-「決意、再び」-

2001'2月25日 (日)


 私に残された時間はいかほどか? 今、陽が西に傾き、アルプスの頂きにかかろうとしている。まさに晩鐘の時を迎えようとしている。その逆光の煌めきの中に浮かぶアルプスの峰々の連なりと、その前景をなす落葉松の木立という構図は、端正で凛々しく、詩情漂う美しさだ。
 こうした光景にいつまで立ち会えるのか? いや、断絶は、死ばかりではない。緑内障や糖尿病による失明という事もある。
 よしんば、光景そのものに出会えたとしても、その感動を、こうして今コンピュータのモニターに向かい、キーボードを叩いているように、自由に、そして思い通りに表現することが、いつまで可能か?
 自然治癒することのない大腸ポリープ、突然襲った五十肩、そして脳や心臓や肝臓などの疾患の危険……。
 個人的に言っても、一般的に言っても、齢50に更に年を重ねつつある今、何らかの重大な健康障害に見舞われても不思議はない。
 それも身体器官の障害に限る話ではないだろう。いつまで思考の営みが十全に行えるのか?

 ほんとうに、時間の猶予は、保証されていないと考えなければならない。とりあえず、今は大丈夫。今日のうちは、まだ残された時間を使うことは可能だろう。しかし、明日は分からない。明日の時間は、保証されていない……。
 昨年もそう自覚したはずだのに、いつのまにか、怠惰の意識に流れてしまった。根拠のない生と健康の持続感にもたれかかってしまった。猛省すべきだ。

 とは言え、いたずらに深刻になり、不安に怯え、挙げ句、神経症を患うことにでもなっては、元も子もない。
 が、客観的に可能性ある事として、冷静に直視し、深く認識しておかなければならないことは確かだ。
 そうして、生きていられるうちに、健康でいられるうちに、私は、ライフワークを集大成させなければならぬ。こうして感じ、考え、判断し、意志を抱き、祈ることができ、コンピュータの前に座ることができるうちに、私は、刻印しておかなければならぬ。

 ――リヒテルの弾く、バッハの「平均律」を聴きながら、記す。




-「自己内対話」-

2001'2月26日 (月)

 聖なる日の残照の輝きと黄昏の静謐と宵闇の深さ。そして透明な月の明かりと――。
 私は、己の意識を、まずは、沈思黙考に向かわせなければならぬ。
 自己内対話。
 物心ついた頃より習慣となっていた思索。脅迫観念に憑かれたとも言える大きな不安と強い懐疑を孕んだ、執拗に繰り返される己の思索に対する反省。そうして、自己洞察と自省への、絶え間ない志向性の働き。

 もちろん、魂を病む危険をもたらしかねない意識の営みは、ここでは、繰り返すまい。が、表現者としての私の存立に先だって、今、何よりも、私は、私自身に立ち戻るべきだろう。

 そうして、究極的には他ならぬ私自身の自己形成の為に営んできたとも言える、思索と反省と自己洞察と自省を、綴ってみることにしよう。

 何よりも、過去の時をそのように生きて来、また晩鐘の今を、そのように生きる己を、対他者と対世界の間に、定立させることを願って。

 ――一昨年の12月25日に記した、この「晩鐘抄録」の冒頭の言葉を、あらためて、心に宿すことにしたい。
 他者への主張に先だって、私は、自己内対話を心がけよう。もちろん、どれほど内省的な営みであっても、こうして発表する以上、他者への主張を含意することになろうが、さらに、より踏み込んだ形で他者への主張がなされても否とすべきではなかろうが、しかし、まずは、自己内対話の営みに多くの時間を費やさなければならない。とりわけ、この「晩鐘抄録」においては、自己内対話の位相で語ることにしたい。

――ヴァルヒャの弾く、バッハの「平均律」を聴きながら――。



 

「八ヶ岳高原だより」