第8週  


2月13日(日)   「自己認識」

 一つの大きな壁の崩壊は、新しい壁の構築を生む可能性をもつ。実際、そのようにしていかなければならない。

 状況における己の主観的真実の力の限界――真実の位相ではなく、事実の位相において――を知ることは、状況の超克にとって必要な第一歩だ。


2月14日(月)   「現代若者の非参戦論」

 現代の若者は、国のためとか、天皇のためという意識は持っていない。そのために自らの命を賭けることなどしない。自分の損得で行動するので、国策に協力することはない。」

――これは、当の若者自身ばかりではなく、私の「平和の危機論」を、杞憂だとして無視した知識人や左翼的なジャーナリストの発言でもある。
 保守派からは偏向教育と糾弾されているものの、実は、日教組の教師からも、歴史教育の中で現代史をほとんど教えられなかった現代の若者がそう思うのも分からなくはないが、歴史を体験した50代後半から60代以上の、それも有識者として社会的な第一線の場で仕事をしてきた人の認識としては、あまりにも情けない。
 この認識の誤謬は、以下の4点に示されている。

一つは、戦争と国家・民族の関係を見誤っていること。
日本という国家と日本人という民族の実体は、国策を、国民全体統一の絶対的なものとして遂行するところに存する。平たく言えば、国民総動員態勢・体制の確立を志向する。

 一つは、戦時体制下における国家と個人の関係を見誤っていること。
 日本という国家と日本人という民族の実体は、今も尚、非常時において、個人の意志を、国家・民族の意志の上に置くことなどあり得ない。若者が国策を拒否ないし無視すると言うが、平時においてはともかく、戦時体制下においては、国家・民族が、若者個人の命や生活を支配することはあっても、若者に、国策に対してイエス・ノーを選択する自由など与えられはしない。

また一つは、戦時体制下における国家・民族の権力の実態について認識が甘いこと。
上記の関係を、超克し得ぬ絶対的なものとして若者自身に認識せしめるために――若者自身の存在の客観的実態を認識させるために――、国家・民族が、法的ないし非合法的な規制や抑圧や弾圧、威嚇や暴力などをもって、徹底的に若者個人を追いつめるに違いない。

 そしてもう一つは、<損得勘定>という打算で行動することの陥穽に対する認識が欠如していること。
 戦時体制下においては、先の三つの状況の中で、反戦や厭戦の意志を表明し、その行動を貫こうとすることこそ、肉体的にも、かつ精神的にも、大きな危険と負債を担うことになる、つまり<損>になるという事情ゆえ、まさに、現代の若者が、人類の平和とか、他民族との共生とか、己のエゴイズムの超克といった愛と正義と真実――普遍的な真理――のために行動するのではなく、<損得勘定>によって打算的な行動を取るがゆえに、国策に従うことになると言い得る。
 そして、ほんらい、<損得勘定>という打算は、排他的なエゴイズムに起因しているものであってみれば、極限状況においては、倒錯したヒロイズムを生むことも有り得る。本音を隠してしぶしぶ権力に屈するのではなく、正に、権力の中枢に好んで身を置き、積極的な参戦行動を取ることも有り得る。

 冒頭の「現代若者の非参戦論」には、以上のごとき客観的認識が欠如していると言わざるを得ない。



2月17日(木)   「思想的課題」

 思想的課題を論じる時は、そのモチーフが、思想的課題を論じていることが明確になるように、思想の位相を明確にすること!


2月18日(金)   「意識」

 「日本が再び戦争を為し得る国家に変貌する」動きを促進する<戦争容認論>と、その危機を訴えて反戦平和の志を抱くことに冷淡な<戦争杞憂論・楽観論>と、戦争を不可避とする<戦争ニヒリズム>論など、「体制的論理と言語」に対する批判――もちろん、<異論との対話>というテーゼに即した批判の論理と言語の構築を志向する――の意識を、まず中心に据えること。

 同時に、そうしたテーゼをもつわたし自身の位相――体制的論理と言語とは異なる、日本の平和と安全を確保する平和国家論の構築も含む――を明確にする意識も強く抱くこと。

 そして、新たな<平和の砦>の構築にあたり、戦後左翼・戦後革新における平和主義と民主主義の問題をめぐる誤謬と無効性に対する批判の意識を併せ持つこと。

 また、異論・反論との対話というテーゼと、この「晩鐘抄録」の表現の位相と、己の批判と主張の展開との関係についても、問題がないことを確認すべし。

――それにしても、わたしは、なんどこの類の思考を重ねたら気が済むのだろう? 実践あるのみ!



2月19日(土)   「異論・反論との対話」

 異論・反論との対話とは何か? 

 相手の主張に対して、それとは異なる立場から、持論を主張するだけでは、<対話>したとは言えない。

 たとえば、ガイドライン法に対して、それに反対する立場から、法が、憲法違反である・もしくは憲法の理念に真っ向から背いているとか、戦争法であるとか、国民的論議が不十分であるとか、戦後日本の原理の否定であるとか、アメリカに従属した独立国家にあるまじき法であるといった事を述べても、それだけでは、<対話>したことにはならない。

 <対話>の成立には、相手側の論理と言語に、真摯に向かい合ことが、必須だ。

 たとえば、米国との友好関係を維持していくためには、日本も、安保の核の傘の下で一方的に守ってもらうだけではなく、相応の負担を引き受けなければいけないとか、スウェーデンのような平和国家・福祉国家でさえ国連のPKOに協力している状況のなか、日本も国際貢献を果たさなければいけないとか、非道を行なっている国を放置しているのは正義に悖る無責任な行為であるとか、その非道の国に多大な被害を受けている国と民衆を見捨てては、日本はいつまでたっても信頼されないとか、他の国が人的貢献をしているときに、日本人だけが金で済ませているのは卑怯で身勝手なことであり、血を流すことになっても仕方がないといったこと、換言すれば、同盟国との友好関係、国連・国際社会への貢献、不正義を行う国への制裁、被害者となった国と民衆の救済、人並みの自己犠牲の受容といった、様々な論理と言語に応えることが、<対話>には、必要不可欠だ。

 当の問題になっている事柄について、異なる立場を取ることがどれほど愚かで間違っているとしても、それをただ見下して一蹴するのではなく、あくまでも、相手の立場に一度は身を置いて、その論理と言語――彼らの不安や義務感や願望――を真摯に受けとめ、明確に応えていくことが、<異論・反論との対話>には大切なことだ。


 

「八ヶ岳高原だより」