森林保護補償制度の確立を

問われる第三世界との新しい関係

                       津吹 純平



 第三世界で、森林破壊が凄まじい勢いで進行しているという。かつての先進諸国における森林破壊を凌ぐ現状だそうだ。
 周知のように、アマゾンやボルネオの森林は、単に、その地域に限らず、地球全体の大気の生成に、多大な影響を与えている。その森林破壊は、近年俄に注目されるに至った地球の「温暖化」現象の一因にもなっていると、指摘されている。
 専門家の中には、森林破壊が現状のまま放置されるならば、人類の歴史は、あと数十年余りで、終焉するだろうと、警告する人も少なくないのである。事態は、一刻を争うほどに緊急かつ重大な局面を迎えているというのが、客観的な事実のようである。
 そこで、「危機」が叫ばれ、「破壊は食い止めねばならない」との訴えの声が、マスコミや市民運動を中心に高まり始めている。

 しかし、実際に、生態系の破壊――たとえば森林破壊を食い止めるためには、訴えや認識が、具体的な対策や行為を喚起せしめなければならない。
 いったい、どのような対策や行為が必要なのであろうか。
 急速に育つ樹木の育成や、大気汚染の浄化や大気生成の人工化など、科学的な問題はそれぞれの専門家に任せるとして、政治や経済や社会の営みやシステムという位相において、果たすべき事はないのだろうか。

 ここで、考えなければならないのは、生態系の破壊、森林破壊が、地球全体の問題、人類共通の問題であるとしても、現実には、消費、輸入国と生産・輸出国という二つの当事者の問題だという事実である。
 つまり、ほんらい、地球上の人類、民族、国民、市民、等々のすべてにとって共通の利害となるはずの森林破壊は、他のほとんどの問題と同じように、やはり、当事者と非当事者に分別されるのであり、その当事者として、端的に言って、木材を売買する両者がいるというわけである。
 そこで、そうした具体的で個別の存在、その当事者が引き起こしている問題と事情のなかに、危機の解決を計ろうとはせずに、「我々の課題」として、「人類一般」のなかに解決を求めようとするなら、結局は、抽象的な理念を謳い上げるだけに終わらざるを得ないであろう。

             消費・輸入国の問題

 言うまでもなく、森林需要の世界最大の消費国は、日本である。その国民のひとりとして、まことに心苦しい限りの昨今である。わたしたちは、この現実を忘却して、あたかも地震や台風のような天災に接するように、生態系の破壊の危機、森林破壊の危機を口にすることは許されないであろう。「人類が直面している課題だ」と普遍化する前に、わたしたちは、「わたしたちの社会が直面している課題だ」として、認識し、責任を感じなければならないはずである。
 人類の危機、地球全体の問題とは、その責任を担うべき対象の実体として、認識し、語らねばならない意味合いのものなのである。
 森林破壊の原因を作っているわが社会の森林需要・木材消費を減少させるべき具体的な方策を検討するに先だって右のような意識の変革が急務となるであろう。
 その認識の下に、わが社会を概観するならば、そこには、高度経済成長によって達成されたとする「大衆消費社会」と、飽くなき利潤追求に突っ走る「企業経営」の実態が見えてくるはずである。社会と経済の、異常なまでの肥大化が浮かび上がってくるのである。
 さらに、眼光を強めれば、ほとんどヒステリックなまでの便利さと快適さへの欲求と、憑かれたような生産拡大への欲求と、組織の強大化への欲求と、財貨への欲求などの虜になってしまっているわたしたち日本人の、浅ましい姿が映じてくるに違いない。おまけに自己欲求の拡大と充足のみに突き動かされ、他者や人類全体のことを忘却して省みない我執の鬼に化した醜態が、鮮明になって見えてくるではないか。
 思想の位相において、右の事情を言葉にすれば、それは、まさに、悪しき「近代主義」ということになるだろう。わたしたちの社会と時代に、近代主義の「過信」と「破綻」を見るのならば、右のような事実をこそ、それと認めなければなるまい。
 近代主義の〈超克〉を唱えるとき、右のような社会と人間にたいする批判と訣別を志しているのであれば、わたしは、全面的に、その闘いに共鳴するのであるが。

 それはともかくとして、わたしたちは、わたしたちの社会のなかに、ほんらい、人類全体、地球全体の資源であり、供給物であるはずの森林の多くを取り込み、消費してきた事実を、直視しなければならないであろう。実際、「経済大国」とは、反面、資源の「消費大国」でもある厳しい事実を真摯に受け止めねばなるまい。
 そして、「ジャパン・アズ・ナンバー1」という優越感に浸ることなく、謙虚に、地球上の「生きとし生けるもの」すべてに対する己が過失と責任を、認めるべきであろう。
 たしかに、その自己増殖の実態は、社会と人間に深く侵蝕しているかに見えるが、わたしたちは、困難の前に、決して、たじろぐわけにはいかないのである。

                供給国の問題

 しかし、生態系の破壊、森林破壊は、その消費国だけに関わる問題ではない。消費国に反省を求めてすべて解決、というわけにもいかない。そこで、もう一方の当事者である供給国の問題について、考えてみることにしよう。
 この問題については、一部の識者たちのあいだに、森林伐採と輸出のあまりにも無謀な点をとらえ、供給国にたいして、自制を求める声もきかれる。
 実際、アマゾンの森の奥では、牧場主たちによる、やりたい放題の森林伐採の実態が報告されている。警官が身分を明らかにする制服ではその地に入れないというほどの無法と無秩序ぶりで、殺人事件も珍しくないのだそうだ。
 たしかに、そんな金儲けに狂うならず者たちによって、大切な地球資源が刻々と食い荒らされているのかと思えば、なんとも腹立たしい限りである。
 ただ、そんな無法者がいるという問題と、森林伐採が憂慮されるべき現状だという問題とは、いちおう、別次元の話なので、ここは冷静に考える必要があるだろう。
 つまり、ブラジル全体の問題として、牧場から出る生産物が、そのように牧場面積を拡大しなければならないほど、緊急かつ必須なものとして、国民から待望されているのか否か、また、そうだとしても、牧場面積の拡大の仕方は現状のような森林伐採にたよるほかないのか否か、という事などが問題となるであろう。
 その事情如何では、さきの無法者の問題は、もうひとつ複雑な要素を孕むことになると思われる。

 無法者の牧場経営者の話はともかくとしても、第三世界の木材供給国の問題にたいしては、我々先進諸国は、格別な慎重さが、必要である。森林伐採という結果にだけ目を向けるのではいけないだろう。
 彼らが森林伐採を進める背景には、酪農による生産物の供給という問題があることは、さきにみたとおりだ。さらに、森林伐採による土地は、野菜や果樹の栽培など、一般的な農業用地としても利用されているという事情もある。住居地区に転じる場合もあるようだ。一方、伐採された木材は、その国自体の住宅や家具や器具などの木材利用に供給されてもいる。そして、もちろん、我が国など、先進諸国へ大量に輸出されている。
 そこで獲得した外貨が、ほとんど、貿易商や木材業者など一部の経営者や事業体の金庫にだけ入り込む結果になるのか、それとも、民衆や社会一般にも公平に分配されることになるのかに関しては、また大いに問題になるところであろうが、とにかく、その国の経済や経済活動の発展に、多大な影響を及ぼしていることは間違いないところであろう。
 その結果として、国民の社会生活をそれなりに向上させることにも、密接に関係していると言えるであろう。
 つまり、彼らにたいして、「森林伐採を自制せよ」と迫ることは、右のような言わば、「社会的財産」の減少を強制することになるという問題を生じる結果となるのである。
 森林伐採の抑制という、それ自体はまったく正当な要求が、一方で、供給国の社会と民衆に、少なからぬ不利益と不都合とをもたらす矛盾を、わたしたちは抱えてしまっているわけである。
 この矛盾に、わたしたちは目を向けなければいけないし、適切な解決策を見出さなければいけないだろう。

              新しい観念の必要性

 もしも、森林破壊を防ぐためという大義名分のゆえに、消費国のわたしたちが、一方的に、彼らにたいして、不利益と不都合とを甘受せよと迫るならば、それは甚だ身勝手で傲慢な事だと言わざるを得まい。
 わたしたちも輸入の抑制、消費の抑制によって、生活上の不都合を強いられるのだというのは、公正な主張ではないだろう。大量消費社会における、より快適な生活を求める次元での抑制と、衛生問題を含む基本的な生活の向上を求める次元での抑制とを、同列に考えるわけにもいくまいからである。
 それに、近代化を遂げた日欧米など、先進諸国と第三世界という構図でみるならば、事は、身勝手とか傲慢とか形容するだけでは済まない話となる。
 自分たちは、さんざん、開発と進歩と快適を求めてきながら、たとえ現在は環境破壊が切実な問題になっているとは言え、あとに続こうとするものたちに、自制を促すのは、やはり問題だ。「けっして、近代社会は、いいものではないよ」なぞという助言は、本気でそれを捨て去ろうともしない先進諸国が言うのでは、いやらしい響きさえ伴う。
 己自身は、他国の事や世界全体の事をまったくと言って良いほど斟酌せずに、やりたい放題の事をしてきたにも拘わらず、その結果として、こんにち地球規模での汚染と破壊が深刻化すると、こんどは、自分たちでは絶対に耐え難い貧困と不便さのなかにある第三世界の人々に向かっては、「あなたたちの利益だけを考えるのは間違っている。世界全体、人類全体の事を考えるべきだ」と、反省と自制とを迫るというのでは、その底に、人種的偏見や民族差別感情が横たわってあるのではないかとさえ、疑いたくなってくる。
 なにやら、第二次世界大戦まで存続してきた日欧米の帝国主義国家による植民地支配の論理と言葉に接する思いがするのである。

 この小論の冒頭でも述べたとおり、環境破壊や公害などの問題は、地球規模で捉えなければならない問題であり、その意味では、まさに国際的な視野に立った判断が必要なのであるが、実は、第三世界の国々以上にそれが求められているのが、わたしたち日欧米の国々だと、言わざるを得ないのである。
 森林消費大国の、と言うよりも、開発先進諸国のわたしたちこそが、まっさきに、人類全体、地球全体の事に思いをめぐらせるべき時なのである。

 そこで、わたしは、大きな発想の転換を必要とする一つの大胆な、荒唐無稽とも思える提案を試みることにしたい。
 それは、仮に「森林補償制度」とでも称したらよいであろうか。木材の供給国にたいして、当事国以外の世界各国が、たとえば国連機関をとおし、世界として、森林の伐採によって得られる外貨に相当額を支払う、という制度の新設である。
 もちろん、その代わり、木材供給国には、森林の伐採を抑制してもらうわけである。
 これなら、森林の保護と供給国の利益尊重とが、両立し得るのである。
 ただし、これは、現在開発途上国にたいして行なわれているODAとは、本質的に性格を異にするものだ。木材供給国の窮乏を補うものだからと言って、けっして、「援助」というわけではない。
 あくまでも、木材輸出によってほんらい得られるはずの木材供給国の利益分――輸出の抑制によって得られなくなってしまう利益分――を支払う、という話なのである。我々の要請によって被る損害を補償する、という話なのである。
 日欧米など富める国が、第三世界にたいして、「奉仕」する、というわけではない。我々の「義務」と「責任」を果たすに過ぎないということなのである。
 尤も、補償する側の立場で言えば、結局は、我々自身に必要な「大気」を、お金で買うことになるとして、これまでの「通念」や「常識」では納得し難い事かもしれない。
 だが、そういう時代に入ったと、敢えてそう認識する必要もあるように思うが、ここでは、それよりも、やはり、さきに述べたごとく、我々の要請に応じる木材供給国の不利益・損害にたいする「補償」であると、認識すべきことを、特に強調しておきたい。

 とは言え、この「補償制度」を具体化させるためには、難問が山積していよう。
 供給国の利益を守ると言っても、過去の輸出の実績に見合った補償額では、今後有り得る輸出の伸びに相当な利益分が除去されることになるわけで、その点をどうするかが問題となろう。
 また、国連機関と言っても、具体的にどういう形をとるのかという問題や、各国の分担金をどう割り振るのかという問題(たとえば、人口比で決めるのか、それとも面積比で決めるのか、或いは木材の消費量の比率で決めるのか、等々)、それに、国連に加盟していない国々をどうするのかという問題など、実際に合意を得るのは、なかなか容易ではないだろう。
 さらに、この「補償制度」に関連した問題として、供給国自身の「木材需要」も含め、世界全体の木材消費の「適正量」どの程度に定めるのか、という厄介な問題も存するのである。
 しかしながら、こうした問題は、関係諸機関において、議論を積み重ねる事で、やがて解決を見出せるのではないか。(フロンガスの完全撤廃の決定の事例もある)。少なくとも、その障害ゆえに、森林破壊を防止する手だての探求を、はじめから放棄せざるを得ないというほど、解決絶対不可能な障害には思えないし、また、実際、放棄してはならないであろう。

 ほんとうに、現在、我々が直面している状況は、ある提案にたいして、あれこれ難題を投げつけている時ではないのである。実施された際には、「効果」がかなり期待できるような提案である場合には、とにかく、その実現に向けて、最大限の努力を惜しむべきではあるまい。
 ここでの提案である「森林補償制度」は、少なくとも、検証して損のない方法であると、わたくしは信じるのであるが……。
 ただし、その実現には、特に、日欧米諸国において、真の国際的意識、全世界・全人類的思考が不可欠となろう。まさに、我々こそ、意識革命・思考革命が、切実に、かつ緊急に求められているのである。

                                            了

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