<時の問題:政治>

「民主党は、真の
    <民主リベラル>政党になり得るか」

津吹 純平


 民主党の執行部が明確になった。彼らの構成メンバーをみると、果たして、これで本当に「民主リベラル」の名に恥じない政治が行なえるのだろうかという疑念が湧く。特に、鳩山邦夫氏や赤松氏が問題だ。鳩山邦夫氏の場合は、「民主リベラル」というより明らかに「保守」だろう。また赤松氏の場合は、反共・反左翼のイデオロギーに偏執している政治家である。

 もちろん、保守の全てが悪いというわけではない。真の変革は、実態それ自身の中に変革の芽が明確に存在するのでなければならないが、往々にして、変革を求められる側の主体的条件を無視した変革を求める側からの強圧的な変革が行なわれがちである。
 その時、取り敢えず現状を守ろうとする保守の立場はそれだけでも貴重である。もちろん、その場合、保守の選択に誤りがあることもあるだろうが、それでも、変革される側の本音を押し出し、新しい観念や論理や感情との葛藤を生み出すならば、保守の存在は、評価せねばならない。
 民主党の進歩派がその理念の実現に向けて、実態に即さず、甘さと、時には無責任ともいえる政治行動に走りそうになったとき、それを諫める立場としての保守の存在は必要ですらあるだろう。最も、理想を言えば、その目的に反対することも少なくない立場からの保守の否定的批判ではなく、進歩派に属する人の中に理念を志向しつつ厳しい実態にも的確な目を向けた肯定的批判が出ることのほうが望ましいのだが。
 そうした保守の役割の必要性を認めるにしても、鳩山邦夫氏の存在は、懸念をもたざるをえない。彼は、進歩派が妥当な決断を下した場合でも、多くの問題で対立的言動をなすに違いない。行き過ぎをチェックするどころか、必要な歩みを止める負の働きをなす恐れが多分に存すると言わざるを得ない。

 一方、赤松氏の場合は、どうか。
 確かに、旧社会党の左派には多くの問題があった。旧ソ連や中国に盲従する姿勢、労組への過度の依存と市民への冷遇、例えば教育の世界にもみられた教条的な観念主義、反安保と反米の癒着、革命主義のドグマ等々、批判されるべき点は多い。
 そうした左翼的偏向と訣別することは結構だが、それが、わたしの言う「体制」を容認することや、高齢化社会と国家財政の危機という状況において弱者切り捨ての経済政策・税制改革の実施を容認することなどを正当化するものであってはなるまい。
 また同氏が憎悪すら感じていると思われる左翼の論理と言語についても、その全てが切り捨てられて然るべきというわけではない。
 早い話が搾取の事実は、雇用のあるところ個人商店のごとき弱小経営の中にすら日常的にみることができる。左翼の大企業批判はその革命思想ゆえに全否定・徹底破壊を志向していたと思える節があるが、それは誤った判断だったとしても、官僚との癒着の中で大企業が優遇されている事実は、税制の直間比率の見直しという名目の内にますます顕著に反映しつつある。その間接税の増大は、高所得層に利益をもたらし、低所得層に損害を与えて、貧富の差を拡大しつつある。特に年収300万円以下の所得層は、福祉政策の切り詰めという追い打ちもかけられて、生活苦は深刻化してくるであろう。
 「資本主義」の矛盾と悪弊は、社会主義の崩壊後、さらに顕著になってきていると言わざるを得ない。社会主義の崩壊の事実は、「資本主義」には、社会主義によって糾弾された矛盾や悪弊が、元々なかったということを証すものではないし、それは既に超克し得たということを意味するものでもない。
 こうした点をふまえれば、「民主リベラル」の旗を振る赤松氏の反共・反左翼にみられる嫌悪と憎悪の情の赴くところに懸念を抱かざるを得ない。
 「民主リベラル」とは、当然、「独裁・全体主義」に対する明確な否定の上に屹立しているには違いないわけで、そこにこんにちの政治状況の中で存在意義と価値を証すものとなっているのだが、しかし、社会主義や左翼の営みのうちこんにちもなお、有効性を失わないと思われる幾つかの論理と言語までその忌わしい言葉の内に閉じ込めて、嫌悪と憎悪を募らせるというのは、「民主リベラル」の真の名に値しないのではないか。
 真の「民主リベラル」とは、「独裁・全体主義」に対する「自由」を堅持しつつ、〈正義や公平〉の実現を志向する中で、社会主義・左翼の論理と言語にも真摯に耳を傾ける「自由」をも同時に有するものでなければなるまい。
 尤も、「民主リベラル」をこのように定義すると、現実の「民主党」の人々に、赤松氏に限らず、どれだけそれに該当する人がいるのか些か疑念を抱かざるを得ないし、彼らの場合、そもそも、拠って立つ価値観なり基盤なりが、この社会の中で優遇の位置にある者たちのそれであって、その意味で、〈正義や公平〉の実現にあたって出発点から問題を抱えている面が小さくないと思われるのだが。
 しかし、「民主党」の本質にそのような側面があるとすれば、なおのこと、〈正義や公平〉の実現に向けて適切な行動を取るべく、賢明な論理と言語を発する者が不可欠であろう。
 そこでは、「資本主義」体制を構造的に認識し、考察してきたはずの赤松氏ら、旧社会党の人々の役割は大きいと言わなければならない。
 赤松氏の現状をみるかぎり、そうした賢明な働きは到底期待し得ない。それどころか、「民主党」の良質の部分まで、己の自我体験からの嫌悪と憎悪によって濁らせてしまう恐れすらあるだろう。その同氏が今回の選挙で候補者の人選に多大な影響力を行使しているというが、それは、同党にとって、危険な賭けになるに違いない。
 尤も、鳩山氏らに、赤松氏のそうした傾向を承知の上でむしろそれゆえにこそ赤松氏に期待しているところがあるとすれば、同党の「民主リベラル」路線の限界も、低次元で示すことにならざるを得まい。
 現実政治状況を前提にした次元での些かの期待を含みつつ、同党への批判的注視は、今後も続けていかなければならないだろう。

                                                   了



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