<八ヶ岳おろし> No.2


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「排除の論理」


 民主党の成立に関して、テレビなどの報道では、社民党や武村氏などにたいする処遇をめぐって、「排除の論理」を取るのか否かという観点で報じているが、それはおかしいと私は、前回の「八ヶ岳おろし」で異を唱えた。
 この問題で、日経と朝日の社説が、それぞれこう書いている。

 【政党とは政策思想を同じくする政治家の集まりとするなら、異質の支持母体とのしがらみを引きずる者や望ましくない決定を過去に下した責任者を排除するのは当たり前であろう。「排除の論理」という言葉だけがひとり歩きして排除がすべていけないことのように言われては、健全な政策論議を阻む結果になる。政策上での「排除の論理」はむしろ歓迎すべきだ。】――日経社説18日付けより

 【政党が一定の基準を設けて公認候補を選ぶのは当然である。それは、政策も理念も決まらない段階で、特定の人の参加を拒む「排除の論理」とは違う。】――朝日社説19日付けより

 これは、きわめて当然の見解である。たとえば、護憲の立場にたつ者と改憲の立場にたつ者とが同じ政党にあるというのは、その政党の懐の広さを示すものとの見方があるが、やはり矛盾と捉えるべきである。自民党におけるその証例は、政党間の対立軸がなによりも、資本主義対社会主義・共産主義にあったことの結果である。つまり、資本主義の側に属する者の呉越同舟だったのである。
 それは、非マルクス主義の立場に立つと同時に、独善的で偏狭な民族主義の立場による〈体制〉と明確に対峙する立場に立つ人々にとっては選択の機会を奪われるというまことに不幸な事だった。
 実は、民主党のような政党は、55年体制下においてこそ、60年代、70年代にこそ存在すべき政党であったのである。
 しかし、現実は、呉越同舟の道を歩んだ自民党の護憲平和論者の陥穽と限界を示すことになったのであり、それ以上の展開を臨むべくもなかったのかもしれない。
 が、こんにち、呉越同舟は、政党の存在意義を不透明なものにするだけであり、その働きも不徹底なものに終わらせるだけであることをおもえば、政党本来の政策・理念の結集を求めるのは当然の事と理解しなければならない。
 とは言え、すべての問題に完全な同一性を求めては、内部対立・抗争が生じ、分裂を引き起こしかねない。個人の意思を尊重する政党の設立であってみれば、実態が「党内政党」の観をぬぐえないほどのものにならない限り、異論・反論の共存は容認すべきであろう。
 その良識を、鳩山・菅両氏には求めたいところだが、設立時にあたっては、政党の存在意義に即しての取捨選択は断固として貫くべきである。

                                                           了



fffffffffffffffffffffffffffffffff 「社民党議員の
体たらく」



 朝日の19日付の社説によれば、同党の執行部を中心に、「入党しても公認されないのでは意味がない」との反発が噴き出し、「行く」「行かぬ」の混乱が起きた、という。
 やはり、本音はそこにあったかと呆れ返る話だ。
 現職がそのまま公認候補になれるとは限らないとは鳩山氏の言だが、これは、「現職は公認候補になれない」というのとは異なる。あくまで、民主党としての理念と政策の遂行にあたって、議員として有意義な人であるか否かを、改めて判断することを示したものである。
 【民主党は官僚主導の中央集権政治を、「自立した個人」の創造力や行動力で変えていこうとする新党だ。現職というだけで自動的に公認するようでは、党の存在価値そのものが問われかねない。】――朝日同社説より
 この社説の指摘のとおりである。
 その結果、全員が候補になれるかもしれないし、逆に全員失格になるかもしれない。
 新党に参加する者が、その洗礼を受けるのは当然のことだ。自身、民主党の理念と政策に心から同意しているのであれば、そのふるいわけに些かも動じることなどないはずだ。むしろ、自身の意思を新党執行部に強く訴える好機と捉えるべきであろう。
 それを現職という身分をそのまま保証することを求めるなど、そもそも新党の設立の意義と役割にたいする理解と同意が欠如していることの証である。
 そのような保身と不遜な意識に浸る政治家は、もう要らない。

                                                        了


「新・八ヶ岳おろし」
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「八ヶ岳高原だより」