-「イエスの眼差しを感じて」-

12月24日 (月)

 9月11日のアメリカ・ニューヨーク貿易センタービルへの「同時自爆テロ」と、それに対するアメリカによる<報復戦争>――。そして、そこへ事実上の「参戦」を果たした日本。
 87年以来、「日本が再び国際紛争に軍事的に関与し得る国家体制の確立に向けて動き出したばかりか、現状のままではその具現化を回避し得ない」として、”反戦平和”は現実的課題であると、多くの著名人や有識者たちに切実な思いで訴えてきたわたくしは、しかし、極めて複雑な感慨を抱いて、こんにちの「状況」に向き合う。感じること、考えること実に多し。

 そのなかにあって、己の魂の奥底にある意識は、イエスの眼差しを感じたところに生まれる意識だ。
自爆テロによってあまりにも不条理な死を強いられた数多の人々。
そして、ビンラディンの命とひきかえに犠牲になってしまったアフガンの少なからぬ人々。
 報道ではアフガン難民の姿、特に犠牲となった女性や子供達の姿が再三映されるが、貿易センタービルの1階にあった幼稚園の幼子が犠牲となったことも忘れるわけにはいかない。
 そして、人間たちの憎悪の惨劇によって命を奪われたのは、罪なき人々ばかりではない。
 たくさんの鳥や獣や小動物たちも、殺されたことだろう。
 もちろん、山や森や草花も、死んだ。
 大義のためと称して行った事ではあるが、自然界からみれば、人間の傲慢と映るかもしれない。

 わたしたちは、罪を、犯していると、感じなければならない。
 罪を犯していることを認めなければならない。

 そのような意識と認識を前提にして、「反戦平和」を志向する必要があるだろう。
 そのような魂を抱いて、「和解」を求めるべきだろう。
 




-「二つの光景――犠牲となった幼子たち」-

12月25日 (火)


 私は考える。あの日、仲の良いお友達と朝の挨拶を交わして、これからまた楽しい一日が始まるはずだった園児たちのことを。
 大きな声で歌をうたい、軽やかに小さな体を動かし、飛び跳ねる園児たち。その舌っ足らずな幼い声、明るくきらきら輝いている目。きゃっきゃっと笑う声が聞こえる。いかにもやんちゃでいたずらっ子といった大きく見開いた目が映る。
 そして、賑やかで楽しい生命の動きが突然止まってしまったその瞬間の光景。痛みと恐怖の叫びと泣き声。そして無言。その地獄図のような光景に私はおののく。
 あまりにも不条理な出来事。あまりにも理不尽な出来事――

 しかし、もう一つの不条理な出来事、理不尽な出来事が、別な場所で起きている。
 アメリカの園児たちに比べ、薄汚れた衣類に痩せた身を包んだアフガンの幼子たち。暗い食卓の上の貧しい食事。粗末な具しか入っていないスープを啜る。空腹は満たされない。しかし、頼れる父と優しい母と世話やきの姉に囲まれたささやかながら幸福な団欒。汚れの全くない澄んだ瞳で、家族をみつめる幼子。 が、そこへ突然激しい爆音と振動が襲い、脆くも崩れ落ちる壁が幼子の小さな体の上に直撃する。
 痛みと恐怖の叫びと泣き声。そして無言。
 その戦慄の光景に、私の魂は震撼する。
 
 自爆テロと、報復攻撃によって、一瞬のうちに引き起こされた光景に、このような光景があったであろうことを、私は見ておかなければならない。
 ――それが起きる直前までは穏やかで平和だった光景が、その瞬間に地獄図と化した事実を、忘れるわけにはいかない。
 
 解放と聖戦の名において為されたテロと、報復と民主主義の名にいて為された武力攻撃によって、汚れなき、罪なき幼子たちの命と魂が奪われた事実に目を向けるところから、私は考える。



-「死者は何を望んでいるか?」-

12月26日 (水)


 解放と聖戦、或いは報復と民主主義を大義名分として繰り広げられたテロと武力攻撃によって、あまりにも痛ましく無惨に命を奪われた数多の人々――。とりわけ国家が犯したと言われる罪にも、テロリストたちが犯した罪にも、些かも関係することない、完全に汚れない幼子たち――。
 私は、その痛みと恐怖に思いを馳せることから考え始めなければいられない。
 
 いったい彼らに対して私たちは何を為すべきか? 何をどのように為せば、彼らの魂は救われるのだろうか?
 そして、彼らのような犠牲者を二度と生ましめないために、私たちが為すべき事は何か?
 
 第一の問いに対して考えられるのは、その無念、その恨みを晴らすこと。ではその無念、その恨みはどのようにして晴らせるのか?
 
 復讐? 裁き?
 
 アメリカの報復攻撃に対して、「死者も、自らと同じような犠牲者を生むことを望んではいまい」という言い方があるが、どうだろうか? もちろん、現実問題として幼子たちがその意志をもたないことは明らかだが、その事実は、ここで言っているような意味合いの話ではない。もし幼子たちが事態を認識できたとしたら、己を殺した者たちの大義を聞かされたとしたら、彼らはどのような感情に襲われ、何を意志するのだろう?
 特に、初めから己に対して殺戮を目的としてテロが計画され実行されたと知った幼子たちの場合はどうだろう?
 正直な話、私には、”自らと同じような犠牲者を生むことを望んではいまい”と断言することはできない。そして、仮に、己の命を奪った者の命を奪うことを以て恨みを晴らすと望んだとしても、それを非人道的で矛盾した不正義だと非難することはできない。それは生き残った者の傲慢とも言えるのではないか。
 
 仮に私自身が同じ立場に身を置いたとしたら、やはり我が身を奪った者を絶対に許しはしないし、せめての事として、その者の命を奪って無念を晴らしたいと望む。
 私から、ベートーヴェンを聴く歓びを奪い、純白の雪に覆われた雄大な山々と夜空に煌めく星々を仰ぐ憧れを奪い、せせらぎの音を聞きながら森の中を歩く平安を奪い、仔猫と戯れる愉悦を奪った者たちを、到底私は容認することなどできない。
 私がそのように「実存」する人間であることを全く無視して、彼らの憎悪の対象に衝撃を与えるための単なる道具立てとして扱うとしたら、私はそれを絶対に許さないだろう。彼らの意識と観念の中にあって、私という人間が、彼らの意志一つで生かすことも殺すこともできる物としてのみ存在し、実際そのように扱われたとしたら、その侮辱に屈することは到底できない。
 私が他の誰に対してもその生活と人生と命と魂を弄ぶことなど絶対に許されないように、また私もテロリストたちによって己が存在の全てを弄ばれることなど、絶対に承服できない。たとえ彼らの大義が解放と聖戦にあるとしても、私への理不尽は免罪され得ないし、不条理の事実に何ら変わりはない。
 
 万が一そのような立場にたたされたら、私は、テロリストたちに対しても、同様に、彼らの存在の全ては、私たちによって決定されてしまっている、決定し得るのだということを、彼らに思い知らせたいと望む。
 その具体的な形――やはり、命を奪った償いには命を求めるだろう。むろんそれで奪われた命が戻ってくるわけではないとしても、己を殺した者に生きる正当な権利はないこと、命は皆対等である、命の対価はやはり命しかないこと――のせめてもの証だ。

 不条理を強いられる私の本心はこのような言葉を発する。理不尽な屈辱を受けたとしたら、私の憤怒は、このように恨みを晴らしたいと望むだろう。

 ――しかし、と、私は考える。
 しかし、その報復のために、私を殺したテロリストたち以外の人々が巻き添えになることは、どうだろう? 私はそれを認め得るだろうか? やむを得ないこととして、目を閉じるだろうか? 聞かなかったこととして、耳を塞ぐだろうか?

 おそらく、私には、それはできまい。万が一、私が事態の進行をそのような方向に決することができる立場にあって、実際そのように決断したとしたら、直後から自責と後悔の念に捕らわれてしまうだろう。良心の呵責によって、きっと精神の平安が根底から突き崩されてしまうだろう。
 私は、やはり、たとえ耐え難い屈辱と命と魂と様々な感動を理不尽にも奪われたとしても、その報復として、私自身全く恨みを抱かず、敵意や憎悪など皆無な人々を巻き添えにし犠牲にする事態を望まない。――そういう意識と思いをもっているのも、また事実だ。

 ならば、あの幼子たちもやはり同じだと考えるべきだろうか? 事態の意味を認識できたとしたら、あの幼子たちも、報復を断念するだろうか?

 ――しかし、私はその問いに直ちにイエスと首肯することはできない。
 もちろん人間性云々の話ではない。事態の意味を認識し得たその幼子たちの年齢にもよるだろう。多くの場合、自らも人の親となっていれば、テロリストたちへの憎悪と報復への情念よりも、巻き添えにしてしまう見知らぬ他者の命と魂への思いが深くなるのではないか。が、多感な青少年期なら己の存在が理不尽にも見ず知らずの他人の斟酌によって抹殺されてしまうことへの怒りのほうが、強いかもしれない。もちろん個人差もあるだろう。いずれにせよ、「死者も、自らと同じような犠牲者を生むことを望んではいまい」とは、簡単に断定できることではないのではないか。

 しかし、もちろん逆に言えば、「死者は必ず、報復を望んでいる、望むはずだ」と断じるわけにもいくまい。「死者は報復そのものは望むが、巻き添えになる犠牲者が生じることは望まない」と考えることもできる。
 
 ――では、私たちは、いったい理不尽にも命を奪われた死者たちに対して、何を為せばよいのか? どのようにしてその魂を癒すべきなのか? 




-「総意とコンセンサス」-

12月27日 (木)


 昨日の日記について、2点補足しておきたい。
 まず「死者も、自らと同じような犠牲者を生むことを望んではいまい」という見解を、「死者の総意はともかく、コンセンサスは、報復を望まないのではないか」と置き換えてみたらどうだろう。
 右のテーゼは、私たちが報復攻撃を行うのか断念するのかは、死者の意志を受け継ぐことによって決定するという位相で語られている。だとしたら、死者の意志を判断するに、必ずしも、「総意」である必要はないと、私も考える。一般的にはコンセンサスが形成されたことを以て「死者の意志」と判断してよいだろう。そして現実的には過半であればそれと見なされるであろうし、より現実的な次元で言えば、少なからぬ人々は賛否を決めかねる事実をみれば、過半であることは絶対条件ではないとも考えることができる。幾つかの選択肢の中で最も多数を得たものを以てコンセンサスと見なすことも現実的には不合理とは言えないだろう。
 その意味において、「死者のコンセンサスは報復を望まないのではないか」というテーゼを、「総意」を前提にした「死者も、自らと同じような犠牲者を生むことを望んではいまい」というテーゼに置き換えて検証する必要があるだろう。

 では、死者が報復を望まないというのは、死者のコンセンサスを反映しているだろうか?
 ――私はそう問いを変えても、報復を望まないと断言することはできないと思う。逆に報復を望まないというのはコンセンスではないと断言することもできないと思う。もちろん、立場を変えて、死者の多数は報復を望むだろうと断言することも、報復を望むというのはコンセンサスではないと断言することもできないと思う。
 報復を望まない死者たち、報復を望む死者たち、そしてどちらとも決めかねる死者たち――、そのいずれが最大多数であるかについて、私たちは確かな根拠をもたない。昨日の場合のように、総意を否定する一例なら確かな事実を指摘できるが、コンセンサスがありや否やという事になれば、是とするも非とするも、確かな事実を私たちは手にしているわけではない。
 つまり、死者が報復を望んでいないのはコンセンサスだともそうでないとも言い得る。逆にコンセンサスは死者が報復を望んでいるところにあるともそうでないとも言い得る。 私たちが死者の声を聞こうと努めても、たとえ総意ではなくコンセンサスという形であれ、結局、報復を望むのか望まないのか、いずれもそれと断言できないのが本当のところだ。

 ――死者の声のコンセンサスを知り得ないとしたら、私たちはいったい、死者の無念をどうやって晴らしたらいいのか。死者の魂をどのようにして救済したらいいのだろうか?




-「死者の思い」-

12月29日 (土)


 26日付けの日記について2点補足しておきたいとした件。死者が結局はという意味においても報復を望まないというのはコンセンスだとは断言できないという現状では、論及するのは妥当ではないと判断。
 テロやテロリストに対する意識の在り方、報復攻撃やアメリカに対する意識の在り方を考える上で極めて重要な意味がある論点なので、いずれ別な機会に必ず書くことにしよう。
 そこで今日は、26日付けの日記に関連して、死者が報復攻撃を望むまいという憶測を反証する死者の思いをさらに考えてみたい。26日の記述ではまだ理不尽な死を余儀なくされた死者たちの無念な思いを十分に汲み取ったとは言えない。
 もう一度確認するが、死者の多くはテロリストたちに対しては彼らの解放と聖戦という大義に理解を示すことなく、あくまで己の命と魂、生活と人生と実存を奪った卑劣な行為を許しはしないだろう。そこには相応の憤怒があると思われる。
 だが、その己が体験を強いられた痛みと悲しみを、アメリカの報復攻撃によってアフガンの民衆もまた味会わせられることは、同じ被害者として望まないのではないか、という点はどうだろう?
 
 もちろん、死者が、個人的にはなんの恨みも敵意も憎悪も抱いていないアフガンの民衆に対して、報復攻撃によって、同じような痛みや悲しみを与えることを望むとは考えられない。その意味で「あなたは、あなたと同じ痛みや悲しみをアフガンの民衆に与える報復攻撃を望むか」と問えば、ほとんどの死者は否と言うだろう。
 しかし、その問いに、死者は違和感をもつだろう。

 「なぜ、テロの被害者である己――テロリストたちによって標的にされた己――が、テロリストとテロリストをかばう者たちへの報復攻撃による犠牲者――巻き添えになった人たちのことをおもんばからなければいけないのだろう? たしかに気の毒だし、ひとりでも犠牲者が減ることを望むが、でも、なぜテロの被害者である己が、犠牲者を生み出すことに対しての良心を問われるのだろう?
 そもそも、アフガンの犠牲者たちは、直接的にはアメリカの報復攻撃の被害者かもしれないが、その報復攻撃をテロリズムと完全に決別しビンラディンらテロリストたちを差し出せば回避できるのにテロリズムを聖戦などと強弁しテロリストたちを庇っているアフガン政府や当のビンラディンたちテロリズム思想と政策の被害者ではないのか。アフガンの犠牲者たちのことをまずだれよりも先におもんばからなければならないのは、テロという野蛮で凶悪な犯行を繰り返すオマルやビンラディンたち自身ではないのか? 彼らこそ、アフガンの罪なき民衆をいたずらに犠牲にしている張本人ではないのか。彼らは、報復攻撃をもたらしたテロを行った事と、その罪を認めて自首することで報復攻撃を停止させることを選ばず己の命と引き替えに多くのアフガンの罪なき民衆を巻き添えにしているという二重の意味で、アフガンの民衆を犠牲者にしてしまっているのではないか。
 アフガンの民衆が報復攻撃の巻き添えになることは決して望ましいことではないが、だからと言って、卑劣なテロリストたちの標的にされた己の無念を晴らすことを断念するわけにはいかない。理不尽な無差別テロを行った者たちに、聖戦だの、偉大な勝利だのと歓喜の叫びをあげさせておきたくはない。己の命と魂と生活と人生の全てを奪った者たちが、笑い、勝利の美酒に酔うことなど、絶対に承服できない」
 
 私には、そうした死者の声が聞こえる。
 果たして、この死者の声は、非道なものであろうか?
 
 ――しかしながら、私は、この死者の声が、総意であるか、また総意ではないまでもコンセンサスを反映したものであるか、という点については、やはりいずれとも確信をもてない。死者の意志を尊重した対処を私たちは取るべきだが、右の事実をもってしても、やはり、死者の多くが私たちに何を求めているか、判断は決めかねるというのが、私の現時点での実感だ。

 しかし、いずれにせよ、死者の無念の思いに、かくのごとき言葉があることは確かな事として、深く心に刻まなければならないだろうと、私は思う。



 

「八ヶ岳高原だより」