第2週  


1月2日(日)   「アホという言葉」

 作家で尼僧の瀬戸内寂聴さん、弁護士の中坊公平さん、建築家の安藤忠雄さんの鼎談の中での中坊さんの話。

 森永ヒ素ミルク事件の時、被害者たちは、みな森永への恨みや怒りを語らず、自分がわが子に済まないことをしたと、自分を責めていたという。

 これは、持論の「責任要因」と「構成要因」の典型的な例だ。
やはり、この観念の陥穽が、人を、現実に苦しめている。この場合には、論理以前の問題として、肉親の情愛がそうさせるという同情すべき事実があるわけだが、しかし、そのように人を追いつめる陰湿な意識・観念が日本の世間にはまだ根強く存していることを見逃してはならない。

 また、同じ事件だったか、水俣病の事だったか、被害者の少年が生涯に三つの言葉を覚えたという。おかあ、まんま、そして、アホ。
母親は生きていく術として、おかあとまんまは教えたが、この子に向かって唯の一度もアホとは言ったことがないという。

 その少年は、外に遊びに出た時に、世間の人から言われたことを覚えたのだという。そして、彼は、外では決して泣かなかったという。それをみて、世間の人々は、どんなに馬鹿にしても、いじめても、泣いたり、怒ったりしないその少年を、なおアホと罵声を浴びせたとか。

 ところが、彼は、家に帰り、おかあさんの膝に顔を埋めて、声を上げて泣いたそうだ。

 世間の非人間的で冷酷な仕打ちの意味を理解し、傷つき、しかし人間の尊厳をもってそれに耐え、母の愛情に救いと慰めを求めたという事実に、中坊さんの頬を伝わる一筋の涙を見ながら、私も、胸が締め付けられた。



1月3日(月)   「初めてのおつかい――汚れなき幼子たち」

 やはり、子どもは可愛い。「初めてのおつかい」のスペシャル。5歳と2歳の姉妹。4歳の女の子2人と4歳の男の子1人、などなど、登場したどの子もみな、純で、けなげで。それでいて、根気も、我慢強さも、責任感も、幼い年齢とは思えないほどだ。

 最後に登場した5歳の男の子。腫瘍の手術をする母親に同行して病院まで行ったあと、ひとりで祖父母の待つ自宅に帰るというものだが、病院についたとき、母親に、「いっしょに行ってあげようか」と言い、別れ際、「お大事に」と言い、「おかあさんは、ひとりでかわいそう」と呟いて、健気なところをみせる。
 が、すぐその後で、「ひとりで帰れるわけなんかないじゃんかー」と叫んで、不安の色をみせる。
 でも、「おかあさんはひとりなんだから、やるっきゃない」と、自分を励まし、勇気を奮い立たせる。

 そして、母親と約束したバスには乗らずに、いつも祖父母の車に乗って往来する酒匂川の大橋を渡る4キロの道のりを、歩いて、2時間かけて、帰る。途中、夜のお弁当を買いに立ち寄った大きなスーパーで、商品の棚に囲まれて涙ぐむ。
 が、しゃがんでポシェットからハンカチを出して涙をふき、勇気を出して、店員さんに、「お弁当はどこ?」と聞き、好物のお弁当を買って、暗闇迫る中を、自宅に戻る。
 玄関で迎えた祖母の声を聞き、姿をみると、しゃくりあげて泣き出す。
 そして、暫くしてかかってきた母親の電話で、ご褒美のいちごのショートケーキを貰い、大きな口を開いて頬張り、2度、3度、と頷く。

 この子どもの純真さ。ひたむきさ。そして逞しさ。
優しくて、勇気ある男の子。いい。実に、いい。
感動で胸いっぱいになった。熱い涙が頬を伝わる……。

 それにしても、こういう汚れなき子どもたちを、戦争の犠牲者にしてはならない。絶対に、この子たちを不幸にしてはならない。
反戦平和の志を、私は、改めて、誓う。



1月4日(火)   「反戦平和論の思索の再開」

 反戦平和論の思索を再開する。

 日本が再び国際紛争に軍事的に関与し得る国家体制の確立に向けて動き出した今、客観的状勢如何によっては、現実に、参戦する可能性が生じてきたわけだが、それを阻止するための反戦平和の闘いが直面している諸課題の分析を考察する。

 二つのテーゼ。
平和の危機の実態・実体を的確には捉えていないこと。平和の砦を再構築する原理と論理・言語をまだ確立していないこと。

 戦争もやむなしとする容認論と、戦争は起きないとする安全論の分析。
コンセンサスの形成を志向することと、異論との対話を成立させる論理と言語の探求。

 これを、反体制論という位相で行うのではない。
あくまで、私自身、反戦平和の闘いに連なる者として、その成就を求めて、思索を展開すること!


81月5日(水)   「思考と神経症」

 このところ、思考が、神経症的になっている。
ひとつひとつの表現に対して、それがもつ論理や構造やイメージなどが実感されるまで、先に進めない。それも、1度だけでは不安で、2度、3度と繰り返してしまう。

 今回の場合、原因ははっきりしている。
睡眠不足。頭の中が澄み切っていない状態で思考するので、そういう事になる。思考の展開そのものは、その事によって中断されるという事態には今のところ至っていないので幸いだが、頭脳の負担、心理面での負担が大きい。

 睡眠は、きちんと取らなければいけない。
考え事。インターネット。雑事。そして猫。24時間では足りない毎日。寝るのも惜しい。

 しかし、やはり睡眠不足は、今の私には、こたえる。肉体の健康という面でも、支障をきたしかねない。

 自然治癒する可能性の全くないポリープを幾つか体内にかかえた身だ。大事に使わなければ。


1月6日(木)   「童謡」

 童謡を聴いている。由紀さおりさんと安田祥子さん姉妹が歌っているCD。「あの時、この歌」と題された全10巻のシリーズの第一集。どの歌、どの歌唱も素晴らしいが、特に、「花かげ〜花嫁人形〜絵日傘」と続けて歌われるのがいい。何度聴いても飽きがこない。いつも感動を新たにする。

 「十五夜お月さま ひとりぼち
 桜吹雪の 花かげに
 花嫁すがたの おねえさま
 くるまにゆられて ゆきました」(「花かげ」)

 「金らんどんすの 帯しめながら
 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ」(「花嫁人形」)

 「桜ひらひら 絵日傘に
 ちょうちょもひらひら きてとまる
 うばのお里は 花のみち
 すみれの花も たんぽぽも

 まわす絵日傘 花ふぶき
 ひばりもぴーちく きてあそぶ
 うばのお里は 春がすみ
 絵日傘くるくる 通りゃんせ」(「絵日傘」)


 どれも、実にシンプルな詩だ。それでいて、情景の美しさと、登場人物の繊細で純朴な心情が、とてもよく表現されている。

 由紀さおりさんと安田祥子さん姉妹の歌唱も、そうした歌のもつ魅力をあますところなく歌い上げている。何より、変に崩した歌い方でないのがいい。
 歌謡曲の歌手が童謡を歌うと、音程をはじめ音楽的な欠陥や、灰汁が出てしまって、原曲の情感が損なわれることが多いが、彼女たちの歌唱は、さすがに次元が違う。音楽性の高さは言うまでもなく、実に自然で、気品があって、愛情に満ち溢れている。本当に、心に染みわたる歌唱とは、こういうものを言うのだろう。

 それにしても、童謡を聴いていると、やはり、日本人の心の豊かさ・繊細さ・優しさを感じさせられ、今更ながら、日本人に生まれて良かったという感慨に浸る。


1月7日(金)   「反戦平和論のために」

 今日は、思索が順調に進んだ。
平和の危機の実体・実態についての考察。
私が認識し、訴えもしてきている平和の危機がどのような性格をもったものなのか。或いは、なぜ、平和の危機と言い得るのか。或いは、平和の危機とは、本当の事なのか。

 この疑問にこたえるべく思索を展開した。ダグラス・ラミスさんへの手紙を書く際に、熟考したことだが、改めて、省察を試みた。
今日はその骨格を整理することができた。

 平和の危機の実体・実態の解明は、まず二つの位相に分別される。
戦争体制成立の位相と戦争体制批判・平和の砦の位相。

 次に、戦争体制成立の位相は、三つの論点に分別される。
一つは、戦争容認の位相における実態。また一つは、戦争杞憂論・楽観論の位相における実態。そしてもう一つは、通俗的ニヒリズムの位相における実態。

 そのうち、第一の戦争容認の位相における実態は、三つの観点に分別される。法的問題と政治的問題と観念・感情・意識の問題だ。特に三つ目の精神的位相の問題は、さらに北朝鮮および朝鮮人の問題、過去の歴史の問題、戦争の合理化の問題、権益主義の問題、そして覇権主義の問題等を含む。

 一方、第二の戦争杞憂論・楽観論の位相における実態も、やはり三つの観点に分別される。戦争する主体の問題と、戦争の成立条件の問題と、経済発展と戦争の問題。特に二つ目の戦争の成立条件の問題は、さらに憲法の問題、マスコミ・国民意識・言論の自由などからなる世論の反対の問題、現代若者の問題、アジア諸国の問題、アメリカの問題、経済不況の問題等を含む。

 そして第三の通俗的ニヒリズムの位相における実態は、主に次の二つ観点に分別される。人類の歴史から戦争はなくならないという戦争宿命論の問題と、どうせ個人が反対しても、国民が反対しても、政治は変わらないという政治的無力感の問題。


 思考の階層を元に戻して、戦争体制批判・平和の砦の位相は、現実的位相と思想的位相の二つに分別される。

 前者の現実的位相は、主に憲法の問題、絶対平和主義の問題、マスコミの問題、教育の問題、政党や労働組合を中心とした革新勢力の問題に分別される。

 後者の思想的位相では、<平和の危機の実体・実態>の真相を明確に認識し得ていないという問題と、体制批判と平和の砦建設の論理と言語の構築をなし得ていないという問題に分別される。そのうち、前者の<平和の危機の実体・実態>の真相を明確に認識し得ていないという論点では、さらに三つの問題を含む。

 一つは、戦争体制側の実態の全容についての的確な認識の欠如。二つは、戦争体制側の力に対する正当な認識の欠如および過小評価。三つは、平和の砦側の力に対する過大評価およびその現実的無効性の認識の欠如。


 この分析にもとづいて、今後、自己検証を前提にした考察を行なう事と、考察の証を客観的な場において記録しておく事とに、時間と労力を費やしたい。


1月8日(土)   「自己検証」

 私のテーゼを自己検証することに対する二つの位相からの疑問。

 自己検証は、反戦平和の闘いを貫く上で、意志の弱さと力の弱さをもたらしはしないか? 反戦平和の闘いの急務であることを考えれば、自己検証などしている場合ではない。闘いの勝利のために、強く主張していくべきだ。闘いの勝利を志向することと矛盾するのではないか?

 自己検証は反戦平和の闘いの勝利にとって、必要な作業だ。もちろん、自己検証であるから、持論を修正する必要が生じる可能性をもっているが、それでも大意において持論を論証し得れば、その時点で、反戦平和の砦の建設に参与したことになる。
自己検証は、己の思索への迷いに発するものではなく、あくまでも、独断や教条主義を排し、真に弁証法的な認識を獲得するためのもの。
 また、他者との対話を成立させることで、むしろ他者の自主的な思考を促し得るだろう。時が迫っているからこそ、不毛な軋轢は避けなければならぬ。

 ならば、異論との対話と言いつつ、実際は、反戦平和の闘いの勝利という目的をもつことを前提にしている以上、欺瞞的なポーズではないか?

 己のテーゼを絶対正しいという前提で一方的に主張するのではない。
 たしかに、まだ己自身が真理と思い得る判断・結論を得ていない段階において、考察を展開する上で、いろいろな論点を突き合わせることは、文字通り、対話の成立を証す。
が、判断・結論を得た以降も、それを唯一絶対のものとして固定的な視座に身を置いて、他者を一方的に批判し、糾弾し、裁くのではなく、己の認識も思考も精神も魂も、絶えず動き、発展しつつあるものとして捉える視座から、自己検証し、改めて真理を追求すること、その際、異論との突き合わせを真摯に行うこともまた、対話の成立を証す。

 私は、自己検証を前提にした思索を続けるべきだ。


 

「八ヶ岳高原だより」