「風立ちぬ」論ノート

文学の自立と状況に対する責任・役割

                     津吹 純平



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 堀辰雄が、高原をこよなく愛した作家であることは、良く知られている。軽井沢、野尻湖、富士見、野辺山など、これら信州の高原の名は、彼の小説や、随想・手紙などのあちこちに記されている。「風立ちぬ」は、浅間山と八ヶ岳の山麓に広がる軽井沢と富士見の二つの高原を舞台にした作品である。

 それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来るとそれからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遙か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした塊に覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れかけようとしているその地平線から、反対に何物かが生まれて来つつあるかのように……

 そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧っていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色が伸びたり縮んだりした。それと殆ど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐに立ち上がって行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。

 風立ちぬ、いざ生きめやも。

 ふと口を衝いて出てきた詩句を、私は私に凭れているお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。
   (新潮文庫「風立ちぬ」から)


 こうして書き始まるこの作品は、富士見高原のサナトリウムに、結核のため療養生活を送る若き女性と、付き添う婚約者の青年との間に繰り広げられる〈愛と死〉の物語である。「皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ」と青年が言う幸福を、ふたりは、深い静寂と緊張の中で、切実に求め、築き上げていく。それは些か、青年の側に、自己陶酔を伴う自己完結的な主観主義性と観念主義性とを感じさせるのだが、それはここでの主題ではない。
 大切なのは、「死」という絶対的な否定を、「愛」によって乗り超えようとした、という点である。言わば絶対不可避の「死」を、逆手にとって、それゆえにこそ「生」の豊かさと深さとをいっそう味わい得ると信じ、その事を証そうとしたという点である。
 新潮日本文学の年譜によれば、この作品は、1936年、つまり昭和11の秋に執筆を始め、翌12年の12月に脱稿したとなっている。つまり、先の主題は、堀辰雄の心の中で、少なくとも、昭和7、8年から12年末迄、4年以上にわたって育まれ、追求されていたことになるわけである。(尤も、「美しい村」では、主題そのものとして展開されていた訳ではないけれど)。
 ところで、その4年余という時代はどういう時代であっただろうか? 愛と死をテーゼとして、人生の幸福とは何か、と問い続け思索するに望ましい日々であったろうか?

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 昭和8年に遡ること2年、昭和6年9月にはその後14年間にわたる大戦争の口火となった「満州事変」が、日本の関東軍の手によって引き起こされている。翌7年1月には「上海事件」が勃発、国内でも2月9日に民政党の井上準之助前蔵相、3月5日に三井合名理事長の団琢磨、5月15には犬養毅首相ら政府要人、等々の暗殺が相次いだ。
 堀辰雄が「風立ちぬ」を執筆していた昭和8年は、どんな年であったろう?
 国定教科書が、元寇の際の大風を〈神風〉と教え、日本は〈神国〉であると「国体」観念を強調するものに改訂された。教員のレッドパージが猛威を振るい、長野県で「赤化小学校教員事件」が起きた。5月には所謂「滝川事件」が起きた。さらに、この年、小林多喜二が特高の拷問によって虐殺されている。
 翌昭和9年には、軍部の圧力が目に余るものとなり、10月に「国防の本義と其強化の提唱」というパンフレットが流布された。
 明けて昭和10年には〈思想統制〉にまで踏み込み、所謂〈天皇機関説〉問題が引き起こされた。一方、国外においては陸軍が政府の統制をと行政を全く無視する形で華北侵略を押し進め、日華事変への道を歩みつつあった。
 そして、「風立ちぬ」執筆の時期に当たる昭和11年と12年には大事件と重要な出来事が相次いで生じ、時局は益々悪化の一途を辿ることになる。2月26日早暁、近衛歩兵第三連帯らの22名の青年将校が1400余名の武装下士官、兵を率いてクーデターを起こした。斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。「2.26事件」である。事件は〈奉勅〉によって「叛乱軍」と断じられ鎮定されたが、その後軍部では軍幕僚層が「新統制派」を形成し、「皇道派」を粛正して軍の組織・支配機構を一体化し政治への圧力を強化した。戒厳令は7月迄解かれず、言論・報道、集会の自由は極端な制限下に置かれた。大正9年に始まったメーデーも禁止された。
 翌12年には、7月7日に「蘆溝橋事件」が引き起こっている。以後、「抗日統一戦線」の激しい抵抗を打ち崩すため、中国本土への侵略を一段と押し進めるに至った。特に、南京占領に際しては、日本軍は多数の婦人子供を含む住民に対する大虐殺事件、所謂「南京大虐殺事件」を引き起こしている。
 一方、国内においては、在郷軍人の大規模な召集、軍事予算の膨張、軍需工業動員法の発動、臨時資金調達法、輸出入品等臨時措置法の制定等々が起きた。さらに国民精神総動員運動が始まった。「八紘一宇」「挙国一致」「堪忍持久」などのスローガンを掲げ、パーマネントの禁止、国民服やモンペ姿を男女の制服として押しつけ、「贅沢は敵だ」として、国民ひとりびとりの私生活まで相互監視を計る風潮が作り出された。

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 ところで、この時代の危険な動き・流れに対して、所謂「反体制」勢力の人々はどのように対応したのであろうか。こうした言わば「戦争体制」への急速な傾斜に対して、心ある人々はどれほど抵抗し得たのであろうか。
 小林多喜二が虐殺された昭和7年には、共産党指導者の佐野学と鍋山貞親が、獄中から「転向声明書」を発表、以後、所謂「転向時代」に入ることになる。
 5年後の昭和12年には、社会大衆党が日中戦争の開始にあたり、同党の運動方針として「支那の植民地化、共産化を絶滅することによって日満支3国を枢軸とする極東新平和機構を建設し人類文化の発展に貢献せんとする支那事変は、日本民族の聖戦である」と表明、また、当時最大の労働組合であった総同盟は、10月の大会で「事変中、ストライキの絶滅を期す」と決議し、戦争荷担に走った。
 尤も、こうした侵略と戦争の賛美・肯定に堕する人々ばかりではなかった。戦争を批判したり、積極的協力を誓わない人々も僅かながら存在したのである。しかし、そういう人々に、権力は容赦ない弾圧を加えた。
 7月に、宮本百合子、窪川稲子らプロレタリア文学の作家や平野義太郎ら講座派のマルクス主義学者など、合法的な著作活動に専念していた文化人が一斉に検挙された。11月には、「国家の理想」という論文において、「領土の拡大のみが国家の目的ではない」と論じた矢内原忠雄東京帝大教授が削除処分を受けた上、教壇を追われた。また12月には共産党、講座派と理論的に対立していた労農派や左翼社会民主主義者の山川均、荒畑寒村、鈴木茂三郎ら400余名が一斉に検挙された。と同時に、日本無産党およびその傘下の日本労働組合全国評議会が解散させられた。
 さらに、反ファシズム運動の紹介に努めていた「世界文化」による新村猛らも検挙された。所謂「人民戦線事件」で、翌13年2月に大内兵衛らの大学教授らも検挙されるに至るのであるが、この弾圧に際し司法省は「今や民主主義・自由主義の思想は共産主義発生の温床となる危険性が多分にある」と発表して、これらの思想まで公然と否定した。これ以降、時代は、昭和13年の「国家総動員法」の制定、同15年の「大政翼賛会」「大日本産業報国会」の創立、同16年10月の「東条内閣」成立と続き、同年12月8日の「真珠湾奇襲攻撃」に至るというように決定的な〈破滅への道〉を突き進むことになるのである。

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 堀辰雄が、「美しい村」を書き、「風立ちぬ」を書いていた昭和6、7年から13年に至る年月とは、こういう時代であった。〈愛と死〉をテーゼとして、「人生の幸福とは何か」と問い、思索し続けた時代とは、こういうものであった。
 堀辰雄が感じていたであろう〈息苦しさ〉を、如何ほどか実感して戴けたであろうか。
 そこで一つ読者に尋ねたいのだが、時代がみてきたように、「侵略と戦争と軍国主義・ファシズムへの傾斜の時代」であるようなとき、「風立ちぬ」のような作品を書くことは、果たして何を意味するであろうか? 作家として、人として、それは容易な事であったろうか?

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 この、「侵略と戦争と軍国主義・ファシズムへの傾斜の時代」とは、思想の観点から言うならば、「絶対主義的天皇制と国家主義・日本主義の時代」と言うべきものである。今、ここで詳しく論述する余裕はないが、要するに、個人に対して、また他民族に対して、天皇と国家の、また日本民族の、絶対優位性と価値とを主張した思想・観念である。

 ところで、「風立ちぬ」は、西洋の匂いが色濃く漂う作品である。その文体はフランスのアンドレ・ジッドによく比較される。そこで描かれる軽井沢や富士見高原なども、実際の日本の農村風景に存する土着性や民俗性を捨象した極めて西洋的な風景になっている。
 この点に関しては、屡々「西洋被れ」との非難を浴びるほどに知られていることであるから、特に原文の引用をもって証明することもあるまい。むしろ、ここでは、平時においてすら先のごとき非難を受けるのであるから、「日本主義」という超ナショナリズム昂揚期にそれがどんな異質な感を人々に与えるかについて読者の格別な注意を促しておきたい。
 当時の人々、というより天皇制主義者や国家主義者、そして国家権力にとって、「風立ちぬ」が、歓迎されざる不愉快な作品であることは、その風景描写にとどまるわけではなかった。
 そもそも、主題そのものが、所謂「国体」と相いれないのである。「皆が行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ」と青年の言う幸福を求めること、つまり「死」という絶対的な否定を、「愛」によって乗り超えようとすること、それこそが絶対に否定されねばならない事なのであった。
 堀辰雄のこの観念には、「死」は「愛」によって乗り超え可能とされながらも、「死それ自身」はやはり絶対否定として定着されている。「死」は人生の幸福を決定的に奪い、人生の価値を完全に相対化し、人生の意味を根本的に虚無化する。
 堀辰雄自身、結核を病んでいたから「死」は極めて現実的な出来事であり、絶対的な事実であるように感じていたに違いない。もちろん、この点に関しては、よく指摘されているように、堀辰雄が「死」を、それとあまりにも永く向かい合ってきたゆえに、身近にさえ感じていたであろう、とも言い得る。確かに、「風立ちぬ」の静けさと落ち着き、その日常性などの佇まい・雰囲気はそれを思わせるのである。しかし、実はその平静さの底に、「死」への強烈な不安、怖れ、敵意が潜んであることを見逃してはならないであろう。

 しかし、私はまだ一度もその顔は見たことがないが、いつもその部屋を通る度ごとに、気味のわるい、なんだかぞっとするような咳を耳にする例の第17号室の患者のことだけはつとめて避けるようにしていた。恐らくそれがこのサナトリウム中で、一番重症の患者なのだろうと思いながら。……

 私はそれがあの第17号室の附添看護婦であることを認めた。「ああ、あのいつもの不快な咳ばかり聞いていた患者が死んだのかも知れないなあ」ふとそんなことを思いながら、雨に濡れたまま何だか興奮したようになってまだ花を採っているその看護婦の姿を見つめているうちに、私は急に心臓がしめつけられるような気がしだした。「やっぱり此処で一番重かったのはあいつだったのかな? が、あいつがとうとう死んでしまったとすると、こんどは?……ああ、あんなことを院長が言ってくれなければよかったんだに……」
        新潮文庫「風立ちぬ」より

 その「死」との対決の中で、堀辰雄は、異常な「孤独」をも体験したに違いない。己の「死」はなんびともこれを代わることができない。己の「死」は唯一己だけのものである、という実に厳しい「孤独」の真相を。
 そうした異常な「孤独」と絶対否定としての「死」とを乗り超えるにあたって、「風立ちぬ」の青年および堀辰雄は、どのような救済の在り方を求めたのであろうか?
 それは、あくまでも現世において求められ、信じられたのである。また「愛」に救済を求めたのである。しかもそのときの「愛」とは、徹底した個人の「愛」であった。共に追い詰められた独りの男と独りの女によって求められ、生み出され、育まれようとする、そういう完全に私的な「愛」なのであった。
 このように、「風立ちぬ」の主題は、徹底した現在(現世)性と個人性の上に立脚し、展開している。ある独りの人間の身の上に起きた悲劇は、あくまでも現在的(現世的)体験であり個人的体験であるとして、その救済もひたすら現在的(現世的)に、また個人的に希求されているのである。
 堀辰雄にとって真に大切なのは、独りの人間があくまでも現世において幸福になることであり、その人自身の私的体験を魂の奥深く、主体的に自由に宿すことにおいて幸福になることであった。堀辰雄は、言わば、人間の「実存」を問題にしたのである。彼がリルケを敬愛していたのも、ゆえなきことではなかったと言える。

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 こうした堀辰雄の思想は、所謂「国体」思想にとって、容認できるものであったろうか。
 否、絶対に容認できなかった。
 「絶対主義的天皇制と国家主義、日本主義」とは、私達を、ひとりの人間であるよりも前に、まず日本人であると規定するものである。そしてその日本人とは、己の幸福を、己自身の個人的な人生に求めるよりも、天皇と国家と日本民族の中に委ねることの方を尊ぶものとする、というのである。日本人である私の幸福は、私の個人的な人生、生活における様々な出来事と行為、つまり恋愛と結婚、出産と育児、学問することや働くこと等々に、その究極において求めるな、というのである。そして、天皇の栄光と国家の発展と日本民族の繁栄との中に、己の幸福の成就が存することを信じろ、というのである。
 尤も、こうした主張はそれ自身として乱暴かつ露骨に為されるのではない。私個人の学業や結婚とて社会的に価値ある出来事と見做され、その成就如何に私の人生の幸・不幸がかかっているのだという事は社会通念の上からも認められてはいた。しかし決して究極的に肯定されていたわけではなかったのである。あくまでも「国体」に背かないかぎりの事としてであり、天皇や国家や日本民族に従属させられた上での価値であり、人生目的なのであった。もし仮に、ひとたび天皇や国家の危急時に至れば、私は学業も放棄しなければならなくなるのである。また、もし仮に、私の結婚がひとたび「国体」に悖ると断ぜられた場合(朝鮮人との結婚や親の命に背いた結婚など)には、たちまち世間の非難を浴び、抑圧を受けることになってしまうのである。
 しかし、こうした在り方は、「主権在君」の憲法をもつその「絶対主義的天皇制と国家主義、日本主義」にとって、なんら不当なものではなかったのであろう。それどころか、その「国体」思想・観念によれば、そこには、個人を天皇や国家によって犠牲にするが如き矛盾は存在しないというのであった。そもそも、西洋の如き個人と国家の対立なぞ日本には存せず、天皇を中心として「大調和」あるのみである、というのであった。それは、犠牲にされる自己というが如き自己とはほんらいあってはならぬ自己なのであって、真の日本人としての自己は、天皇や国家や日本民族と従属関係におかれるものではなく、言わば、「区別はできて、分離はできない」というが如き一体のものという意味で、そもそも、犠牲にされることなぞ有り得ない、というわけなのであった。
 こうして、その欺瞞的な道徳は、恋愛も結婚も、天皇や国家や日本民族の栄光と発展と繁栄に貢献するものでなければならぬ、と説いた。天皇・国家・日本民族に寄与し、貢献する学問や労働に励むことこそ、日本人たるものの道である、と説いた。そしてさらに、天皇や国家の為に死ぬことを以て、最高の名誉とし、至上の幸福であると、説いたのである。

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 こうした「絶対主義天皇制と国家主義、日本主義」からすれば、堀辰雄の「風立ちぬ」の主題が、如何に許し難いものであったか、もはや、多言を要すまい。
 天皇・国家のために死ねることは最高の美徳であり喜びであるとする立場にとって、死は、言わば自我の最も輝かしい晴れ舞台とも言えるものである。死は、逆説的に、自我の絶対価値を証す場となる。さればこそ、人は「滅びの美学」を学び、「如何に死ぬか」を問うたのである。
 しかし、堀辰雄は、死を、人生の絶対否定として捉えた。そして、「如何に生きるか」を問うたのである。堀辰雄における自我は、死ぬことの中にではなく、生きることの中に、価値と幸福の存することを認めたのである。
 時に、「結核文学」なぞと称されて、死と孤独の悲しみや生への未練を綴るばかりの「軟弱派」のように言われる堀辰雄であるが、実は、その思想的次元において「生の絶対肯定」というが如き強靭さを発揮しているのである。蓋し、その本質において健康的な精神を抱いている人と言わねばなるまい。彼がゲーテを敬愛していたという事実は、もっと広く知られ重視されてよい事であろう。

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 さて、天皇制主義者や国家主義者らが、死生観以上に容赦できなかったであろう問題は、その徹底した〈個人性〉ないし〈私意識〉であったに違いない。
 彼らは、己の存在を、天皇や国家などと共生するものとして自覚し、意味付けている。そこに、平安と喜びと誇りとを感じている。そして大いなる感謝の心の中で、天皇のために自分は何をなせばよいか、と自問した。国家は、自分に何を欲しているか、と発想した。
 そこにみられる所謂「無私」は、私には、異常に屈折し抑圧された「私(自我)」意識そのものとしか思えないのだが、少なくとも彼らの自意識においては「無私の精神」の発露なのであった。
 一方、「風立ちぬ」の青年および堀辰雄には、その共生感はまったくなかった。むろん、平安も喜びも誇りも抱こうはずがなかった。また感謝の心をもって、自問し、発想することもやはり皆無であった。在ったのは、己の人生において、個人的に直接の交わりをもち、お互いに死の恐怖を共有した恋人との共生感であり、愛し合うことの歓びと幸福感であり、また愛する者のために自分は何をなせばよいか、という自問と、愛する者は自分に何を欲しているか、という発想とであった。
 つまり、この作品における主題は、徹底して個人的な関係を描写しているものであり、完全に私的世界の話であったという訳である。
 絶対否定としての死を、何びともこれを代わることができ得ないという冷厳たる事実として認識する者にとっては、天皇も国家も民族も、己の存在と一体のものであり、己の存在を保証し意味付けるものであるなどとは、到底信じ難かったのであろう。悲劇と不幸を食い止め救済するに足るものだとは、遙か思い及ばなかったのであろう。いや、実際は意識の裡に上ることさえなかったのではないか。
 しかし、結局、「風立ちぬ」の主題にみられるこのような思想や精神・魂の在り方こそ昭和初期の日本の社会においては、最も軽蔑すべき、恥ずべきそれらであったのである。
 天皇制主義者や国家主義者、民族主義者らには、堀辰雄は、命を惜しむ女々しい男としかみえなかったであろう。また、天皇や国家に対して感謝の念を抱かないとは、何て傲慢で不遜な人間か、と反発を感じたことであろう。天皇や国家にご奉仕せぬとは、如何に卑怯で見下げ果てた奴か、と憤怒をおぼえたことであろう。
 この時代は、そもそも、己の人生の悲劇や不幸を嘆いたり、我が人生の幸福とは何かと問うたりすること自体が、日本人として、恥ずべき振る舞いなのであった。なぜなら、前述のごとく、万世一系なる天皇を戴く日本人に、そもそも、尋常ならざる悲劇や不幸など起こるはずもないからであった。そしてまた、天皇・国家への感謝と奉仕の念を抱くことの他に日本人としての幸福なぞありよう筈もないからであった。
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 されば、「風立ちぬ」とは、どれだけ異常な文学作品であったことか。堀辰雄とは、何という許されざる作家であり、人物であったことか。
 昭和7、8年から12、13年にかけての「戦争と軍国主義・ファシズムへの傾斜の時代」という状況の中で、「風立ちぬ」の如き文学を成就させるということは、正に〈それ〉と全面的に対決することを意味していたのに他ならない。そしてまた、「絶対主義的天皇制と国家主義・日本主義」を、その根本において、〈超克〉していたことに他ならないのである。

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 ところで、堀辰雄については、「現実を描いていない、絵空事だ」とか、「現実から逃避してしまっているしまっている。社会的営為は無だ」といった、なかなか手厳しい批判がかなり根強くなされている。
 しかし、いまみてきたように、それが誤解であることは、明らかであろう。所謂、経済生活や社会生活を描いている訳ではないが、また時代状況そのものを主題にしている訳でもないが、堀辰雄自身の「人生の現実」を真正面から描写したのであった。むろん、それは、小説としての虚構ゆえにそれなりの美化と抽象化が施されていることであろうが、彼にとっては、人生を進み歩む上で絶対に解決しなければならない「現実」そのものであった、と言えるだろう。
 そして、直接社会的出来事を取り上げ、追求・解明した訳ではなく、極めて個人的な体験を描いただけとはいえ、そこに意味されてあったものは、時代と社会の現実に対する根本的で本質的な否定であった。ただ、彼の場合、その事を自覚し、一つの決意の下に行なったかと言えば、恐らくはそうではあるまいが、とにかく彼自身の芸術家としての〈行為と存在〉は、社会的現実から逃避した訳では決してなかった。
 わたしたちは、藝術作品を鑑賞しようとする場合、その表面に描写されているものだけをみるのではなく、その描写された何かが意味するものをも、見逃してはならないであろう。

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 蓋し、堀辰雄は、皇国史観イデオロギーの昂揚、軍国主義・国家権力の暴走という社会的現実の中で、「風立ちぬ」において、〈愛〉を描き、〈生〉を描き、〈個人の尊厳〉を描いたのであった。
                                            了


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