「社説時評」
――――「改憲の必要性を説く前に為すべき論議

                                   津吹 純平





 4月5日付の読売新聞社説で、憲法論議をすすめる主張がなされた。
 読売新聞社が行なった世論調査によると、憲法に国としての「自衛権」を明記した方がよいとする人が70%を超えており、国際的平和活動への自衛隊の協力なども憲法に明記する必要があると回答する人が70%前後もおり、それは世界的な流れに沿った常識的な判断だと書いた上で、〈ところが、こうした個別の問題について意見を聞く前に、一般論の形で「憲法を改正すべきかどうか」と聞くと、明確な改正派はこれほど高い数字にはならない。憲法改正問題がタブー視されてきた戦後日本のムードが、感覚的なレベルでは、まだ惰性として残っているということだろう。〉と、改憲を主張する読売社説として、その声の高まりがいまひとつであることを嘆く。

 が、そのあとで、〈ただし、それでも改正派は、四年連続して、反対派を上回っている。十年前の八六年調査では改正派はわずか二三%、反対派が五七%と過半数を大きく超えていたのに比べると、憲法をめぐる国民世論の構造は、すっかり様変わりした。〉と総括したあと、〈国政の舞台では、依然として、憲法改正問題は、ハレものに触るようにして扱われている。〉と苛立ちを示し、〈政治は、憲法問題をめぐるこうした現実を深刻に反省し、政治本来の責任と役割を取り戻してもらいたい。〉と、憲法論議、それも、読売社説の立場からは改憲へのステップを踏み出すことを求めている。

 もとより、憲法と言えども、絶対不可侵のものではない。現実の社会状況や人間精神に適わなくなったら、変えることも考えるべきだ。そして、戦後50年も経過しているこんにち、見直すべき点が出てきても不思議ではない。憲法論議は、いつ行なわれてもよいのである。

 だが、読売社説の主張には、二つの点で、同意できない。そこには明らかに欺瞞と独善が存する。
 その欺瞞とは、憲法論議の必要性を、50年前の施行と現在の国民感情という事実に根拠を求めている事である。
 如何にも民主主義の良識を示す立場でものを言っているようだが、これは、本心ではあるまい。あくまで、国民の現在の意識が読売社説の主張に近いものになっているという現実ゆえの主張であろう。
 仮に、憲法が読売社説の主張を反映したものであった場合、同じように、改憲を求める国民意識が大半となったとしても、読売社説は、決して、憲法論議の必要を訴えはしないだろう。「国民意識の〈時の動向〉に左右されるべきではない」ぐらいの事は言うのではないか。
 民主主義の良識という観点から論じているようでいて、実は己のイデオロギーを敷衍するためのレトリックなのである。読売社説のこの欺瞞は、彼らの改憲の主張が、民主主義を軽視している点と見事に符合していると言えよう。

 もう一つ、読売社説の主張は、独善的な点でも問題だ。
 自衛隊や国際協力などの問題で、改憲を求めることを世界的な常識だとして主張しているが、これは、現憲法では対応でき得ないという認識にもとづくものである。先の橋本・クリントン両首脳による会談の日米合意を受けて、日米安保や有事体制といった問題に対処するには、現憲法では限界があり、改憲が必要であるというわけだ。
 確かに、彼らのイデオロギーにもとづく外交政策を志向するかぎり、現憲法は大きな限界を有する。
 ここで言う彼らのイデオロギーとは、たとえば、湾岸戦争などの場合、日本の自衛隊も、多国籍軍の一員として、イラク攻撃に参加したり、PKO活動も、他の国と同じように、PKFとしての活動まで踏み込んで行なうべきだとするものであり、また、朝鮮半島は日本の死活問題といった認識の下に、集団自衛権の発動を可能とする有事体制の確立を求めるといった内容を指す。

 これらは、言うまでもなく、戦後日本においては、保守政権によっても、憲法上、許されないと判断されてきた事である。
 憲法論議とは、結局、この言わばタブーとされてきた事を憲法に盛り込み合法化させようとの改憲論議の意にほかならない。
 現実に適わなくなった現憲法を世界の常識に合わせて変え、効力あるものにしようというわけである。
 ところで、戦後長い間、憲法論議自体をタブーとしてきたのは事実である。左翼・革新勢力は、憲法論議それ自体を阻止することに力を注いだ。それは、憲法論議が、先に指摘したように、ほとんど改憲論議の意にほかならなかったため、それ自体が政治的な闘争と捉えられたことによる。
 だが、この対抗手段は、政治的・戦略的には有効であるかもしれないが、民主主義の観点から言えば、やはり問題となろう。己の政策に反するものは、論議そのものを拒否するという実力行使によってでも、抑止するというのは、〈手続き〉を重視する民主主義の観点から言って不当な行為だと言わざるを得ない。
 この事は、読売社説が、国民の合意を引き合いに出し、民主主義の観点から憲法論議の必要を説くといった論法を欺瞞的に用いていることを批判する者として、同時に、看過し得ない問題である。
 それを前提にした上で指摘するのだが、つまり、決して読売の憲法論議の必要性の主張を、改憲論議の意であるがゆえに、拒否しようとするわけではないのだが、読売社説の説く憲法論議の前に、為さねばならない論議があるのである。

 それは、改憲派によってこんにちの時代状況に対応し得ないと断定されている現憲法の有効性を一度きちんと検証してみるということである。
 ただし、この意味は、改憲派によって志向されている諸立場―――自衛隊のPKFへの参加や集団的自衛権の発動も含む有事体制の確立―――を前提にした検証を意味するのではない。
 現憲法では現実に対応できないと言うが、そもそも、現憲法によっては不可能な行動を為すべきなのかという問題こそ、真っ先に考えなければならないはずだ。国際的な役割といい、日米友好関係の継続といい、現実政治の場と保守派論客によって志向されている道だけが唯一の方法なのか、検証すべきである。
 本当に、現憲法では、国際的な役割を果たすことができず孤立してしまうのか、日米関係を悪化させてしまうのか、具体的且つ緻密に考察と論議を重ねるべきである。
 考えてみるまでもなく、戦後日本の政治は現憲法の下で諸政策が営まれてきたとは言え、実は、その平和主義でさえ、現憲法で成し得る最高の道筋を歩んできたとは言い難い。改憲を党是とする自民党政権は、現憲法の理念と条文を最大限に尊重してその具現化に努めてきたわけではなかった。それどころか、いわゆる〈解釈改憲〉の道をひたすら歩んできたのである。
 従って、実に奇妙な事だが、戦後日本においては、行動の最高の規範としての憲法は、その能力と限界を一度も試されたことがないのである。現憲法において成し得る究極の政策を実行した場合には、世界にどう評価されるのか、実は、まだ日本はその体験を果たしていない。たとえば、ごく一例だが、戦争難民を救済するために、また戦争によって破壊された都市や町村の戦後復興を援助するために、毎年、防衛費とほぼ同額の資金拠出を行なったり、非自衛隊の公的な人的援助を経済大国に見合った数だけ毎年送り続けたり、世界最高の水準にある技術援助なども、どこの国よりも積極的に展開したりといった現憲法の理念に即した諸政策を実行した場合、世界はどう日本を評価するのかについて、わたしたちはまだ体験していないのである。
 そうした実践はもちろん論議さえ果たしていないままに、憲法の限界を声高に叫んで、差し当たって直面した〈現実〉に対処する道を唯一のものとして猪突猛進しようとしているわけだが、果たしてそれは賢明な行動であろうか。

 わたしたちは、現憲法の能力と有効性について最終決断を下す前に、せめて一度は、真摯に且つ冷静に、考察し検証すべきではないか。50年も経ったと、読売社説は言うが、50年間も日本の平和を支えてきた現憲法だ。捨て去る決断の前に、改めて、その能力と有効性を追求すべきであろう。

 読売社説も、安易に己のイデオロギーに固執することを反省し、改憲の意をもつ憲法論議の前に、為すべき事があることを認めるべきである。

                                             了



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