厳然と存在することに対し、どれ程切実な認識を忘れずに持っており、また“実際的に”どのように、この部分への効用を可能にしてくれるであろうか、という期待を抱く。
ということになる。


【3】理論学説の効用
私の設定した「社会的行為」の現場に、マルクス・ウェーバー、それぞれの理論を適用してみる。

(A)マルクス理論の適用

 まずこの理論の社会的行為への規定から、今回の私の設定の、社会的行為としての判断妥当性を検証しておきたい。

 マルクスに於る「社会的行為」3側面と言われるものは以下の通りである。
(・第一:食べること、飲むこと、住居、衣料その他若干の要求を満たすための諸手段の産出、物質的生活そのものの生産。=全歴史の根本条件)

(・第二:満足された最初の欲望・技術・材料らを果たし使うことから、更に多様な諸要求が展開する。=最初の歴史的行為)

(・第三:人間たちが他の人間たちをつくりはじめる=生殖;人間同士の関係、家族の形成)

注:上記各行為に対する説明は、私が昔受講していたS先生の講義ノートを紛失したため、ネット上で調べたものを集めさせていただいた。

 上記のうちのひとつ(第二のもの)に、これは妥当する。 すなわち〈新しい欲望の生産〉――満足された最初の欲望・技術・材料らを果たし使うことから、更に多様な欲望が展開する。というもの、に当たる。

 これに就ては少年の労働の情況は、決められた労働仕様を遵守する目標を超えて新しくニュートラルに芸術的な向上心と技術の発展を自発的に希求・実現するに至り、これに妥当すると思われる。
また、マルクスによれば、歴史と社会を動かす力としての社会的行為の成立因は、労働と生殖に分けられるが、そもそも今回設定の行為は「労働」であるから、妥当する。

 年齢に不相応な程の真面目な魂と、主体としての尊厳、物(外界)と対峙する姿勢の至純さ云々といった少年本人の主体的事情に拘わらず、行われているのは雇用者に雇われた状況下の過酷な「労働」(実存性を奪われた労働)であり、生産の構造に組み込まれた社会的行為であり、経済的行為、である。(商品を生産しており、労働=交換条件が成立している)即ち、

〔1〕少年の生産物はこのまま交換過程を経て商品形態を取る(場の中で取らされる)。亦
〔2〕労働力は商品に転化される。


 つぎに、マルクスの理論にならって、社会的行為としての労働を、人間の本来性、また労働の起源(本来的意味合いの労働を生み出す場としての、労働の起源)にある「類的性格」の状況下での労働と、「非人間的状況――“疎外”的」状況下の労働とに分けると、このケースの少年に当てはめる場合、その「どちらにも適用」することができる。

※1 少年の初期に於る労働――疎外
 すなわち自由で意識的な活動としての労働の本来性を失っており、強制的ニュアンスを以て、人間が労働力として<抽象化>されている。類的性格の人間精神の具現体としての生産物であったはずの事物(もの)が、価値逆転して人間を(人間の精神状態や利害状況を)支配している。
 このように事物・労働・類から、とあらゆる<疎外>の状況の下での労働である。
 また上記の<抽象化>の意味からも美徳の商品化の意味からも、物神崇拝的状況であるといえる。

※2 少年ののちの労働――類的性格の労働
 こちらは現実的状況に「反して」、マルクス自身の労働の定義に即した、起源的労働である。「どのような状況に於て」か(「どのような状況にも拘わらず」か)、といった問題の有無に――マルクス自身、非重要 と云うとおり――左右されることなく、実際少年の主体的-主観的現実として、いみじくもここでは、同じ工場内で働く他の労働員たちとは違った起源的労働が、行われている。

 マルクスのいう、労働の定義――内部の外部化、どおり、少年の美的・芸術的センスの発揮、丹念さや優しさ、精神の自由自律、不屈さ、勤勉、etcetcあらゆる能力が事象(もの)を媒介として<表現>される。少年の精神性は事象(もの)を支配し得ている。或る種の自己表現(内面の対象化;魂の外化としての自己確立)が成り立っている。自由で意識的活動であり、肉体的欲望から解放されており、状況から不断に自律し、(主観的には)人間性を回復している。
 彼の主意主観に於ては、あくまでも事象は表現手段であり、行為は私的生産行為(=創造)であって、これが“図らずも”社会的行為でもある(社会的行為と成り換わる)といった様相である。

注)但し、強制労働下に於いても成り立つ起源的・本来的労働という側面、これがマルクス、及びマルクス理論の意図通りかどうか、むしろ逆説的(もっと言えばマルクスにとって不本意?であるか無意味)な成立ではないのか、という問題が、別にあるかも知れない。



(B)ウェーバー理論の適用

 さてつぎに、ウェーバーの理論からも、まず社会的行為としての判断可能性を検証しておきたい。
ウェーバーの「社会的行為」の定義は「行為者の考えている意味が他の人の行動と関係を持ち、その過程がこれを左右する行為」、ということである。

 ところでウェーバーは行動と行為の定義をあえて分けており、行動は、行為者によって主観的意味があたえられていないが、行為は行為者によって主観的意味を与えられている、とする。そして、「すべての行為はその担い手の主観的意味に還元されねばならない」としている。

※1 少年の初期に於る労働
 さて、初期に於る少年の労働行為を、その主観的意味に還元して捉えると、強制された仕事としての意味が、支配者(雇用者・組織)との、また工場の流れ作業における同僚たちとの関わりの中で、自己の行為のあり方を決定づけられる為、ウェーバー理論からも、「社会的行為」である、といえる。

 ウェーバーの分類仕様による少年の行為の意味づけによると、
行為の4類型としての理念型は、

・目的合理的行為 (目的を実現するための手段としての行為/目的にむかって手段が計算される)
・価値合理的行為(妥当な規範に義務感からしたがう行為/不合理な目的のための合理的な手段/目的そのものの価値が重要視される)
・伝統的行為(習慣化した日常的行為/目的も手段も習慣化している)
・感情的行為(みずからの感情を理性的にコントロールできない行為/目的と手段が感情的要因によって決まる) 

であるとされる。

注:上記各行為に対する( )内の説明は、私が昔受講していたS先生の講義ノートを紛失したため、ネット上で調べたものを集めさせていただいた。

 それによれば、仕事のテンポ、雇用者への余儀ない服従など外的強制力を受けており、初期の少年の労働は、「伝統的行為」である。
 尚、その外的要因が内面にも影響を与え自らに追い打ちをたててはいるが、食欲や肉体的要求などの支配下にあってもそれを表に現さないので「感情的行為」、とはいえない。
 また、少年にとっては労働をすることはパンを得るためなので、「目的合理的行為」といえる。
 さらに、「価値合理的行為」に当てはめられるかどうかも考えると、客観的には、少年の受けている強制労働は、妥当な規範とはけして言い難い、不合理な目的ではあるが、少年の内面からすれば、あえて己の心に言い聞かせるものを抱きつつ、黙々と従事しているのかも知れない。とすれば、少年の主観性を重んじれば、「価値合理的行為」とも言えよう。

※2 少年ののちの労働

 次に、その後の少年の労働行為を同様に捉えると、彼個人としては己の行為は、誰の為でもなく純粋に自己による自己の為の私的生産行為――創造的行為、であるが、この種の行為にも不特定多数(同じ条件下でも労働に対する別な意識と反応を示す他者たちや、少年の労働の自発性や行為の動機を顧慮せず、まる切り別な位相――すなわち搾取・支配・不当労働の強制――にて動めく経済関係)としての他者経験を、幼いながらに出会わされ、自己認識・自己相対化作用をもたされるであろう為、これを社会的行為とみなすことも出来る。

 ウェーバーの分類仕様による少年の行為の意味づけでは、このような荒廃した場にあって、自己に細心綿密さを課すことが直接自己の利益や評価となって跳ね返ってくる訳では、いささかもないが、そのような雑念の介在余地なく真摯に美的信仰や自己の内的自由の回復尊重のため、少年がけなげに労働(表現行為の性格をともなう労働)に奉仕したことは「価値合理的行為」である。(これは同じく「価値合理的行為」に当てはまった、少年の“初期に於ける労働”との内容上の差異;ネガティブ=ポジティヴ、を考えると、一興である。なお、この少年ジァークの聖母マリア造りの行為の意味・その動機を、周囲の大人たちがまるきり汲み取らなかったこと、また事実商品にもならない為、市場関係もその価値を黙殺したまま動いて行くことに関しては、この社会的行為4類型としての理念型からは、直接照射できなかった。)
 また、作品としての完成度や美的洗練、技術向上などの自己目的の為、生産物の出来合いへの予測と結果とを兼ね合わせ、幼いながらに多分に無自覚であろうとも、理念を追求している意味では、「目的合理的行為」である、といえるかも知れない。(ただ、ウェーバーの意味は、目的に向かって手段が計算される、というニュアンスのようであり、その点ではジァークはもっと無欲なので、当てはまるとはいえないのだろうか…。もし強引に当てはめるとすれば、これに関しても、少年の初期に於ける労働の時と比較した場合の対照性が興味深い。同じものに当てはまるが、初期に於いてはどちらかというと打算的・現実的、のちの労働に於いては理念的・自発的である。)
 また「感情的行為」に当てはまるかどうかに関してだが、少年の主観に基づけば、理性的にコントロールできない感情、などという性質の感情ではなく、むしろ理性に突き動かされた行為であるとも言えるのに、結果的・第三者的にはたんに感情に走った行為でもあるといえる。だがウェーバーのスタンスから視れば、「すべての行為はその担い手の主観的意味に還元されねばならない」のであるから、この場合、あえて「感情的行為」に当てはめることが出来ない、としておくかどうか、迷う。だが感情的行為を、目的と手段が感情的要因によって決まる、というほうのニュアンスで考えると、たしかにジァークは(彼自身にとって「理念」的行為のために)ベルトコンベアーを止めて、と要求したが、それは「感情」でもあるから、当てはめることが出来る、というべきかも知れない。これは判断を保留する。
 尚、「伝統的行為(習慣化した日常的行為)」に関しては、少年ののちの労働は、これとは正反対の形而上的性格を帯びているので当てはまらない。

 ところで、初期の労働と、のちの労働とが、性質上正反対な性格を帯びているのに、同じ「行為」がどちらにも射程してしまうことに関しては、或る意味でよく射程するとも言えるが、正反対の性質を象徴的に引き出せない、という面からすると、残念な気もし、ややしっくりこない、複雑な心境である。

 以上、マルクス・ウェーバー両理論に、私の考え、選んだケースを適用してみた。


【4】結果と発見

 まず、社会的行為に関するまとめの前に、マルクス・ウェーバ両者の「創造的行為(労働)」に関する把握についてすこし触れておきたい。

 マルクス理論に於ては、先にも触れたように“どのような状況に於てか・どのような状況にも拘わらずか”、という観点は、意図的に除外されているにせよ、創造的行為としてあらわれる<人間の本来性>そのものの姿には行き届いた観察を前以てしており、その土俵を謂わば代表的・象徴的に、「労働」に見出すことが出来る。

(1)マルクスが労働の本質、その起源の地平を疎外状況にでなくむしろ類的性格の状況に置いているのは面白い。また、この視座がまずあってこそ、ここから見えてくる<疎外された状況>とは如何なるものか、が分析されてくるのである点が、興味深い。
(2)しかも、ウェーバーとの比較に於ては、
・ウェーバーが、どちらかといえば「創造的行為」を、より理知的・意図的、動機的・意志決定的など自「覚」的ニュアンスで把え、抵抗的自由を力説するのに対し、
・マルクスは「創造的行為」を寧ろ無(前)-自覚性、自「発」性(ウェブレンなどでは本能になる)そのもののもつ自由に起因させ、〔労働に於る〕人間の本来的あり方としているようにみえる。

 したがって、そういう意味から、この「社会的行為」理論に関しても、私の今回の設定の場合、(漠然と形成されていた)印象と予想に反して、マルクス理論のほうが無理なく適用され効用が見られた。
 しかしこれはあくまでも私自身がこのモデルケースを、少年を取り巻く外的状況(つまり経済合理性・計算可能性、などの原理で動く社会と、この巨大原理に半ば自虐的にみづから同調したまま、すさんだ強制的=非実存的労働にみづからをおとしめている周囲の大人達)より、少年自身の内的情況(おのれの精神を、聖母マリアづくりによって外化=対象化することにより、強いられた労働の中でも自己実現と、祈りの発見と、救いを得る、その内面性)によりウェートを置く形で設定したからかも知れない、という点と、先にも注で述べたが、下部構造支配下“にもかかわらず”起源的・本来的労働が――自己表現・自己救済とも同義としての「自己の対象化(精神の外化)」という形を帯びつつ――成り立ちうるのだ、という側面、これが、マルクス及びマルクス理論の「意図」通りなのかどうか、むしろ逆説的成立(もっと言えばマルクスにとって不本意?な、もしくはもはや無意味な成立)ではないのか、という点に、疑問がのこる。
 この理論適用の成功によって、起源的労働以外の土俵に於いても――すなわち、実存性・人間的尊厳を削がれ、まさしく不当労働を、強いられている状況下に於いても――、人間に創造性の回復・奪還の現象の存立可能性があるのだということを、たとえばウェーバならきっと積極的に認めるであろうように、マルクス理論が十分に認めているのだ、ということが出来るか、と問えば、それはまた別問題であるのかも知れない。さらに言うなら、否、(創造性の回復可能性を)十分に認めている“からこそ”、だからといってその、個人的には回復されている人間的尊厳が、そのままの状態ではけして社会化された形では反映されないという現実問題を重要視するものとして、下部構造(経済)を上部構造(精神活動)より終局的・基底的な位相に、マルクスは扱うのだ、マルクス理論とはそのような理論である、とも云えるのかどうかというと、正直を言って私には未だ解らない…。


 つぎにウェーバー理論の適用にあたっての発見へと移る。
 まずウェーバー理論とは、端的に言って「経済が経済としての固有の運動法則で動いているのと同様、他の文化領域には他の文化領域に固有の運動法則があり、それぞれその自律性で動いている。文化諸領域がそれぞれ相対的に独自な運動をする」のである、と主張する理論である。(参照:大塚久雄著「社会科学の方法」P200〜201)
そうであるから、私の設定した少年ジァークのような、劣悪な労働環境と市場関係を無視するかのような超脱的な自律性が、経済的位相の運動法則と、これに与しない芸術的・宗教的位相の運動法則、といった微妙な象徴的側面に、よく射程するように予測された訳である。

 ただ、こと「社会的行為」理論への当てはめ、という狭義の場面に於いては、当初私自身が思い描いていたような適用ができなかった(或る意味ではどれにも器用に射程したともいえ、逆に言えば言葉は悪いが器用貧乏、のようになってしまった。或いはまた、当てはまるとも当てはまらないともつかぬ結果が出たりもした)。
 そのひとつの原因は、まずなによりも、先にも触れた「それぞれの文化領域に固有の自律運動性」、という柔軟性にみちた物差しを、ウェーバーはかならずしも「社会的行為」理論そのものの中に、組み込んでいる訳ではない為だろうか、と最初のうちは思われた。殊に私の期待した、宗教・芸術の位相に相当する、少年ジァークの魂の自律性を、かれの囚われている下部構造の制約性“にもかかわらず”引き出すことが出来る、という逆説的で能弁な結果は、そもそも彼の「社会的行為4類型」の中で見い出そうとすべきではなかったのかも知れない、と。だが、ものの本によると、こうした行為4類型を含むウェーバーのこうした「理念型」とは、ユートピア的純粋モデルからアプローチする、或る種の概念装置であり、「現実の中の有意味なものを索出的に引きずり出す事が出来るものである」、とされている。また「この理念型の索出的な役割のゆえに、現実における因果連関を認識することを可能にする」、などとされている。(今村仁司=編「現代思想を読む事典」(講談社現代新書)P623―湯浅赳男記)

 では何故、私のケースにはしっくり射程・索出されてこなかったのか。これを考えることが、これからのひとつの課題である。
 また、こういう見方もされている。「理念型は、個別歴史的・実証的な研究とは異なって一般的な性格を持つものであるが、しかしあくまで対象に内在する論理(「合理化」)を追尾するという点で、あらかじめ構成された概念図式に対象を当てはめて分類し裁断するようないわゆる『一般理論』とも異なるのだ」(今村仁司=編「現代思想ピープル101」(新書館)P31)
 wikipediaでは、「一般的な社会現象は単一の理念型に基づくのではなく、もろもろの理念型の影響が考えられ、‘理念型からの逸脱度合いによって’その性格把握ができる。」とされている。
 であれば、もとより何か典型的に「しっくりと射程する」、ことを目的とするのが間違いだったともいえる。

 ところで、これは雑感にすぎぬものであるが、私の設定した労働状況のケースと、ウェーバーの殊に労働に関する理論構築の背景になっているモデルケースでの、(雇う・雇われる人間、及び時代・社会の)成熟度に於ける差異は、相当なものがある。
 ウェーバーは、かれの生きたドイツ統一帝国とその周辺のかかえる緊迫した情勢の中で、近代西欧文化の矛盾や問題を広く有る普遍性を通して考えようとしていた。また、同時に比較文化的な意味で中国文化圏(含日本)・インド・イスラム圏などの歴史過程と宗教倫理などもするどく解明し西欧と対置させたりもした。ところで、かれがそうした「理解社会学」を構築する際、労働に関しては中産階級ロビンソン・クルーソーの行動様式をモデルにした事でも有名なように、かれが労働・経営について考えるもともとのモデルケースは、雇用者に関して言えば、所謂“中小生産者(中産的生産者層)”・労働者に関して言えば、中小生産者に囲い込みされて雇われていた“自作農”たち、という形であった。つまりまず雇用者自身が、不道徳でない、私利私欲のために人を使っているのでない、むしろ経営者として近隣に、生産と労働の「場を提供していた」、半ば奉仕的な役割をすら演じていた。という背景がある。したがってものの「生産」も、社会のために何か役立つものを供給すること、であった。そして「もうける」ことは悪徳ではなく、経営すなわち財貨を隣人に提供することでもあった。他方、労働者たちも、それなりに自覚とやり甲斐を以て参加していた。彼らは共同的に、人間労働の合理的な組織をつくりだして行こうとしていた訳である。それは労働にとって、すでに一種の理想型であって、いわば現今の社会があらためて振り返るべき原点でもある。同時に私の設定したようなケースとは対照的である。私のケースでは、雇用者は雇用者で私利私欲の為、労働者は労働者で目的意識も生き甲斐も実存も無くした非自覚的労働に陥っており――少年ジァークは自覚的・目的意識的というよりはあまりにも無欲に自発的、周りの大人達は刹那的・自己喪失的。いずれにせよ前-意志的ニュアンスであり――、ウェーバー風な“能動的”労働者とは言い難い。
 理念型の構築仕様全体から受ける印象もそうであるが、労働に関しても、ウェーバーのモデルケースは非常に意志的・意識的・自覚的・合理化志向的(行為主観が他者性を意識介在している)であるといえそうだ。

 ウェーバー理論に関して私が最も解りにくい点がある。それは、かれが何より社会的行為の「主観的意味を理解」「動機理解」することにより、社会現象を説明しようとする姿勢である。つまり、社会学の方法の原則として、“すべての行為はその担い手の主観的意味に還元されねばならない”、とする点である。おそらくこの姿勢を固持するファンダメンタルな原因は、かれの理論の特質である「それぞれの文化領域における固有の自律運動性」、という柔軟性にみちた物差しの性為だと私には思われる。が、それぞれの文化に固有の自律運動性と、(マルクスの言い分による)これらのすべてを窮極において制約している、経済的な運動性が、マルクスの意図を超えて“より同等に扱われる”為には、――すなわち、諸文化的精神の自律性が、経済関係上必然的に生じる「疎外(搾取への不満を含む)」を克服しうるには、――逆にかえって「個々の社会的行為はかならずしも主観的意味合いに還元されない」ことを強く認識し、以てこれを克服することが重要ではないかと思われて仕方がない。つまりは疎外というもののからくりを強く認識・経験しないと、それらを構造的に超越することが出来ないのではないか、ということである。
 もし、ウェーバー理論が主意主義「的」でないとするならば、その理論型も、あらかじめ車の両輪を備えたものであるほうがよいように、思われてくる。つまり、

・行為はその行為者の主観的意味・動機にすべて還元されなければならない(…芸術・文化・宗教学問など)
・行為は、その行為者の主観的意味・動機に逐一還元されず別の意味へと転化される(…経済)
などというようにである。

 ウェーバーに於る「意志・目的・主観的意味」への強いウェイトは、おそらく現実的情況――マルクスの言う経済状況;下部構造が否応なく決定づける、現実的情況――を乗り超え、或いはここから不断に自律的に存立しようとする本源的力として、人間の本来性・創造性を考える故、必然的にもたらされたウェイトであるのかも知れない。それは私にとっても、じつに賛成すべきことである。
 しかし私には、人間精神の創造性と自由とは、強い意志と成熟した自覚、という次元以前に、寧ろよりナチュラルに(非人間的状況に於てすら)自「発」的・自律的に、現れうるものといえそうに思われ、その点ウェーバーの理論構築に、意外な物足りなさを感じた。その不本意さは、謂わば――ウェーバーの言い分にも拘わらず――「意志」のニュアンスが強まれば強まる程、「社会的行為」の、人間の行為に於ける包括範囲が狭められて行くかの恰好にみえる。
 たしかに、社会的行為として、いかに人間性に充ちた行為が(主観的-主体的側面としては)成立可能であるか、は、私の目論見が元来この点にある為、ウェーバー理論でもわりあいよく射程した。が、それはかならずしも、「疎外的状況“にもかかわらず”」という効果的ニュアンスを以て、であるとは言えない。
 実を云えば更に、主観的にはたとえ尊く解放された自由な魂を回復していても、これがけして<現実的>な解決を生んでいるのでないこと――行為者の主観が外界にも全く同じように受けとめられ通用し、思いがけない動力や巨大な経済のからくり(利害状況下での厳然たる搾取と不当労働の実体)によってけして<利用>されない、という保障が何ら得られたことにならない、という《状況の不変》――を、私の設定は意図しており、できればこのテーマに対し、各理論からの有効な解決策を得たいと希んでいるのであるが、この点に関しては、マルクス理論からは、疎外と物神崇拝面から、これを鋭く射程出来たのに対し、ウェーバー理論からは案外あっさりとした射程に終わったといえる。
 ウェーバー理論からは、意外にも少年の主観としての非人間的状況(於:初期の労働)をば、捉えうるが、少年自身の内的自由と魂の充足・強いられた状況からの自律性などを捉えることはできず(於:のちの労働)、同時に――逆説めくが――少年自身の主観としてはこの経済利害状況のもたらす拘束から解放されても、労働条件としての過酷さ・搾取は克服できず存続しつづけること、別な価値として利用されること、行為者本人の主観にとっては表現行為であり作品でも、利害状況としては依然安価な商品であること、主観的には私的生産でっても利害状況としては大量生産下の一動因として転化されたままであるetcetc..といった現状分析は、少なくとも私の設定したケースでは、残念ながら行き届いた効用が果たされなかった。したがって、「克服のための実効的方法」も探し当てる事が出来なかった#。


(#…たとえば大塚久雄氏著「社会科学における人間」(岩波新書)にウェーバ理論としてある、動機の意味解明による理解――合理的−目的論的連関の、因果連関への組み替え、といわれるものを、この場に具体的にどう適用したらよいのだろうか。
――少年の行為を直接・間接に受けとめる人々・組織の個々ひとりひとりに還元する訳にもいかぬだろうし、第一それでは利害状況としての意味合いとは別の、ただばらばらの受けとめ方の羅列となるのではないか。さもなければ、有機体的(一般的統計的)把捉というものになるのではないか。
それは、一体行為者の初発性と本来的意図を汲み取りねじまげずにそのまま社会的意味合いとして成就させる、事の達成とEQUAL「=」といえるだろうか。)

 尚、同大塚久雄氏「社会科学の方法」では、「マックス・ヴェーバーの方法は、マルクスのばあいにみられるような『疎外からの回復』という観点に立つ経済学の方法というものは、もちろんもっておりません」とある。(同書P34 )

 ともあれ、先にも述べたが、そもそも「社会的行為」理論への適用、という狭義の場において、こうした複雑多義な願望を抱くのが、行き過ぎだったのかも知れない。


 他方、ここまでくるとマルクス理論のがわにもうひとつ云えることは、さきのウェーバー理論に対しての保留点と同様なことが、逆の側面から云えるように思われる(ウェーバー理論の傾向が上部構造優位主義への傾向とするなら、こちらは下部構造優位主義ということになろうために。)それはこういうことである。
 逐一の主観的情況に拘わらず利害状況としての現実が在り続ける、のと同様、個人の内的次元での(それひとつひとつとしては無力な・尊い)利害状況の超脱という、もうひとつの“現実”も、存り続けるのであって、この尊さと倫理を、より有意義に普遍的に、<社会的存在として存立させ機能させ>ること、それによって経済的位相での健全な発展を追求する、ことへの努力を学的・理論的に追求することが求められるのではないか。ということである。
 またウエイトの置き方も、下部構造(労働の行為者の主体的情況を支配してうごめく経済という地平とその包括的なからくり)に較べれば、たしかに量的にも、その及ぼす力としても微力なはずの、“個々の行為者”レベルの初発性・創造性ではあるのだが、だからといってこれが巨大な経済のからくりから不断に自律的に超脱し、この過酷さと非情さを超克する力を持っていると云うこの淡々たる驚異、この自律性自身の力というものを、「終局的には下部構造に支配される」として閉じて、済ませるべきなのだろうか。
 むしろ、この自律性を何とか“尊重したまま”、個人レベルを超えた社会的・経済的システムに還元するような努力が要求されなくてよいのか、という問題があると、思われるのである。
 “人間の類的本質としての労働すなわち創造力の側が、できるだけその初発性・自律性を保ったまま(すなわち、私有・交換・商品化・市場関係といった経済のからくりに対峙しこれに包含されつつも、その労働者としての実存性を喪うことなく、やりがいをもって働くことができ、逆に経済のがわを〈制約〉しうるにはどうしたらよいのか、平たく言えば、一体市場関係から疎外と搾取とが、より減少するにはどうしたらよいのだろうか。

 少年ジァークのような<精神的行為>・<精神的現実>が確かに存る、ということ。この自律性の、ひとつびとつの力としての“微弱さ”。 たしかにそれはあまりにも非力なものである。
 が、「(下部構造から自由であろうとする)自律性が微弱であること」と、このものが経済合理性でうごめく世界の中でも、きちんと「現実として認識」されるべきである、とする価値そのものが微弱であることとは別である。すなわち、自律性が微弱であるのを認定する尺度と、労働に於けるそうした精神的行為の必要性=重要性の尺度とは、別である。
 この点の認識に顧慮し、絶えず理論として帰着されて行きたい。その社会実現のための方策は、何も階級闘争(実質的には、それは結局労働の現場そのものを一時的にも放棄した手段と次元に訴えるものになってしまった)に限られるものではないように思う。資本家・雇用者と、労働者・個々の生産者とが、同じ創造性と想像力とを有しつつ、この目標をより包括的組織的に遂げるように努力し、両者が同じ人間的-生産的な目標へと向かうようにすること。社会がそのような方向性を以て動くために理論構築をすること、が求められるのではないか。
以上。ここまで、レポート
(S先生からは、よい評価を戴いていたレポートであったが、今にしてみれば意味不明瞭な点が多かったのと、思考の行き届かない点があったため、かなり大幅に修正を施してある。2006'3月)


レポートを振り返って〜あとがき〜


 思えば、随分と古典的な労働現場をモデルケースにしたものである…。

 このレポートを作成した頃を振り返ってみると、時代背景としては、国際社会では長期に渡る米ソ冷戦がレイキャビク和平会談を機に雪解けを迎える、その直前であった。ソビエトではゴルバチョフの就任とペレストロイカを明日に控えていた頃であり、他方アメリカではまだソビエトを悪の帝国視していた最後の時期である。
 また国内に目を向けると、思えば大衆消費社会といわれるものの終焉期、バブル経済突入前夜の時期で、日本における資本主義的経済の形態が、極端な拝金主義に陥る予兆を示していた時代であり、また大規模なリストラ問題だの、他方残存した社員の酷使(労働条件の悪化、その労働内容と労働時間に対する賃金の低下など、新しい段階の搾取段階)、企業の全般的経営不振(技術・生産力の海外流出問題を含む)、他方で国家公務員や政治家など特権階級の天下り問題の温存、総じて社会の厳然たる二極化構造etcetc...といった、いわば末期的症状を、顕著に迎える前哨戦の時代であった。
 21世紀にすでに突入したこんにち、もっとありとあらゆる労働環境・雇用環境を題材にマルクスやウェーバー、また彼ら以降の経済学・社会科学・哲学的発想と手法でこうした問題を考えることも出来るであろうし、そうしても面白いはずである。社会の有りようは、現今じつに多様化している。
 今の日本社会に当てはめてみれば、正社員よりずっと多くの非正社員(フリーター)を雇用している企業の経営の問題と、そこで働く労働者の労働力・労働内容の問題など論じると、色々な地平がひろがってくるかも知れない。或いはニート問題。こうした地平をモデルケースにしてみるならば、そもそもマルクスなどの言うように、労働というものはほんらい、それ自身としては類的性質のもの、つまり人間の本質的なものであり自発的なものなのだ、という理論自体が、現今の社会に於いて成り立つのであろうか、という根本的な問いが、生じて来るかも知れない。
 或いはまた、ライブドア騒動に典型的に見られるように、アメリカナイズされ株価至上主義・拝金主義に陥った、末期資本主義経済の論理にもとづく、「虚業」家たちによる、「実業」の搾取問題。ちょうどバブル期に頻繁に行われていた、土地転がしの延長線上にあるにすぎぬ、彼らの手による株価操作という、およそ労働とはいえぬ社会的行為と、それによって事実上価値を無化されたところの、買収された側の諸企業に於ける労働(実業)。それこそマルクスのフェティシズム(物神性)論とその延長上から、資本主義体制の必然的帰結ともいえるこんにちの我々の社会の末期形態を鑑みるのも、そしてまたそもそも労働というものの本質的意味と価値の問題、などを再度考え直すのも、一興だったろう。
 また、労働の現場を考える、と言うとついつい、労働者から見た視点のみに支配されがちかも知れないが、資本家・雇用者から見た視点――労働者の賃金確保と、会社として担保するべき資本の両立の問題――が、ないがしろになる畏れもある。現代のように競争の激化した、いっときの油断もならぬ社会のもとでは、生産技術も可変的、機械など生産手段の交換なども頻繁に行わなければならないめまぐるしい経済の仕組みと流れの中で、賃金と、リスクの為に担保すべき資本、両者の均衡をとること、この問題のむずかしさを顧慮する時、ひとくちに労働者の視点からだけ見て搾取を「搾取」と言い切れるかという問題も、或いはあるかも知れない。そういう面では疎外・搾取というものの捉え方、状況への当てはめ方の見直し問題などを含めながら、そうした企業のむずかしい制約性の中で労働と経営について吟味するとなると、かなり色々な問題にも出合うことになったであろう。
 今何かとネガティヴな意味でも話題になりがちである、官僚・国家公務員や、マスコミに祭り上げられて半ばタレント化した政治家の権威や行動様式、権力構造や階級について、ウェーバーの理念型やマルクス理論、またかれら以降の学論から考えるのも、面白いかも知れない。介護や看護といった、労働の中でもきわめて「奉仕」性のつよい社会的行為に就いて考えるのも、現代社会の重要な側面を見直すひとつの契機になったであろう。逆に、私個人としては得意な分野ではないが、投資や投機といった純経済的行為に焦点を当てることもできるだろう。
 また当然のことながら、社会的行為にしぼって考えてみても、社会的行為とは労働に限られない。たとえば自衛隊員や、天皇の公務について、社会的行為という発想を足がかりに、様々考えるのも、興味深いものがあるかも知れない。

 が、とまれ、あの当時学生時代の私にとって、いわゆる労働、とか労働者、という言葉が直接的に指向すると思われた、比較的原初的な意味での「労働」環境を軸に、個人的=創造的行為と社会的行為とのはざま、オーソドックスでありながら、同時に<純>-社会的行為とは言い難い、或る種境界線上の地点について考えてみることは、やはり避けられなかったのかも知れない。

 繰り返すがやはり、当時の自分には、――こうした言い方は、やや極論めくが――理解社会学〜社会的行為学派(主意主義的観念論への素質)と、マルクス主義(定型主義的観念論への素質)との「間」、もしくはそのような両義的な「間」など畢竟ありえない・どちらかに偏らざるを得ないのだとすれば、両者への傾向を含んで尚、出来るだけ統合的で多角的な、弁証法としてもよりダイナミックな地平を、素人なりにも突きとめたいという意識があったのだろう。

 マルキシズムが、やはりイデオロギー上、下部構造が窮極的には上部構造を規定するという以上(何故ここで閉じるのか、これが弁証法なのかが解らないが)、結局はそうした個々人の主体に於て貴重な自発性と人間性回復といえども、社会的次元(財産私有・交換社会・商品化・市場経済)に移行するなり価値逆転を免れぬ、すなわち物象化を免れぬ、という地平に、終局するしかない――創造行為の単なる労働としての抽象化、その反映さるべき魂の商品・生産物としての抽象化、あらゆる数量化手続等々によって吸収されて――と言うことに、マルクス理論からすればなるのであろうけれども、ほんとうにそればかりであろうか、という疑問が残るように思えてならなかったように思う。自発的労働が、市場関係によっても価値逆転されることなくその労働としての価値を担保したまま人々に交換される、といった社会は、我々の労働や経済生活上の、もしくは人生上の、人間関係上の、様々な価値観を見直すことによって、ひょっとすると出現可能ではないのか。或いは経済システムを、劇的にではなくとも丹念に修正することにより、より平等で相互に主体的・自覚的・自己回復的な労働と生産(ものづくり)を斡旋する社会が段階的に出現可能ではないのか(そこに於いては同時に、一定の市場関係の中でも、ひとびとの――少なくとも内面における――フェティシズム克服が可能ではないか、有用価値・交換価値としての商品価値以前の、物とそこに受肉した技術・精神性それ自身が持つ尊厳と価値を、我々が主体的に見いだし、それが通常の商品関係を超越する現象が起こるほどの、成熟した社会――経済(合理性)“至上主義”でない社会――が出現可能でないのかetcetc)。問うてみたかったのである。

 やはり弁証法をより多角的に・ダイナミックに進め、こんにちにもつながる様々な社会的現実を克服するためには、マルクス自身にもっと、この「(下部構造による上部構造の)しめくくり」の手前で、やはりマルクス理論の原点、つまり個人の創造力の初発性=前‐意志的動機が労働の本来性である、といったあの原点を鑑みるならば、その社会的意味性と変革的効果を以て現実の経済的・社会的システムに反映・実現させられていくための手段を、具体的に考案するための知恵を、積極的に貸して欲しかったものである。
 つまり逆に謂えば 願わくは人間ひとりびとりの〈不断に自律的〉創造力の側が、経済とそのシステムを〈制約〉しうるには?どうしたらよいのか、その困難窮まるダイナミズムを、(階級闘争云々以上に)より労働の現場そのものから、良心的に開拓して行って欲しかったということだ…。


 マルクス理論の現実化失敗について考えると、ひとつには、世界史的に、資本主義体制すら未成熟な国ばかりが次々と、より成熟した資本主義経済の形成、という《過程》を飛び越え、経済段階としてもひとびとの精神的段階としても色々な意味で未成熟なままいきなり社会主義に移行したこと――弁証法的発展過程を、飛び越えたこと――、が、のちに社会主義社会が次々に崩壊する最たる原因であった事は間違いないであろう。社会主義とは、(もしも成立しうるとすれば)資本主義社会が「もっとも」経済的に成熟しえた時(つまり、経済格差が資本主義体制枠内で可能な限り消失した段階で)、経済形態そのものを漸次社会主義へと移行する、という過程を踏むのでなければならなかったはずである。ところが、そのように、そもそも資本主義が資本主義の原理そのものによってみづから資本主義経済自体の歪みを浄化し、経済格差を消失する、という前提自体、あり得るだろうか(その歪みや格差を是正する働きをするものこそが、まさしくマルクス的視線であり、理論ではないのか)。と考えれば、現実的には、まず資本主義という枠組みは温存したまま、マルクスイデオロギーのうちの、#“良質な部分”を、知恵として拝借して、資本主義の有りようを少しでも理想的な傾向――自由・平等・公平・基本的人権の尊重などの観点が「より」守られたもの――へと修正するのでなければならなかったのであろう、とは、今も思っている。

#マルクス理論の“良質な部分”……私見では、それは階級闘争云々、プロレタリアートによるブルジョワジー打倒云々の部分、言い換えれば経済形態や国家形態、すなわち資本主義(国家)か社会主義(国家)か、の問題であるよりはむしろ、マルクスがそもそも「搾取」と「疎外」の両観点を、問題意識として有っていたこと――マルクスの資本主義理論を貫通するとされる「フェティシズム(物神性)」の観点は、今回は一応あまり直接には触れなかったが――。そして「健全な労働にとって大事なのは、経済的搾取の構造を露わに示すこと、そして*労働者の自覚を促すこと(自主管理)」だ、としていた点にあるように思われる。延長して言えば、より共同利益的でかつ相互に自己実現的な労働をめざすという視点、あえて管見を含め平たく言えば自由(主体の自律性)と民主主義(公平・平等・個々の主体主義=基本的人権)につながる観点を、マルクスが内包していたと、云えるかも知れない点であると思われる。

(*…今村仁司=編「現代思想を読む辞典」(講談社現代新書)には、近代の最も重要な思想的遺産としての“自律性(autonoly)”と、この啓蒙のユートピアを日常生活の現場で現実のものにすること、としての“自主管理(autogestion)”についての記述がある。(P262)
「19世紀西ヨーロッパの労働運動が目指したことは基本的にはこの自主管理であった。19世紀社会主義思想の精髄もまた自主管理であった。(中略)いっさいの他律性からの解放、これが労働者階級の解放の理念であった。労働する人々は、『自分で自分を管理する』とき、真に解放される。何よりまず、生産現場(工場)で自主管理を実現しなければならない。」)


 だが実際にはマルクス理論及びマルクス主義の歩みは、経済形態・国家形態と、理論実現のための手段(階級闘争自体)に力点が掛かりすぎた。これと連動して階級闘争と言われるもの自身も、「労働主体ひとりびとりも、資本家と同様、経営の有りようなどを決定するヘゲモニーの一端を、自覚的に担うに至る為」、というよりはむしろ「ブルジョワジー打倒」を目的化するものへと変質した。その結果、経済システムを、資本が私的なものからより全体的(公的)なものへと一足飛びに移行すれば、問題が解決するかのように運動が展開され、かえって搾取は国家的・体制的規模へと拡大し、搾取の実態も無くなるどころかより全体主義化し、特権階級もより広大な規模にふくれあがり官僚主義へと陥ってしまった。
 この体制移行一足飛びの問題は、マルクスが、そもそも(資本・財産の)「私有」を、疎外の原発的要因として問題視していた事が、契機として大きくあるだろう――マルクスは、私有・交換・商品化(市場原理)が、疎外の要因であるとしている――が、ではそれを、「私有」から「公有」に転換すれば、つまりそのような様式・形態の変容を以てすれば、疎外の問題は解決するのだ、というふうに認識処理すると、今度は、結果様々な歴史的陥穽を招くであろうという、用意周到な展望が、マルクス理論には残念ながら無かったことを意味するだろう。つまり「公有」することのリスクについての、想像力にみちた十分な分析の欠如である。*実際、歴史的・社会的現実としては、ソヴィエトに典型的に見られたように、資本・財産管理の主権を、公的なものに委譲することにより、それが党や特定人物(たとえばスターリンなど)に、ヘゲモニーを委譲することとEQUALになり、結果、疎外と搾取の撤廃はおろか、逆に徹底的な管理主義社会・全体主義(という名の公的疎外と搾取)が誕生してしまい、肝心の労働者に奪還されるべきであった労働主権も、国家によってすっかり奪取されたという、じつに本末転倒なあの経緯である。

(*…参照として、やすいゆたか著「疎外論再考ノート――前編:何故今疎外論か」に以下のような記述がある。[抜粋]

 「中央集権的な計画経済の下で、全国を一工場のごとく中央の指令で運営することを理想 と考えていた準戦時的統制経済では、労働者はノルマ達成の為に強制労働に駆り立てられるだけの存在になる。労働者には自分の職場や企業や地域や国家の経済を自分たちで相談して運営する権限は少しも与えられていなかったのである。このエセ社会主義では一応労働者が所有者だということになっていたものの、所有者としての権限はすべて共産党に委譲していた。大衆は自らの前衛性をすべて外化し、「前衛政党」ひいては指導者個人に対象化=疎外することによって、前衛党あるいは指導者個人の専制支配に無条件に屈せざる得なかったのである。この「労働からの疎外」のせいで大衆は勤労意欲を喪失し、創造的な自己実現としての人間の類的本質からも疎外されたのである。」――七:市場原理と疎外論

 「資本主義的生産様式を国家的な社会主義革命で一挙に国有化しても、ロシア型で考えると、職場や各企業、地域や各共和国でそれぞれに労働者の民主的な会議で運営できるソビエト型社会主義が軌道に乗るようになるまでは、国家資本主義の専制権力が出来上がることになる。それは以前にも増して強制労働に追い込まれる恐れがある。
これが真の社会主義へ移行する暫定的な過程なら、ソビエトの充実に伴い疎外は漸進的に軽減されていく。だが社会主義建設を巡る路線対立や、指導者間の権力闘争が激化して、恐怖政治や指導者の個人崇拝による専制支配に堕落していくと、大量粛清や収容所列島化が現れ、最悪の疎外状態になる。」――九:漸進的な疎外の軽減


 また先ほども触れた引用文のつづきにあたる、今村仁司=編:「現代思想を読む事典」(P262)には、後このようにつなげられている。
 「『社会主義』の基本の理念形態は、人びとの『集団化』や『生産手段の国有化』などにあるのではなくて、各人が自律的に経営に参加し、各人の発言が平等の重みをもって受け入れられ、さらに生産組織自体が国家から完全に独立している、という条件を充たす自主管理にこそある。スターリン主義が革命の『裏切り』として断罪される理由は、スターリンの個人崇拝とか国家権力の濫用あるいは大量粛正とかにあるというよりも(それらも重要だが)、労働者の自主管理を解体させたことにある。スターリン主義(とその多様なヴァリアント)は、『社会主義』を『個人の国家ないし集団への吸収』に還元し、個々人と各集団の自律性を根こそぎ破壊し、解放の理念を永久に追放した。この点ではナチズムもファシズムもアジア的『大同主義』も同罪である。」)


 こうしたリスクや歴史的結果をあらためて考えるとき、いっそのこと資本・財産の「私有」の枠組み、すなわち資本主義的な枠組みをば残存させたまま、その体制内で出来る限り疎外と搾取を「軽減させる」、そして階級対立と格差を減らし、経営者と労働者間における生産・労働上の主体的権限をより公平に近づける、という修正的手法を取ることも、現実的で実効ある方法として検討されるべきであったのではないかという、ひとつの省察も生まれる。マルクス理論の言う、社会主義→共産主義とは、謂ってみれば理念的な存在(彼岸)であり、資本主義社会が、まず体制(様式)として“一挙に”それへと移行すべきところのものではないが、しかし同時に資本主義社会が永遠にその理念を指向しつづけるべき窮極の対象でもあるのであって、ドゥルーズ風な代数学的言い方をあえてするならば、99.9999999...はけして「=(EQUAL)」100ではありえずそこには永遠に差異があるが、同時に限りなく100に近しいものでありつづけていく、といったところなのかも知れない。
 そのことは、単に資本主義の全面的勝利;社会主義の全面的敗北、などというあの使い古された歴史的結果論を印象づけるよりは、(逆説めくが)むしろマルクス理論からみれば資本主義というのはそのシステム上謂わば永久に問題を抱え続け、継起的に弁証法的修正を迫られるべき経済システムであることを、今なお教唆しつづけるものであるはずで、資本主義体制はおのれの体制にあぐらを掻いていることが許されぬ、というメサージュをこそ与えるものである。

 マルクス理論がその理論通りの結果を生まなかった要因には、もうひとつには、同理論のなかに、ひとは自分の為に働くばかりでなく、直接的な見返りは少なかろうとも、社会の為にも同じように働けるものだ、といったような、一種の性善説にもとづいた認識の甘さもあり、それが社会主義崩壊という形でのマルクス主義敗退を招いた、という面もあろうかとも思う。自分自身の延長とも言える、“人格としての交わりのある”身近な他者に対しては、ひとは奉仕に近い精神で見返りも求めず動くことが出来るが、顔も見えず人格の交わりもない抽象的他者に対しては、なかなかそうはいかぬものである。人間が、自分の為に働くと同様に、(いきなり抽象的な)他者の為にも、身を粉にして働くことが出来るためには、余程の人格的・精神的錬磨が要求されるのであり、第一、前提条件としてそのような理想的な労働主体としてひとびとが社会に参与できる為には、逆に一定の――すなわち自己の為に働く場合とほぼ同等の――終身的な経済保障が、(理念遂行のためにも)得られるのでなければならないとも言える。
 また、同時にこの理論の甘美さには、人間にとっての仕事のやりがいと見返りとの相関関係、といったものに対する誤算――賃金の形式的平等主義(という形での、能力主義から見た不平等)の弊害――が、あったであろう。同じ仕事に従事していても、自覚の差、能力の差、労働への真面目不真面目の差、あらゆる差異の生じることが、残念ながら人間的現実として考えられる。その際、どんな働きに対してもおなじ見返りしか賃金として与えられないとなると、労働意欲が喪失するのは目に見えている。極端な能力主義に走る必要はないが、「相応の」見返り、つまり努力が努力として“報われること”、はどんな人間にとっても非常に必要なことである。

 さらに、これと重なる面もあるが、マルクス理論が市場に於ける「自由競争」の原理を、人間にとって極めて原基的な動力として現実的評価を与えておかなかった点も、マルクス理念実現の失敗に関してはかなり大きい要素だったとも言えるであろう。

 このように、資本主義体制から社会主義(ひいては共産主義)体制への移行に関して予想されるべきであった、これらの諸問題が、残されたままあえてその体制移行を断行するのであれば、そこには個々の主体に、――社会・国家経済がそれ相当に成熟していないぶん、――はかりしれぬ人格的成熟度と忍耐が要求されてくる、というからくりが働く訳である。
 という訳で、畢竟、体制移行の成功は、個々の主体(人格)と社会(経済・国家)、両者がそれに耐えうるだけの「成熟度」という要素を予め満たしている段階でなければ、果たせなかったのである。

 このようにマルクス主義とそのあゆみには、こうした人間認識・歴史認識の甘さといった側面や、たとえば先述したようなみずから弁証法的思考を停止しているかのような上部構造と下部構造の関係付けをはじめ、色々の疑問点はある。だが、同時に私は、労働疎外という発想、またこと資本主義にはおそらく永遠につきものの疎外と搾取の問題、また階級格差の問題――殊にこんにちの日本社会にはロコツに「階級」というものが厳然として存しているし、むしろその格差は、尚も拡大しつづけている――などの点については、マルクス主義の指摘は今以て有効だし、この問題が現今なお全く解決されていないということはもっと深刻に問題にされるべきであると思う。バブル時代を通り、21世紀に突入して、その感はますます高まっている。
 一時期あれ程に全肯定され、これに組しないものは腰抜け・愚か者扱いされた程のマルクス主義が、一端否定されるとなると、その全てが丸切り時代遅れのもののように一掃されてしまうという、こうした極端から極端への流れというのは、如何なものだろうか。こうした偏向と扇動性はなはだしい時の勢力の動きで、その時代時代の、また時代を超えた「問題の本質」そのものが、いつも隠され取り残されてしまうのは、不幸なことであり、また学問と文化それ自身にとっても、その恩恵を受けるべき社会にとっても、不本意なことである...。

 今、日本やアメリカ型の資本主義国が破綻的・末期的状況を迎え、勝ち組と負け組との間の格差があまりにも開く迄に至ったこの時代、片方が妙にダブついていると思えば片方はこれ以上不可能なほど搾り取られている、といったこの時代、たとえばNHKのプロジェクトXなど、産業の危機とその乗り越えのドラマを如実に語ってくれる番組が、他方登場するようにもなり、或はまた先日ノーベル賞を受賞された田中氏とその周辺の態度など、拝見していると、やはり痛感するのは、資本家(経営者)と労働者(できるだけ自発的創意にみちた働き手)とが、同じ理想の実現のための綜合的意志と意欲と良心を以て事に当たる、という当然のことが、労働の現場にはあらためて要求されよう。この際、後者は各部門や事象の細部にまで熟達し且つ多角的な目で目標を探究しつづけ、前者は経営にかんするより統括的な認識・見識が要求される、という立場の違いはあろうが、何れにしても、最低限、両者の目標が一致していなければならないし、同じように、自分たちが従事する仕事と分野を愛し熱意を以て取り組んでいなければならない、という事であろう。そのためには、従事している労働の内容それ自体が、まずもって熱意と尊厳を持つに足るものでなければならないとも言える。
 そもそもこの、雇用者と非雇用者の間の目標が、共有されざるままに進行するような事業および経済システムは、当然ながら疎外や搾取、不当な経済格差を生む、ということにもなる。(そこには、第一次的な労働従事者・生産者・技術の磨き手以外の第三者――仲介業・株屋等々、副次的な産業従事者――が、わがもの顔にのさばる余地が生じる、という意味も含意される)
 思えば資本主義経済とはそもそも、市場や投資が無ければ存立しえぬシステムではある。がだからといって、株価操作屋や仲介業・虚業家たちばかりが、大手を振って闊歩するような経済的歪みにみちた社会では、やはり資本主義経済自体が崩壊してしまう、そういう自己矛盾を、資本主義経済とは元来抱えたシステムなのであるといえる。
 そんな危ういシステムに於いてであるからこそ、やはり雇用者・資本家自身のスタンスというものは、金儲けとしての成功以上にむしろ自己の携わる分野の仕事、プロジェクト自身を深く愛し、地道な「ものの生産」・「技術の錬磨」それ自身の成就に栄光を求めることの方に力点が掛かっているのでなければならない、ということにもなろうし、労働者のがわも、出来る限り基本的人権に悖らぬ労働条件と互いの意見交換・立場交換にとって風通しのよい労働環境を保障されたもとで、自分たちも経営者とともにプロジェクトを自己目的化し、同時に共同目的化しうる、「総括的な主体」としての視点を以て、それに携わる「人材」として、ものづくりや技術向上に参与したいものである。
 が他方、そうは言っても労働と、それに携わる労働者の関係は、いつもつねに理想的なものであるとは言い難い側面があるのも現実である。不本意ながら、その業種・労働に携わらざるをえない人もいるであろう。また経済的事情・家庭環境などの制約性から、その不本意な状態をみづから脱け出すことも出来ぬまま、その労働に従事しなければならない場合もあるだろう。が、こうした場合もあるからこそ、労働条件の過酷さは、基本的人権の定める処をあまりに超出してはいけないとも言える。そしてそのような人々には、己の現実的労働の場以外で、何らかの自己実現の場、或いは生活・人生上の理念や目的――所謂、生き甲斐である――を、強靱に保ちつづけながら、現在従事している労働にもかわらぬ敬意を以て(そこには、おのれの個人的事情を超えて、第三者から見たその仕事の社会的意味合いを再認識することが要求される)、携わり続ける、そういう実存としてのリアリティと逞しさが要求されるともいえる。その逞しい自己省察的視線は、同時に仕事や社会的立場によって人を判断・評価しない、或る種の柔軟な炯眼を有つことにもなるだろう。おそらく両者はひとつのことの表裏である。
 何れにせよ、まっとうな労働、より理想的な労働、というものの成立には、社会の成熟・人々の精神的成熟と、地道で不屈の創意が、当然ながら必要になる。

 こうした地道な創意を忘却し、破壊主義に加担していくような現今の社会的風潮とイデオロギーがはびこっている末期的症状の社会には、健全な経済システムも畢竟成り立つことが出来ないであろう。

註記
当論文の以下の箇所には、それぞれの先生の御著作を参照させていただきました。心よりお礼申し上げます。

M・ヴェーバー関連箇所…大塚久雄著「社会科学の方法」岩波新書
K・マルクス関連箇所…やすいゆたか著「疎外論再考ノート」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/sogairon/sogaironmokuji.htm



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