O157による宿泊拒否は、差別か
――――共存・共生の有り様を考える

津吹 純平




 大阪堺市で集団発生し、この夏の家庭の食生活や商品市場にまで影響を与えたO157も、どうやら終息に向かいつつあるようだ。
 ところでまだ猛威をふるっていた時期のこと、注目すべきニュースがあった。堺市に住む人が旅行の宿泊を断られたというニュースだ。また、小学生がキャンプへの参加を拒否されたという報道もあった。
 これを伝えたマスコミは、いずれも、エイズ問題と同様、やはり差別と偏見という位相で批判的に報じていた。
 しかし、ここでのマスコミの良識は、重い責任を担わされる当事者の苦渋を知らぬ観念的なものだと言わざるを得ない。

 マスコミ諸氏は、これを異端や弱者にたいする排除の論理だと断じたのであろう。たしかに、日本の社会には、身障者を異端として蔑み、排除しようとする差別と偏見の意識や観念が根強く存在している。
 しかし、O157問題での拒否はそれとは性格を異にするものだ。
 拒否した側の意識に存するのは、言わば強者の感情ではない。言うなら、自己防衛の意識である。
 つまり、拒否した側の頭と心に去来したのは、他の宿泊者・参加者の身の安全の保証と万が一の事故の際の問責のことである。
 O157の菌はどうやら全国に分布しているようだが、堺市の危険度が他に増して存することは事実だろう。現に、発病はしていないものの二次感染とみられる保菌者が多数出てもいるのである。
 尤も、全堺市市民の数に比してそれは僅かとも言える。しかし、二次感染の広がりを懸念する声は専門家の間にも少なくなかったのであるから、〈絶対安全〉を求める立場にとっては、些かでも危険性の存するものは回避したいとしても無理ないことではないか。
 実際、万が一の事態が発生した場合、宿の負担はあまりにも大きい。
 保菌者からの同宿者への直接的な感染の場合なら宿の責任が問われるべきではないと思うが(これとて管理上の責任について裁判上どう扱われるのか)、例えば、保菌者から宿の人間が感染し、その結果、調理の過程で菌が食物に付着して宿泊者の口に入って患者が発生した場合など、どうなるか。
 第一原因が宿泊した保菌者にあることが判明しないかぎり、宿がまず疑われ、その責任を追及されることになるだろう。仮に判明したとしても、宿の責任は軽減されるとはいえ、まずは当面の営業の停止が求められる上、死者が多数出た場合には、賠償金なり見舞金なりの総額は多大なものになるであろう。また、管理責任も問われることになると思われる。もちろん、宿泊者の身の安全を確保できなかったことに対する悔恨と自責の念の大きさは言うまでもない。信用問題もふくめてその後の経営の可否まで問われることにならざるを得まい。
 簡単に言うならば、宿にとって死活問題なのである。
 それゆえの拒否である。決して、異端者や弱者を忌み嫌う差別と偏見というようなものではないのである。完全に治癒した児童にたいして行なわれる「いじめ」とは本質的に異なるものだ。

 とは言うものの、拒否という形だけが安全策ではなかろう。要するに、宿の側としては、保菌者の宿泊が避けられれば良いのだ。そこで、検便の実施を求め、保菌の事実が無いことが証明された人については、宿泊を受け入れられるであろうし、またそうすべきであろう。
 たしかに、宿泊希望者にしてみれば、保菌を疑われるのは心地よいことではないだろうが、事は宿との関係に限ることではない。他の同宿者にたいする責任でもある。万が一にも、自身の感染によって、他者に二次感染をもたらすことがあってはならないのである。その責任を自覚するならば、自らの身体の保証を自ら果たすことを厭うべきではあるまい。運命共同体としての社会生活を営む上で、それは必要な義務と責任と考えるべきであろう。
 先の、マスコミ諸氏には、そうした指摘もなされて然るべきだと考える。殊更、差別と偏見という位相で社会問題化するまえに(実際、そうした位相で論じるべき事例も少なくないが)、実態に即した対処の仕方を追求し、当事者相互に、他者への責任を果たすことを求め、共存・共生の有り様を見出すべきではないか。

                                         了


「新・八ヶ岳おろし」
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