<マスコミ・ジャーナリズム論>
日本人の思考の陥穽 Part 2
「<差別と偏見キャンペーン>の前になすべき言論と報道」

津吹 純平




 昨日(12日)、NHKの「クローズアップ現代」を見た。この番組はキャスターの国谷裕子さんの魅力もあり、私の定番の一つだ。
 昨夜は、エイズ治療の問題を取り上げていた。エイズ患者の治療を断る病院がかなりあり、また治療を受け入れる病院でもエイズ患者の心を傷付ける対応をするところが多いという実情をリポートしていた。
 その中で、福岡市の開業医を紹介し、ある地区の医師会が全面的にエイズ治療に取り組むことになったと報じていた。
 政治的には保守的とみられるNHKが、差別と偏見という社会悪に対して、明確な批判の立場を取っているのは評価できる。
 実際、医療の専門家集団とも思えぬ無知ゆえの理不尽な対応があるようだ。専門家の無知は、職業的怠慢の一言では片付けられない事であり、積極的な学習と研究が求められよう。
 番組でも指摘していたが、医療機関の誤った対応は、エイズに関する世間の偏見を助長させてしまう。その結果、病院の経営の危機をもたらすことにたいする危惧からエイズ患者を締め出してしまうという悪循環が生じることになる。
 医療機関はその悪循環を断つ努力を専門家としての権威にかけても行なうべきである。

 ただ、エイズの問題は、差別と偏見という社会悪に反対のキャンペーンを展開するだけでは済まない問題であることも確かだ。
 マスコミや有識者たちは、エイズを差別と偏見の問題として論じることに積極的だ。というより、エイズ問題の核心を差別と偏見にみているようだ。確かに、番組の事例をみるまでもなく、差別と偏見が存してあろう。この日本の社会には、身体の不自由な人たちに対する差別と偏見、朝鮮人にたいする差別と偏見など、決して例外とは言えない問題を抱えている。
 差別と偏見は確かに存するであろう。
 だが、エイズに関して、差別と偏見の側に立つ圧倒的多数の強者と、差別と偏見を受ける少数の弱者と二分する構図は、些か問題がありやしないか。
 わたしはペンションを営んでいるが、現実にエイズ感染者やエイズ患者からの宿泊の申し込みがあった場合には、他のお客様の命をお預かりしている立場にある者としては、申し訳なく思い、また残念にも思うが、現状では、お断りせざるを得ないと考えている。
 そんなわたしは差別主義者ということになるのだろうか。もちろん、それはわたしにとってひどく心外な話だ。創刊の辞でも述べているとおり、愛とヒューマニズムに悖る体制に抗して闘ってきているわたしは、当然、エイズ問題においても、差別や偏見の事実にたいしては、被差別者・被偏見者の側に立つことを自らに課すべきだし、そうしたい。
 だが、エイズ問題は、そうした理屈や感情意志の位相では片づかない側面をもつ。ここでは知が問題なのだ。事実こそが何より重要なのである。
 いったい、エイズ感染者や患者ではない一般の人々は、エイズに感染しないために、どう自己防衛すべきか。どう対処すれば、〈絶対〉にエイズに感染することなく、エイズ感染者や患者と付き合うことができるのか。
 残念ながら、わたしが今まで聞いてきたかぎりでは、納得のいく説明は得られていない。
 エイズ感染者や患者にたいする差別と偏見と闘っている人たちは、その病気への不安をなくそうと意図するあまり、客観的に得心のいく説明をしなさ過ぎる。いつかも、こども電話相談室というラジオ番組に出た専門家が語った内容はあまりにもお粗末だった。人々の生活の様々な局面を想定した上での発言とは思えない安直なものだった。まるで風邪の予防について語っているかのようだった。
 こんな無責任な話をして、万が一、それを信じて、エイズにたいする防御を軽くみたこどもたちに感染者が出た場合、彼女はどう責任を取るつもりだろうと、聞いていて腹が立ったものだ。
 事が事なので、恥ずかしさを堪えて言うが、キスではエイズは感染しないというが、例えば、舌を絡ませるような激しいキスはどうか。虫歯がある口内に、同じように虫歯のあるエイズ患者の舌が差し込まれた場合、絶対に安全だと断言できるのか。また、風呂は安全だというが、たとえばエイズ患者が痔を患っており、肛門から微量の出血がある場合、洗い場で傷のある膝をついて洗髪している人が感染する危険は皆無なのか。電車の吊革も心配ないといわれるが、たまたま掌に切り傷をつくってしまった人が感染することは絶対にないと保証できるのか、などなど。
 要するに、性交渉以外に感染する危険は皆無だと断言できるのか、という疑念を抱かざるを得ないのである。
 これは番組で言っていたことだが、たとえばエイズ患者に使用した注射針を誤って使用した場合に感染する確率は0.5%だという。これはB型肝炎の感染率より低いのだと強調され、そのB型肝炎の場合は診療を拒否しないのに、なぜそれよりも危険率の低いエイズの場合には拒否するのかと、それは差別と偏見を示すこととして説明されていた。確かに、それは医療関係者の対応の不合理性を物語る事例ではあろうが、しかし、0.5%の感染率を、それを理由に診療を拒否するのはおかしいという論脈としてコメントしたのは、納得できる話ではない。
 絶対にエイズに感染したくないと考えている者にとって、0.5%の感染率は決して小さな確率ではないのである。200回のうち1回は感染するというのだから、これは、遠ざけたい危険だと考える人が多いのではないか。しかも、その1回に当たってしまった場合、一生が台無しになってしまう。コレラや結核などの通常の伝染病の場合には、発達したこんにちの医学によって、完治する可能性が大であるが、エイズの場合には、白血病や末期ガンの宣告を受けるに等しいのである。
 また、この感染の危険率もさることながら、そもそも感染経路自体がまだ全面的に解明されていないという問題も存する。今年、日本で開かれたエイズの国際学会で発表報告された事例だが、エイズの感染経路が不明な症例があったというのだ。
 これは直ちに、今現在、安全だとされている様々な局面の信憑性が否定されることを意味するわけではないが、とにかく、どういう経路で感染したか全く不明だというのであるから、今現在、安全だと考えられている局面が、実は感染源である可能性が皆無だとも言えないわけである。
 これがエイズ感染の危険性・安全性についてのこんにちただいまの客観的で確かな事実である。
 つまり、エイズ感染者やエイズ患者から我が身を遠ざけようとする意識を、すべて差別と偏見の証と断じるのは、少々酷ではないか。それこそ、偏見ではないか。

 もちろん、繰り返すが、日本の社会には差別や偏見は確かに存在する。エイズ感染者やエイズ患者にたいしても人権やヒューマニズムの観点から言って理不尽な差別と偏見が存することも否めない事実であろう。
 エイズ問題は、まさしく、差別と偏見の問題でもある。
 だが、それと同時に、エイズ問題は、現在健康に生きて暮らしている人々を、どうやってエイズから守るかという問題でもあるはずだ。
 癌や成人病に関しては、その食事から生活スタイルに至るまであらゆる防御策を報じているのに、エイズに関しては、安直に安全を強調する無責任な対応に終始している。これは、やはり歪んだ意識と言わざるを得まい。
 薬害エイズ患者ではないが、本人には全く落ち度も責任もないのに、他人の不注意や愚行によって感染させられる事があれば、それこそ迷惑千万だ。
 実際、善意でエイズ患者に接した人が、第二の薬害エイズ患者のような不条理に見舞われる危険はないのか。
 差別と偏見の問題としてエイズ問題を捉える人々は、今こそ、真摯に、エイズからの防御について発言すべきである。
 エイズの感染率の減少の実現、感染経路の徹底究明を果たすべきである。わたしたちの命と健康を、エイズから〈絶対に〉守るという位相において、安直な安全宣言ではなく、あくまでも具体的な行動形態に即して、何ができるのか、何をしてはならないのかについて、明確に語るべきである。
 その視点を欠落させて、エイズ問題を差別と偏見の問題に限定してしまうことは、有識者やマスコミにとっては如何にも弱者の立場に立った正義の闘いに尽力している心地よさに浸れることであろうが、しかし、逆に、魔女狩りのムードをつくり、それこそもう一つの人権問題を生ましめかねないと言わざるを得ない。
 エイズ感染者やエイズ患者との〈真の共生〉のためにも、いたずらに差別と偏見の構図に固執することは避けるべきである。差別と偏見を声高に叫んで殊更対立関係を深める前に、どうしたら己の身を〈絶対に〉守れるのか分からずにいる無防備な弱者の不安を、今すぐ取り除くことに尽力を傾けるべきである。
 実際、そうした問題意識こそ、エイズ感染者やエイズ患者との交流を自然な形で成立させる最善の道なのではないか。
                                             了



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