第6週  


1月30日(日)   「知と欲求のつけ」

 NHK総合テレビの特集「ハッカー」を見た。
如何に知能が高いとしても、わずか16歳の少年に侵入されるシステムとはなんだろう? そもそも、ネットワークを構築する時点で、侵入者の存在を予測できなかったのか? Y2K問題でもそうだが、専門家という人たちの、セキュリティに関する意識の低さに、不審の念を抱かざるを得ない。

 考えてみると、原発をはじめ、飛行機でも車でも、現代社会に大きな影響力を及ぼしてきたこれらも、事故による被害と犠牲者を数多生み出してきた。原発など、その廃棄物の処分も問題になっているし、車も排気ガスがオゾン層の破壊に少なからぬ影響を与えているようだ。

 見切り発車。何かを作り動かし、生産すれば、必ず、某かの弊害が生じる。なぜ、その弊害を事前に予測し、検証し、十分な防御策を確立してから、社会に提供するという事をしないのか?

 尤も、この行動法は、今に始まったことではないのかもしれない。人間社会は、常に、そのようにして何事かを生み、使いしてきたのだろう。ただ、今までは、それでも、自然防御や自然浄化や自然淘汰の能力のほうが、人間の行為を上回っていただけなのかもしれぬ。
 少なくとも、その点での変化が、現代において哲学や思想に生じたという事ではないのだろう。
贅沢と快適さを求める欲求が現代において加速したという事はあるにしても、ここで問題にしている行動法それ自体の変化――本末転倒の行動――が起きたということではないのかもしれない。

 だが、わたしたちは、最早、わたしたちの知と欲求が、わたしたち自身の能力と実力で制御できないほどの物を生み出すに至っていることを、悟らなければなるまい。その知と欲求による生産・創造が、どのような弊害を生み出すのか、その事態にどう対応すればよいのか、問題解決のメドは立っているのか――。

 その問題解決のメドが立っていない場合には、贅沢と快適さを暫時猶予するという自制の働きが、こんにちのわたしたちに、必要ではないか。そのような哲学と思想が、緊急に必要とされているのではないか?

 実際、世界平和や世界経済にも多大な影響を及ぼしかねないとするなら、すくなくともそうした分野におけるネットワークの利用は、一時、中止することも、視野に入れてみなければいけないのかもしれない。



2月1日(火)   「審議拒否」

 また野党の審議拒否にマスコミの非難が集中している。
政府与党の政策に不満があるなら、堂々と国会の場で論議すべきだ、そのために国会はある――とは、正論なのだが、これは、言わば「教科書的民主主義」とでも言うべき一種の観念論だ。

 民主主義が求める議論が成立するためには、持論を一方的に主張するだけではダメで、先ずは己の知識や思考や行動(調査なども含めた)などに限界があるとの前提にたち、従ってその判断にも過ちが存しているかもしれぬという認識のもとに、相手の主張にも謙虚に耳を傾け、持論の不備は率直に認め、修正あるいは撤回することも辞さないという事でなければならない。

 ところが、今回の騒動における問題は、先の日の丸・君が代法案や盗聴法など以降顕著になってきているが、自自公三党の合意をもって、事実上の政策決定とし、野党との議論を、先のような意味合いで行うという意志を全く持っていない点に存する。国会は、単に、法案通過の儀式の場と化してしまっている。

 もちろん、この点については、高度な弁論を展開し得ない野党の知識と思考と行動にも責任の一端があるのだが、しかし、野党が未熟だからといって、政府与党が真摯な議論をないがしろにしてよい、という事にはならない。
日の丸・君が代問題や盗聴法問題などは、単に野党から批判があったばかりではなく、マスコミや学者・知識人、および決して少なくない国民各層の間からも批判や疑問の声が発せられていたにもかかわらず、問題点を逐一論議し、コンセンサスを形成するどころか、法案の中身すら知らない国民が数多いる時点で、強引に採決をしてしまったのが実態だ。政府与党が無視したのは、野党ばかりでない、国民世論をも無視したのだ。

 国会を、こうしたファッショ的な儀式の場にしている与党の責任は、審議拒否という非常手段に打って出ている野党の責任に比して、遙かに大きい。
しかし、にもかかわらず、マスコミなどは、教科書に書かれている公式そのままの観念的な思考で、論戦を拒否している野党に批判を浴びせている。

 この図式は、実は、以前にも何度もあった。まだ存在していた旧社会党などが牛歩戦術を行ったときも、日頃、権力批判・体制批判のスタンスで発言をしている久米さんなども、さかんに野党に厳しい言葉を発していたものだ。
 野党の未熟さと与党の横暴を同一の位相で認識し論じるという極めて観念的な発想に捕らわれてしまっていたのだ。民主主義の理想からすれば、いずれも批判の対象にされるべきとしても、事の本質は、位相を異にしているという事実を認識し得ない思考の陥穽がそこにはある。

 社民党や共産党の党首の演説や発言を聞いていると、こうした事態の客観的な認識が不十分だ。総選挙で自自公の横暴を糾弾すると言うが、圧倒的多数の国民の目には、「政府与党の横暴」、あるいは、「どっちもどっち」どころか、むしろ、野党の審議拒否の方が、国会軽視、論議軽視、民主主義軽視に映っているといっていい。
 野党は、自自公を批判、攻撃するとするが、それによって理解と共感を得ることができるのは、己の支持基盤層――言わば、仲間内の合意――に限られるだろう。

 野党がまずやらなければならないのは、己に向けられた不信の目、失望の声に応えることだ。客観的にはファッショ的な横暴を行なっている政府与党よりも、それと対決して民主主義を守ろうしている野党の方が、守勢に立たされているという現実認識を明確に抱かなければならない。

 そのスタンスに身を置いて、国民に、己の行動の意味、政府与党の行動の意味に対する公平な認識を求めるべきだろう。そして、国会紛糾の真の意味、今、日本の政治にファシズムが台頭しつつあるという危機に対する明確な認識を生ましめるべきだろう。

 賢明な国民は、正しい行動をとっている我々を、理解し支持してくれるはず、という甘く観念的な幻想から、彼らが覚醒できるか否かが、自自公連立に批判的な多くの国民、しかし、今回の騒動で、野党にも失望した多くの国民の心を捉えることができるかどうかの、分かれ道になるだろう。



2月2日(水)   「政治家と自己主張」

 衆議院で、定数削減法が、与党単独採決で成立した。これに対して、民主・共産・社民の野党は、一斉に、「与党単独で採決したのは議会制民主主義を踏みにじる暴挙だ。この横暴を許さず、総選挙に追い込む」旨の声明を発表している。
困った人たちだ。どうして、こうも、政治家というのは、自己主張の位相からしか物を認識し、考え、言動できないのか。

 言うまでもなく、与党側が、野党の審議拒否を国会軽視だの、議会制民主主義への背信行為だのと非難する資格はない。公明党の神崎代表だったかの記者会見での言明は、偽善というほかない。彼には、民主主義の哲学・思想の本質が理解できていない。初めから結論ありきで、討論を通じて、よりよい真理を求めるという意識も姿勢も欠落した者に、民主主義を語る資格はない。しかし、その表情からは、本気で、民主主義の原理に背いたのは、野党だという観念を抱いているように見て取れる。己こそ、民主主義への背信行為をおかしているのではないかとの、自省も後ろめたさも、微塵も感じられない。
 ここには、権力と無知の恐ろしさがある。

 だが、野党の政治家の客観的な自己認識の欠如も、相当なものだ。
 悪いのは与党であって、我々の行動は正しいのだから、それを賢明な国民に訴えれば、必ず、理解と支持が集まるはず――という観念を彼らは抱いているのだろう。
 だが、彼らの自己認識は、彼らの主観において通用するのみだ。彼らが自明の理としている与野党の是非如何は、客観的なコンセンサスではない。どころか、<与党だけで採決したのは暴挙だ>と言ってみたところで、<審議拒否をして国会に出ていかなかったのは野党自身ではないか>という反発を招くだけだ。もちろん、野党のいわんとするところは、<審議拒否をしなくて済むような民主的な運営を行い、正常な形での採決を行うべきだ>という点にあるのだが、そしてそれは正論なのだが、しかし、現時点では、客観的なコンセンサスにはほど遠いのが実態だ。

 そういう状況の中で、正義は我にあり、悪は彼にありとの確信のもとに、自己主張を一方的にまくしたてても、かえって、逆効果だろう。
彼らの言動を聞き、表情を見ていると、与党がこれだけ悪政を行っている今は、総選挙のチャンスだと認識しているようだが、事はそう甘くはないだろう。たしかに、彼らの支持基盤層の国民のボルテージは上がっているかもしれない。だが、問題は、より広範な物言わぬ国民大衆の動向だ。

野党の政治家は、自己は正しいとの絶対的確信を前提にして、与党を糾弾することに終始するという言動と姿勢から、そうしたひとりよがりの自己主張から、解き放たれなければならない。
 もちろん、己自身が主観的に己の正義を確信することそれ自体はあってもよかろうが、しかし、己の客観的存在は、そうした己自身が抱く主観とは異なる現実を直視し、まずは、己に向けられた誤解と疑念と不信をはらすための、真摯な弁明から始めるべきだろう。
己の正義をまだ承認していない異論・反論との真摯な対話を早急に果たすことが必要だろう。そうした言動を前提にしてこそ、与党の暴挙への批判が説得力を有することになるだろう。

 「(野党の与党批判を聞いて)与党はたしかに強引かもしれない。だが、そういう野党だって、決して誉められた話ではない。結局、どっちもどっちなら、政権担当能力の実績がある与党に政治を任せておいたほうが無難だ」というところに考えと感情が帰着しがちな数多の国民の心は、今のような自己主張の呪縛に捕らわれていては、決して掴めないだろう。


2月3日(木)   「反戦平和の闘いの課題」

 戦争とファシズムへの道を急速に歩み出している実態に対して危機感を抱き、それを拒否したとして、日本は、この先どう進めばよいのか――。

 こんにち事態の進行を容認するに至る数多の国民大衆が抱く問題意識と疑問に、明確に応えることができる平和主義の構築を急がねばならない。

 そうした展望を示すことは、反戦平和の闘いの重要な柱となる。


2月4日(金)   「正当化・免罪論」

 悪いのは日本だけではない――。
あの天皇制軍国主義時代の植民地政策と侵略戦争に対して、保守の立場の人々がよく口にする言葉。
彼らの主張は、幾つかに分類できる。

1.アメリカだって悪い。あの戦争は帝国主義同士の戦争だ。

2.どの国だって、長い歴史の中で、一度や二度は、正義に反する事はあった。

3.侵略された国だって、長い歴史の中で、正義に反する事はあった。

4.(満州や朝鮮侵略に関して)侵略される側にも、責任はある。

 こういう主張のもとに、彼らは、日本の過去を、正当化ないし免罪しようとする。彼らの主張の是非や如何に?

                  *

 インターネットの世界も、最近は、一級の資料が入手できるようになった。

 共に私の知人である元ベ平連事務局長の吉川勇一さんと元朝日新聞ハノイ支局長の井川一久さんとの間で起きている論争も、大変興味深い。

 戦後左翼・革新のイデオロギー的偏向の問題と、それを批判する立場の人々の保守反動政治との関係の問題。

 これは、津吹純平の思想と行動の位相に絡んでいる問題として、注目していかなければならないし、私自身、書いておきたいことがある。



2月5日(土)   「釈明」

 審議拒否に対する世間の風当たりの強いことを感じて、やっと、野党も釈明を始めたようだが、問題は、その釈明の仕方だ。

 必要以上に後ろめたさを感じているような、弱気な物言いはすることはないが、かと言って、開き直りや、責任を相手に転嫁しているかのように感じられる物言いも避けなければならない。非常にデリケートな言葉が求められる。

 果たして、彼らに、それができるや否や?

                  *

 教条主義との闘い。それも、この場で、追求していかねばならない。しかし、もちろん、自己内対話として。

 

「八ヶ岳高原だより」