「クリスチャンTさんへの手紙」

                        津吹 純平

 



 Tさん、はじめまして。
 コメント、ありがとうございました。
 わたしのことを、バイタリティーを持っている方と仰有ってくださっていますが、いわゆるエネルギッシュに、バリバリ動き回るというタイプでは、残念ながら、ないのですよね、わたしは。皆が動き回っている時にはじっと静止していたり、皆が我先にと走り回っている時にはあとからゆっくり歩いて行ったり、というように、まあ、「鈍行列車の人生」でしょうね。それが、却って、一つ一つの物事に、じっくりと交わる機会を、わたしに与えているのかもしれません。その結果、愛着を覚えるものが、長い歳月の間に、たくさん蓄積されてきたのでしょう。
 ただ、己が「誕生」し、「存在」し、「生きて」いるという不思議を思うゆえに、「他者」――この世における「森羅万象」――の「誕生」「存在」「生きている事」、全てに、関心が湧き起こるという事はありますよね。
 それに、一言でいって、「感動人間」なことも確かですね。人一倍、物事への「愛着心」も強いようです。(執着心のほうは、それほど強くないようですが)。
 Tさんは、バイタリティーがなくて落ち込んだこともおありになると仰有っていますが、別に「神様」を煩わせるまでもなく、落ち込む必要はないと思いますよ。(落ち込んだという経験を持っていることは素敵ですが)。
 わたしたち、ひとりひとりにとって、わたしの言う意味における「他者」への興味・関心を抱くことが大切であり、且つ、必要であるのは、あくまでも、それらと、理解と共感に裏打ちされた「愛」によって、結ばれてこそなのですよね。
 つまり、単に、「知識欲」を満たすために、という事であったり、そうではなくても、結果的に、「知る」ことにとどまったり、という事であったりするならば、さらには、己の見栄や地位や権力や名声などなどの為に利用する意図からの、という事であったりするのならば、いくら「他者」への興味・関心が旺盛であっても、全く意味をなさないと思うのです。
 ですから、あなたが、「落ち込んだ時」、いたずらに、あれこれ「首を突っ込んだり」「手を出したり」、為さらなかったのは、賢明だったと思いますよ。下手にそんな事をしたとしても、実のある体験は得られなかったのではないかと思います。「知識と体験」の「博物館」くらいは、建てられたかもしれませんが。
 けれども、Tさん、クリスチャンのあなたは、神様を、愛していらっしゃいますよねぇ。でしたら、その神様が創造された森羅万象をも、愛しいとお思いになっていらっしゃるでしょう? そこに、あなたにとっての、「他者」への興味と関心を呼び覚ます道が、開けてあるのではないかしらん? あなたの仰有る「神の示されることに関心を持てばいい」という事が、そういう意味であれば、よろしいのではないでしょうか……。
 ただ、その際、エゴにもとづく自意識のなせる「罠」に嵌らないよう、充分に気をつけなければならないと、思いますけれども。

 その「罠」とは、「私は、神様を、愛している。神様は、Yを創造された。〈だから〉、私は、Yを愛する」という論理における〈だから〉という点です。換言すれば、「私は、Yを愛している。〈なぜならば〉、Yは、私が愛している神様によって創造されたもの、〈だから〉、である」という論理における〈なぜならば、〜だから〉、という点です。

 もちろん、創造主としての神を信じている立場においては、この世に存在する万物の価値の根拠を、神の被造物であることにおくのは、当然でしょう。
 例えば、狭義の意味における近代ヒューマニズム・民主主義思想では、「Aは私を、尊重すべきだ。なぜなら、私も、Aを、尊重しているからだ」として、己の価値の根拠を〈自己の絶対性〉を根源とした〈人格の同一性〉に求めるところを、キリスト者は、「Aは、私を、尊重すべきだ。なぜなら、私は、神の被造物だからだ」として、己の価値の根拠を、己自身の〈絶対性〉には求めずに、万物の創造主である神の〈絶対性〉に求める」――なんびとも、神に優る価値を有してはいないのだから、その神の被造物を愚弄することも、誰一人、許され得ない――というわけでしょうけれども、わたしは、それを、信仰を持つ者の誤謬だとは、考えません。神を信じる人にとっては、ごく、当然な論理認識であると、思っています。

 つまり、わたしは、決して、「キリスト教の教義のもつ論理」それ自体に、「罠」を見つけているわけではないのですよね。あくまでも、〈人間自身の精神〉の営まれ方――キリスト者の言葉で言えば、「神から離れた」〈人間自身のエゴ意識〉の働き方――の中に見つけている「罠」なのですよ。

 その点を、くれぐれも誤解なさらないようにお願いして、さきほどの話に戻れば、「神への愛。Yは、神の被造物。〈だから〉Yへの愛」という論理における〈だから〉は、人間の意識の中で、「強く」働く場合、どうしても、〈Yそのもの〉への「愛」よりも、「神への愛」のほうが強く働くことを、表わしてしまうでしょう。
 この点も、もちろん、わたしは、被造物としての「Yへの愛」と、創造主である「神への愛」とを、並列して比べた時に、信仰を持つ人が、「神への愛」を第一義におく事自体を、問題ありとしているわけではないのですよ。
 しかし、その逆に、たとえ、「被造物への愛」を第一義におき、人間社会において、そのYにたいする純粋な愛の行為を実践することをもって、「神への愛」の証と考えるクリスチャンを、否定しているわけでもありませんけれども。
 とにかく、ここで問題にしているのは、あくまでも、「Yへの愛」を働きかけようとしていながら、「Yその人自身」を、純粋に愛する魂に満たされるのではなく、「神への愛」を証したいという意識のほうが勝ってしまっている、という場合なのです。例えば、Yがどんな事に喜び、どんな事に悲しみを感ずる人か、魂の傷つきやすさはどの程度か、今、どんな悩みを抱えているかといったような事にはほとんど関心を抱かずに、ただただ、クリスチャンとして、「神への愛と信仰」の証を打ち立てたい、その一心で、Yを、一生懸命、愛そうと努めているような場合です。

 残念ながら、これでは、Yは、「目的」ではなく、「手段」となってしまっています。或いは、「神への愛」の証を意味する、単なる「記号」に過ぎなくなってしまっています。
 如何にクリスチャンにとって、「神への愛と信仰」の証が大切だとしても、そして、たしかにそれ自体、純粋でひたむきな心情から発している――それは、しばしば、非キリスト者のわたしなどにも、深い感銘を与えてくれているのです――としても、「Yへの愛」という点において、厳密な言い方をすれば、「偽善」の「罠」に嵌ってしまっていると言えましょう。
 尤も、「神への愛と信仰」、〈だから〉、という意識の営みを、そこまで強くもたない場合も当然、有るでしょう。「偽善」と呼ぶには、些か、気の毒な意識の営みもあるでしょう。
 しかし、それでも、Yへの働きかけが、「神への愛」「被造物としてのA」、〈だから〉、「Yへの愛」という論理・観念に動かされている限り、少なくとも「愛」という「魂」をもって、「愛して」いるという「神に生かされた」人間の精神の営みにはならず、「神から離れた」人間の、自己自身の「観念」に束縛され、閉じ込められた空しい精神の営みという「罠」からは、脱出し得ないでしょう。

 ただし、この、〈だから〉、という論理に突き動かされる際の「偽善」と「観念主義」の「罠」は、至極当然の事ながら、クリスチャンに限って陥る、というわけではないのですよ。例えば、マルキストの言う、「人民解放」なり「プロレタリアートの解放」なりだって、実は、「人民そのもの」への「愛」ゆえに、と言うよりも、「マルクス主義」への「忠誠」意識から、さらに悪い場合には、単に、「組織」への「忠誠心」から、叫んでいる場合もあるのです。また、公平を期するために書き添えれば、わたしのように、「人間の尊厳」をテーゼにしている者でも、その成就を求める過程において、自己実現の観念や意識に突き動かされて、他者そのものへの関心や愛しさが希薄になってしまえば、やはり「偽善」と「観念主義」の「罠」に陥る結果になります。
 つまり、わたしが問題にしているのは、クリスチャンだけに限らない、恐らく全ての人間に共通な、人間特有の「精神活動」の「からくり」がもたらす「罠」なのです。

 ところで、わが敬愛するイエスは、その「偽善」や「観念主義」から、全く「自由」に、「他者そのもの」を、「愛」することができた人でした。もちろん、イエスは、絶えず神と言葉を交わしていたでしょうし、被造物の「価値の根拠」を、「神との関係」において捉えていたでしょう。しかし、わたしには、〈だから〉という論理観念に突き動かされているイエスは、見当たらないのです。イエスが、「イザヤ書」などの預言を意識していたことは、聖書に明らかであると思われますが、その場合でも、「他者」を「愛」する位相に、それが弊害となって現れるということは皆無であったと思います。
 あの、ルカ書第7章第36節の「パリサイ派の人、イエスを食事に招きしが、イエスその家に入りて食卓につき給いし時、町に住む罪を犯せしひとりの女、香油もりたる器を持ち来たり、……涙にてその御足を次第に濡らし」という話。「多く愛される者は、多く許される」「あなたの罪は許される」というイエスの言葉。世間の男からさえ――男達はその肉体を弄ぶくせに――忌み嫌われる娼婦の深い悲しみとイエス・神への切実な願いを、痛切に感じ取り、その魂の汚れなきを信じるイエス。
 わたしは、そこに、「他者」の「実存そのもの」に立ち向かう純粋な「愛」を、見るのです。
 もう一つ、マタイ書第18章第12節の「迷える1匹の羊の話」。99匹を捨てて1匹を助けるという現実的には全く不合理な話ですが、もちろん、「カイザルのものはカイザルに」と言ったイエスが、そんな不合理を社会的存在に過ぎない私たちに要求しているわけはないでしょう。ここでも、わたしは、「愛」とは、「他者」の「実存そのもの」に関わり合うことである、というイエスの「愛」を、見るのです。
 この話は、まず、「愛」に、損得勘定といった「打算」を持ち込むことの「不純」を、私たちに教えてくれますけれども、それは同時に、「打算」的感情・意識をそのように消滅せしめるほどまでにも、深くて熱い「愛」の存在を、示唆してくれてもいるわけですよね。然も、その「愛」は、ある特定の「個」に向けられている――もちろん、その「個」はいつも同一な「個」ではありませんが――わけですよね。
 そこで、それほどまでの「愛」の、成立し得る条件を考えてみますと、まず、allではなく、everyの意識の存在が必要でしょうね。つまり、いくら「1匹の羊であるY」を「愛」するといっても、all=全て、に還元されるその構成要素としての「個」、すなわち「数多の集合体の中の1匹=全体の中の1匹」という意識の持ち方では、「愛」の成就にとっては不十分だということですよね。むろん、客観的現実的合理性から言えば、たとえ、「愛」の位相においても、「個」の「相対性」を無視することはできないでしょうけれど、だからと言って、実際に「羊Y」を「愛」するときに、「羊Yは、数ある己が愛するものの中の一つだ」という意識が働いてあったとしたら、どうでしょう。
 やはり、純粋なる「愛」の姿とは言えないのではないかしらん? 仮に、わたしが、Aという人を「愛」する場合、「Aは、我が愛するものの一つ、愛するものは、他にもたくさんある」という論理・意識=理性を根底に宿していることは、また絶対に必要であるにしても、今、この瞬間、「A」と出会い、関わり合っている「この時」においては、わたしは、「A」を、他に掛け替えのない「唯一の存在」として「感じ」、愛するべきでしょう。
 ちょうど、今、こうしてあなたへのメッセージを書き綴っているように。ほんとうに、今、わたしは、〈複数の人にいくつものメッセージを送るうちの一つ〉という意識をもって書き綴っているのではありませんよ。わたしごとき者にも、ときおり、そんな「幸福」が訪れるのです。
 ところで、「A」を、「唯一、掛け替えのない存在」として、「捉え」れば、それでよいかと言えば、やはり、それだけでは済まないでしょう。もし、そこに「神の被造物」、〈だから〉という論理観念が働いているなら、結局、冒頭で述べた、人間特有の「偽善」と「観念主義」の「罠」に、再び陥ってしまうことになります。そこでは、「唯一、掛け替えのない存在」というのも、単に、「神の被造物」を説明する、「観念知」に過ぎなくなってしまうわけですからね。

 話を「迷える1匹の羊の話」に戻せば、あの1匹の羊は、「唯一、掛け替えのない存在」であるとしても、単に、「認識=知識化」されたのではなく、あくまでも、「唯一、掛け替えのない存在」であると、「実感」されたのです。
 尤も、ここで言う「実感」とは、単に、感覚や感情の営みだけを指すのではなく、いわば、「全身全霊」をもって「感受」するという、「実存」の位相における営みを指しているのですけれど。
 換言すれば、1匹の羊Y「そのもの」=Yの「実体」との出会い、交わりがあったればこそ、損得勘定の「打算」意識を消滅させ得るほどの純粋にして異なる「愛」が成立したのです。
 つまり、イエスは、「真の愛」とは、「無償」であり、「唯一性=集中性」であり、「直接的」であり、「具体的」であり、「全面的」である――、そのような魂の営みの中にこそ存在するのだという事を、私たちに教えてくださっているのではないでしょうか。
 むろん、イエスは、人に、「神への愛と信仰」を説いていますし、何度も申し上げるように、「個の価値を、神の被造物ゆえに認む」や、「神への愛と信仰、〈だから=ゆえに〉、神の被造物への愛」といった「ロゴス」それ自体を、人格化していたでありましょう。しかし、と同時に、イエスは、「ロゴス」それ自体を人が目的化するとき、人間の精神にどのような「罠」が生じるかをも、見据えていた人でした。そして、イエスは、人が、「ロゴス」によって生きるとは、ほんらいどういう事かを、身をもって、示されたのでした。

 その「真の愛」の、至上の実践が、あの「十字架」の出来事なのでした。

 Tさん、私たちには、あのイエスの為された「愛」を、成し得ることは到底不可能でありますけれど、己の魂に「真の愛」が生まれるようにと心から祈ると共に、自らも、せめて「真の愛」の妨げになるが如き人間精神のエゴの「からくり」――「偽善」と「観念主義」という「罠」には嵌らないよう、自己洞察に努めようではありませんか。

 そうして、Tさん――、あなたが、ひたむきな「神への愛と信仰」を貫きながら、その「神を通して」=「神に示されて」、出会った「他者」を、イエスも教えてくださっているように、その「他者そのもの」との「実存的」な「交わり」を成就し、心から慈しむことができれば、次には、その「他者を通して」、新たなる「他者」と「出会う」ことになるはずでありましょう。
 蓋し、「愛」は、ここでも、人の心を開き、「他者」への関心を呼び覚まし、「慈しみ」と「感謝」の心を育むでしょう。

 あなたの、「神への愛と信仰」が、「他者」の存在にたいする、無償の感動と関心を呼び覚まして下さいますように………
                                       八ヶ岳高原にて



「湧水緑陰の記」 「八ヶ岳高原だより」