第7週  


2月6日(日)   「戦後左翼・革新の汚点」

 ソ連や東欧など、社会主義国家・共産主義国家の崩壊後、わが国において、戦後左翼や戦後革新に対する批判・攻撃が強まっている。ひとことで言えば、それらの国家やその指導者に対する礼賛と支援と癒着が問題とされている。
 社会主義の非や過ちに対する不適切な対処が問題とされている。
イデオロギー的偏向――。

 たしかに、日本の、いわゆる進歩的立場に身を置く知識人や学者、ジャーナリストたちの間には、そうした傾向があったように思う。

*ソ連や中国などの独裁体制・独裁政治に甘かったこと。

*アメリカに対しては米帝国主義と断じて厳しく非難するも、
  ソ連や中国に対しては、その覇権主義を明確に批判する
  ことがなかったこと。

*アメリカに対しては軍事大国・好戦的国家として非難する
  も、ソ連や中国の軍事優先国家体制に対しては、それを
  容認していたこと。

*ソ連や中国など社会主義国家の核開発や核保持は、
  防衛的と称して、容認したこと。

*中国の文化大革命を礼賛したこと。

*ベトナム戦争において、北ベトナムやベトコンを、過大評価
  したこと。

*カンボジアにおいて、大虐殺をおこなったポルポト政権を
  支援したこと。
 (或いは、ポルポト政権による大虐殺の事実を認めようとしなかったこと)。

*毛沢東や金日成への礼賛をはじめ、社会主義国家の指導者を、過大に評価したこと。

などなど。細かく言えば、まだまだあることだろう。

 これらの、言わば、汚点を、こんにちの時点で、きちんと、猛省し、なぜ、そのような過ちを自らおかしてしまったのか、について語るべきだろうし、正義の旗の下で、社会的に活動し、民衆を導いたことに対しても、明確に謝罪すべきだろう。

 歴史的な罪過に対する保守反動に求められる<誠意ある謝罪と責任を>という言葉は、戦後左翼や革新の非と過ちに対しても、発せられるべきだろう。



2月7日(月)   「教条主義者」

 こんにちもなお少なくない<教条主義者>と呼ぶほかない困った人々。
年齢も、わたしたち<全共闘世代>に限らず、現代の若者にも数多みられる。そして、その思想的立場・政治的立場も、保守・革新を問わず。

 彼らの特徴――。
独善的な思考と態度であること。
彼らは、己の主観的判断にある程度の確信を抱くのは自然としても、その確信が異常に強く、客観的には――他者からみれば――、まだ単にひとりの人物の主観的な判断としての意味しかもたぬ己の判断を、直ちに、なんびとも否定し得ない客観性をもった絶対真理だと確信し過ぎる。
そして、実際、屡々、知識や思考や判断などの面で、非常に偏った一面的で客観性に欠けた主張をもつ。

 自己内対話が欠如していること。
先に関連するが、彼らは、己の主観が客観的正当性を有するか否か検証するための自己内対話を回避する。

 自省心・自己批判意識が欠如した議論を一方的にふっかけること。
彼らは、相手の考えや気持ちを理解しようという意識や、相手の主張に謙虚に耳を傾け、その正当性を尊重し、己の非を率直に認め、判断を撤回するという意識が欠落した、攻撃のための議論を一方的にしかける。

 自己絶対化意識を有し、裁き手の立場に身を置くこと。
彼らは、他者を批判する際に、己を絶対正義に立つ者、相手を絶対悪に堕する者として、裁き手の立場から、糾弾する。己の立場の正当性を確信するも、他者との相克においては、自我対自我の、対等な立場に身を置いて、共に、真理を追求するための知的営みを行っている、という自覚が欠如し、真理は我にある――我は裁きを下し得る者――との立場から、一方的に相手を裁き、糾弾する。

 人格攻撃・人身攻撃を繰り返すこと。
彼らは、他者の知識や思考や判断の誤謬に対して、その非を正すことを求めるにとどまらず、相手の人格や生活にまで、著しく品位を欠いた攻撃を加え、罵倒や中傷や誹謗の言葉を浴びせかける。そこでは、他者の正当性の可能性に対する想像力はおろか、他者の、人生と生活および精神の全体像における真実の可能性に対する想像力も欠けた、全人格を否定する攻撃――人間の尊厳を著しく損なう攻撃――が激しく繰り返される。



2月8日(火)   「なぜ、逃げ出さなかったのか?」

 新潟県の女性監禁事件。異常極まりない監禁の実態が報じられるに及び、「それほどの悲惨な監禁生活を送っていたのに、なぜ逃げ出さなかったのか? (犯人に対して恋愛感情のようなものが芽生えたのではないか?)」という声が一部に聞かれるが、これは、不可解な実態を解明したいという思いから出たとしても、やはり女性には二重の屈辱となる言動だ。

 彼らは、女性が、9歳の時に拉致・監禁されたという事実を、軽視している。その年頃の少女にとって、28歳の屈強な体格の男は、それだけでたいへんな脅威だろう。その上、「逃げ出した殺す」とナイフを突きつけられて脅迫され、実際に、度重なる暴力を受けている。そういう日々がいつ終わるともなく続く。餌のような食事、流し台での入浴、恥辱に満ちた排泄。こうした人間としての誇りを著しく傷つけられる毎日。親兄弟からも引き裂かれて、狭い部屋の中に完全に閉じこめられた、年端もいかない少女にとって、それは拷問に等しいものだろう。

 逃れたいという意志よりも、逃れられないという強迫観念が、少女の心を支配したとしても、全く不思議はない。
これが、まだ高校生の頃に拉致・監禁されたというなら、恐怖心ゆえに、そこから何としてでも逃げ出そうという意識も働くかもしれない。(しかし、これとて、絶対ではないだろう。かつて、女子高生がやはり拉致・監禁されて、逃げ出せずに結局殺害された事件があった)。

 ともかく、9歳の少女時代に、極度の恐怖心を植え付けられた女性に、「なぜ、逃げ出さなかったのか?」と、あたかも、合意だったのではないかとでも言うような疑念の言葉をぶつけるのは、冒涜行為と言うべき暴言だろう。


2月11日(金)   「天皇制談義」


 東京の武蔵野市からいらしたお客様S氏と、天皇制談義に花を咲かせた。革新的立場の方だったが、私のいりくんだ天皇制論を、冷静に聞いてくれた。
 持論の天皇制論に批判的・懐疑的言動をするのは、なにも、保守的立場の人たちばかりではない。
 左翼的立場の人たちもまた、言う。「天皇と天皇制の役割と国民への影響力を過大評価し過ぎている。今の国民はもっと目覚めている。国民の良識を過小評価し過ぎている。天皇と天皇制の問題は、こんにち、たいした問題ではない。」と。

 これに対する私の持論は、「天皇と天皇制の問題は、真理の位相においてではなく、事実の位相において――天皇崇拝の意識が存しなくても、天皇の国家的社会的存在の<超越性>の事実を前にして、人々は、<絶対禁忌>を破ることの不安と報復の恐怖とから、自己放棄するという形で――こんにちなお、日本と日本人、国家と社会にとって、根本的で究極的な問題として存在する」というもの。
 久しぶりなので、些か雑然としてしまったが、冷静に語ることができた。持論の確認と分析もでき、私にとって、とても有意義な時間だった。


 

「八ヶ岳高原だより」