私の大好きで尊敬する映画監督の山田洋次氏が、NHKの「クローズアップ現代」に出演し、昨今の風潮として、「憎め、攻撃せよ」が強調されている、と語った。
 実に的確な判断であり表現であると、思う。これ自体には、「改憲論者」の私も全く異存はない。確かにそのとおりであり、それは極めて危険な現象だ。

 ただ、私が一方で納得できないのは、山田監督個人については知らぬが、多くのこの言葉に共感する人たちは、例えば、理不尽な威嚇を繰り返す北朝鮮に対して、戦争できるはずがないから安心だとか、北朝鮮がアメリカや日本に敵意をもつのも過去のいきさつを考えれば致し方ない、といった理解を示すことが多々見受けられるという点である。拉致問題などに対してさえ、日本はかつてそれ以上のことをやったのだからと妥協的である人も少なくない。
 
 確かに、過去の歴史の清算については、日本そして日本人はもっと誠実に対処する必要があると私は常々考えている。
 
 だが、とは言え、北朝鮮の理不尽さはそれによって免罪されるとは思えないのである。たとえ日本が謝罪し償いを行ったとしても、それとは無関係に、北朝鮮の軍国主義化と独裁政治は依然として継続されていくであろうことは客観的に認めざるを得ない事実ではないだろうか。
 
 また、北朝鮮という具体的な国家を想定しないまでも、ちょうどかつての日本の天皇制軍国主義やドイツナチスのファシズムのような危険な外交政策を強硬する国家が生じる可能性は皆無とはいえず、それを直視するならば、日本の主権と独立と自由を守るためのシステムを構築する必要性は認めざるを得ないと、私は考えているのである。

 それは何も軍事力に頼る話ではないという批判が聞こえてくるが、それに対して言えば、早い話が、日本が絶対平和主義路線を推進しさえすれば、他国から絶対に侵略や攻撃を受けなくてすむ、と言えるだろうか、と問いたい。
 他ならぬ日本はかつて、そのように中国や朝鮮に対して、誠実に振る舞ったであろうか。
 歴史の事実は、それが「真逆」であったことを証している。

 私は、その事実を直視するとき、完全に「自衛」に限定した形での軍事的防衛のシステムを構築することは、現状ではやむを得ないと考えるのである。

 そこで、冒頭の山田監督の言葉は、私には、「まず他者を愛せよ、自ら攻撃を仕掛けるな。ただし、理不尽な辱めを受けたなら、なされるがまにせず、断固として抵抗せよ」と、付記されるべきだと思えるのである。
 
 とは言え、実は、私の「現実的平和主義」は、上記を原則として、主権と独立と自由といった尊厳を原理的に担保したならば、今度は、反対に、舛添厚生大臣の過去の発言「戦争も一つの政治的選択の一つ」などというような安易な戦争容認を拒否し、且つ「憎め、攻撃せよ」との意識、感情に立脚するのではなく、あくまでも、まずは日本が、世界平和の実現に向かって最大限の努力を致し、他国との軍事衝突は最後の最後まで回避すべく最大限尽力しつくす、という意識感情をもって、政治外交を営むべきであると、論理展開をなすことになるのである。
 その平和への希求、戦争回避の尽力においては、「絶対平和主義者」にも勝るとも劣らずといった強い意志を抱くべきあると、私は考えている−−−それが、私の「現実的平和主義」の立場なのである。