私に残された時間はいかほどか? 今、陽が西に傾き、アルプスの頂きにかかろうとしている。まさに晩鐘の時を迎えようとしている。その逆光の煌めきの中に浮かぶアルプスの峰々の連なりと、その前景をなす落葉松の木立という構図は、端正で凛々しく、詩情漂う美しさだ。
こうした光景にいつまで立ち会えるのか? いや、断絶は、死ばかりではない。緑内障や糖尿病による失明という事もある。
よしんば、光景そのものに出会えたとしても、その感動を、こうして今コンピュータのモニターに向かい、キーボードを叩いているように、自由に、そして思い通りに表現することが、いつまで可能か?
自然治癒することのない大腸ポリープ、突然襲った五十肩、そして脳や心臓や肝臓などの疾患の危険……。
個人的に言っても、一般的に言っても、齢50に更に年を重ねつつある今、何らかの重大な健康障害に見舞われても不思議はない。
それも身体器官の障害に限る話ではないだろう。いつまで思考の営みが十全に行えるのか?
ほんとうに、時間の猶予は、保証されていないと考えなければならない。とりあえず、今は大丈夫。今日のうちは、まだ残された時間を使うことは可能だろう。しかし、明日は分からない。明日の時間は、保証されていない……。
昨年もそう自覚したはずだのに、いつのまにか、怠惰の意識に流れてしまった。根拠のない生と健康の持続感にもたれかかってしまった。猛省すべきだ。
とは言え、いたずらに深刻になり、不安に怯え、挙げ句、神経症を患うことにでもなっては、元も子もない。
が、客観的に可能性ある事として、冷静に直視し、深く認識しておかなければならないことは確かだ。
そうして、生きていられるうちに、健康でいられるうちに、私は、ライフワークを集大成させなければならぬ。こうして感じ、考え、判断し、意志を抱き、祈ることができ、コンピュータの前に座ることができるうちに、私は、刻印しておかなければならぬ。
――リヒテルの弾く、バッハの「平均律」を聴きながら、記す。
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