第5週  

1月25日(火)   「京都と愛国心」

近年、京都が、急速に古都の趣を喪失しつつあるとは、いろいろな人々から聞かされている。
あの嵐山の渡月橋の辺りもひどいという。せっかくの寺社仏閣の前に、高層ビルが建ってしまい、風景が台無しになっているとか。

こういう日本のどこの都市にもあるような風景が作られていってしまえば、日本のふるさととも言われてきた京都の真価が失われてしまう。
一部の開発業者には莫大な利益が転がり込むのだろうが、京都府民全体の、長期的な利益に合致するのか。
ある著名人も、以前は外国からの来客には、必ず京都を案内されたそうだが、最近は、止めているという。こうして外国の人たちを失望させ、日本人自体も訪れる旅人が減少していけば、経済活動による利益を相殺させる以上の悪影響が出るのではないか?

それにしても、不思議なのは、京都に限らず、日本全体で、経済発展のためと称して――単刀直入に言えば、金儲けだろう――良き伝統、美しき伝統を破壊してきたわけだが、それを推進している人々は、政治的には保守的な立場の人たち、という点だ。
常日頃、愛国心を説き、天皇に忠誠を誓い、日本国家と日本民族を賛美する人たち。
そういう彼らが、美しい日本を汚していく。己の金銭欲と野心と贅沢のために。

そして、事あらば、祖国を守るために、命を捧げよと、のたまう。その時、彼らの言う祖国とは、どこにあるのか? 



1月26日(火)   「法と理念と実態」

法。――たしかに、実態から遊離した法は存する。
制定当時は、その理念と実態が対応していたものでも、時代状況の推移と共に、実態がその理念を超えてしまうことがある。
理念は、一度、法という実体に具現化されると、絶対真理のごときものとして流布されるが、しかし、ほんとうは、絶えず、理念と実態の照合は、行われていなければならないのだろう。

理念は、常に、実態によって、再生されるのでなければならない。理念は、リアリティを有していることが不可欠だ。

リアリティを欠いた理念の信望は、たとえ正義に起因するものでも、教条主義に毒されてしまう。



1月28日(火)   「グルダ逝去」

グルダが亡くなられたそうだ。
リヒテルといい、グルダといい、惜しい大ピアニストが世を去ってしまった。グルダはまだ69歳だそうだ。なんとも勿体ない。

とうとう、この二人も実演を聞き損ねてしまった。高原暮らしの代償だが、この点だけは残念きわまりない。

グルダを、はじめ、ベートーヴェン弾きとして、私は知った。日本の多くの評論家によれば、ベートーヴェンを現代に蘇らせたとされていたが、それゆえに、私は、敬遠していた。
近寄りがたい巨人ベートーヴェンではなく、等身大のベートーヴェンを表出したとは、誉め言葉として言われることだが、私には、それは承知できない。
ベートーヴェンは絶えず存在し続けており、「死」にかけて蘇るべきは、現代人のほうだから。

ベートーヴェンが、人類の精神史かつ思想史の上で、画期的な足跡を残したのは事実であって、それを日常的視点から捉えるというのは、人間の尊厳という位相からみて、冒涜であると言っても過言ではないと、私は思う。偉大な精神・偉大な魂を、そのように矮小化することに、私は反対だ。それは、現代ニヒリズムの開き直りにも思える。

だれもが、ベートーヴェンのような精神と魂を抱けるものではないし、それを志さなければいけないというわけでもないが、現に、そのように人格形成をなし、そのように生きた人間に対しては、やはり最大の賛辞をおくり、限りない敬愛の念を抱きたいものだ。

平凡は悪いことではない。圧倒的大多数が平凡な人間だ。民主主義は、その平凡な人間たちの智恵によって成り立っている。
だが、その中にあって、傑出した人物が出現するのも、また事実だ。アインシュタインや湯川秀樹の例をみれば分かる。私たちは、その偉大な頭脳とともに、偉大な精神と魂をも、称える素直さと謙虚さをもちたい。

グルダのベートーヴェン。そうした平凡を外して凡俗となった知識人たちの脆弱で傲慢な意識に楔を打ち込まず、むしろ彼らを正当化させている事に、違和感をおぼえて、長い間、聴かずにきた。

だが、聴いてみると、実態は、大きく異なっていた。
たしかに、ベートーヴェンの偉大な精神・偉大な魂を演奏の上で最高に表現し得た人として、フルトヴェングラーやクレンペラーなどの指揮者を上げることができるが、そういう人たちの演奏表現とは、グルダの演奏は、明らかに異なる。スケール感は、あまりない。深みや奥行きも、たとえばバックハウスやリヒテルの演奏に比べて、顕著ではない。
それが、超人的なベートーヴェンというより、私たちにも手の届く人物、甥の世話で悩んでいた社会生活上のベートーヴェンを想起させるのだろう。

だが、グルダの演奏の核心は、そこにあるわけではない。
たとえば、ベルリンの壁が崩壊したとき、人々は、ベートーヴェンの第九を演奏し唱和して歓喜の声をあげたが、そのような人類史に刻まれる瞬間に――人間の精神と魂の最も根源的な感動の瞬間に――立ち会う音楽を創造した、まさにそれらの瞬間に拮抗し得る精神と魂を築き上げた偉大な人間に対して、斜に構えて、その価値を矮小化する意識によって演奏されたピアノではない。

むしろ、その偉大な精神と魂が、まさに音楽という芸術創造に具象化されていることを、証す演奏と言い得る。
ベートーヴェンの意志と情熱と祈りが、音楽という形に結晶したことを証す演奏。音楽そのものが、並外れた生命感と運動を漲らせている演奏。
音楽史や思想史の書物の中に、ベートーヴェンの前人未踏の偉大な精神と魂が刻印されて、或る意味で「知」となってしまう危険から、もう一度、「生」を復活させる演奏。生きた音楽の創造としての演奏。

グルダのベートーヴェン演奏から、こうしたピアノの音を聴くべきだろう。
グルダの冥福を、慎んで祈りたい。


1月29日(火)   「更正」

更正とは何か?

単に、同じ過ちを繰り返さないようになることだけではあるまい。
更正という言葉は、犯罪をおかした者に関わる言葉だが、だからといって、
当事者の主観的存在の形態のみを問題にするにとどめるべきではあるまい。

当事者によって、不条理な苦しみや哀しみをもたらされた被害者とその家族という他者の存在の形態にこそ、まずは目を向けるべきだろう。
彼らの魂は癒され、名誉は回復されなければならない。
やはり謝罪と償いは、不可欠だろう。

では、刑罰は?
もちろん、必要だ。
当事者には、社会が、己の行為を許さないことを、そして、許されない行為をやってしまった者には責任を取らせることを教えるために。
他者には、報復行為を禁じている代わりに、社会がその代理を果たしてくれることを示すために、また、その事によって、他者の不条理な存在の形態に対して、社会が深く同情し、その他者の存在を、当事者以上に価値ある存在として承認していることを証すために。

更正という観念には、当事者の存在形態を考えるに、当事者の主観の位相だけではなく、当事者の主観と、他者という客観的存在の関係の位相をも、視野に入れるべきだろう。
更正したとされる当事者の主観には、他者の主観を承諾し、他者の存在の、等価以上の価値を受容する意識と、客観的に定立した社会的関係を、容認する認識が含まれているのでなければなるまい。
人は、その時はじめて、更正したと言い得るのではないか?


 

「八ヶ岳高原だより」