フランス映画『禁じられた遊び』と私の平和への希求



2003年1月1日「新・晩鐘抄録」掲載

青年時代に映画監督を志していた私が、今までに見た映画の中で最も感動し、最も好きな作品の一つは、フランスのルネ・クレマン監督作品「禁じられた遊び」だ。
 ドイツ空軍の空襲でパリ郊外の田舎の小さな橋の上で両親を爆撃機の機銃掃射で殺されてしまった5歳のポーレットという少女が、その田舎の農家の少年ミッシェルと出会い、暫くそこに保護されるも、結局は孤児院に引き取られていくというストーリーだ。そのミッシェルとのふれあいの中で、ふたりは教会や家々から十字架を盗み出し、それをふたりの隠れ穴蔵にコレクションする遊びを思いつくのだが、聖なる十字架への冒涜となるこの遊びを以て「禁じられた遊び」と邦題がついている。
 実は私が映画監督になりたいという願望を抱いたのも、この作品によるところが大きい。私にとっては、それこそバイブルのような映画だ。
 私は今ここで映画批評を行おうと思っているわけではない。少年期の後半から青年期の初めにかけてより「日本がまた再び戦争をするのではないか、ファシズムの時代がやってくるのではないか」という不安感に常に苛まれていた私は、「反戦平和」の志を当時から抱いていた。そして、その私に於ける「反戦平和」の闘いの在り方として、この「禁じられた遊び」という映画は、強烈な啓示をもたらしてくれたのだ。

 この映画は、宗教問題そのものが主題ではなく、あくまでも反戦映画なのだが、その反戦のメッセージを理屈っぽさを全く感じさせないで、一方で残虐な戦争を行う人間が他方でもっているヒューマニズム、人間の尊厳への意識、殺され殺しあうことへの嫌悪感、愛する者を失うことの苦しみと悲しみの感情……、こういった人間の魂の内奥に働きかけているところに、私は深く感動したのである。
 5歳の少女というより幼女といったほうがいい女の子の愛らしさ、汚れのなさ、無邪気さ、あどけなさを場面場面に満ち溢れさせることで、観衆に、戦争の本質を理解させ、戦争の悲惨さ実感させて反戦意識を芽生えさせるのだ。そこに「反戦平和」の闘いの原点と芸術の原点を見出した思いがして、私は心打たれ、以来、何度も何度も、この映像に見入ることになったのである。

 しかし、第二次世界大戦以後、人間は、第二の、第三の、数多のポーレットを作り出してきている。今日もまた世界のいずれかで、雑踏の中に死んだ母に似た女性を見つけて、日頃「ママは死んだの」と言っていたポーレットが「ママ! ママ!」と小さく叫んでその女性の後を追って消えて行くという慟哭せずにはいられない映画のラストシーンのような場面を、愚かな人間はその汚れた手で演出しているのだろう。
 或いは日本の歴史に「戦争」の二文字を刻むことになるかもしれないこの年の初めに当たって、私は、改めてポーレットに会うことにしよう。そして、「反戦平和」の志を堅く誓い、その原点にある「魂」の叫びを新たにしたい――。





2003年1月2日「新・晩鐘抄録」掲載
 映画監督を志した経験をもつ私が最も高く評価する作品の一つがフランス映画の「禁じられた遊び」だ。宗教的なモチーフを反戦平和の主題から捉え直した作品で、そのキリスト教批判と神への問いかけの問題を論じることもできるのだが、ここでは、私の「絶対平和主義」ならぬ「平和主義」の位相に絡んでくる問題を取り上げてみたい。
 私の意識は今二つの問題に向けられている。一つは、「論理と言語」――通俗的に言えば「理屈」――で反戦平和を訴える問題。もう一つは、「絶対平和主義」の問題だ。
 まずは、前者の問題を考えてみたい。
 昨日、「禁じられた遊び」は私に一つの啓示を与えたと書いた。
 戦争反対を、いわゆる「理屈」を前面に押し出したような脚本・構成・演出ではなく、人間の尊厳への誇りや愛といったヒューマニズムの位相、その魂の内奥に直接働きかける形で、静かに訴えるともなく訴えているのだ。
 そこに「反戦平和」の闘いの原点をみた思いがして深く感動したと昨日書いた……。
 そこで連日書いてきている私の「反戦平和論」――なかでも、故・黒田清氏批判――との間に、矛盾が生じているのではないかとの疑問を抱かれる方がおられるかもしれないと些か心配になった。

 とりわけ論理と言語に依拠し、異論反論の立場にある者の知性と理性に働きかけて、<対話>を試みる私の「反戦平和」に於ける営為、通俗的に言えば、<道理>を<理屈>によって明らかにし、戦争容認に傾きつつある過半の国民を説得し、反戦平和の国民的コンセンサスを成就するという私の手法との間に乖離は存するのか?
 結論から言えば、そこには些かの矛盾も乖離も存していないと、私は考える。
 私の故・黒田清氏批判は、決して氏の「心から心へ」の営みそれ自身を否定しているわけではない。あくまで、それと共に必要な、いわば「頭から頭へ」の営みを軽視している点に対する批判である。従って、私自身も、実は「心から心へ」の営みを重視している、それを反戦平和の原点にしていると述べることに、些かの矛盾も乖離もないと信じる。

 実際、あくまで私の「反戦平和」の原点は、ポーレットのような戦争孤児を生んではいけない、また、人に殺されるのも嫌だし人を殺すのも嫌だといった、心の在り方、魂の叫びに存する。
 ただ、その私の心、私の魂を伝えるに、映画や小説のような芸術作品を創作することが可能ならば、願ってもないことなのだが、今の私にはそれは叶わぬ夢だ。実際、そうした私自身の主観的な位相に於ける問題も存してある。

 と同時に、ここではそれ以上に、戦争容認に傾きつつある過半の国民の側の問題がやはり大きい。先日来書いているように、彼らは、単に状況に感情的に押し流されているというわけでは決してない。何も考えずに、ただ感情だけで戦争容認に傾斜しているのではない。彼らを愚民として蔑視するとしたら、それは大変に傲慢なことであり、それこそ人情にも欠ける態度であり意識だと、私は断言する。
 彼らは、状況の中で、彼らの論理と言語を育んでいる。率直に言って、いわゆる「現実主義派」の知識人たちの言動に影響されているところは少なくないとしても、彼ら自身がそこに納得して、自らの観念を形成しているのは事実だ。
 つまり、彼らから言わせれば、たとえば、「戦争反対は誰しも願うことでまことに結構だが、では国際貢献はどうなるのか。他国の国民の尊い血と命の犠牲によって、日本の平和と安全が守られているとしたら、単に戦争反対を叫ぶばかりか、その戦ってくれている同盟国を悪視し批判の声を浴びせるだけでいいのか。日本をそうした無責任で利己的な国として世界から孤立させてしまっていいのか」という事になるのだが、そうした彼らが抱いている「考え」に対して、それでも反戦平和の立場から現状を否定する私たちの「考え」を彼らに伝える必要があると私は考えているわけだ。
 それも、彼らの疑念に真正面から答えつつ、彼らの知識と認識と思考と判断のそれぞれにみられる誤謬を指摘する形で、私たちの「考え」を伝える必要があると、私は確信しているのである。

 本当に、そうした論理と言語を抱く彼らを愚民として無視することは傲慢で卑劣なことではないか。その彼らの主張に応えないのは、誠意ある態度とは言えないのではないか。人間の尊厳を守ることを目的とする反戦平和を唱える私たちにあるまじき行為ではないか――、私の内なる声はそう告げる。
 知性の位相、観念の位相に於いて発生している問題は、やはり同じく知性と観念の位相に於いて、解決しなければならないと私は考える。
 その問題を放置することは、彼らへの侮辱であるばかりか、実際問題として、戦争容認に傾斜しつつある過半の国民の民意を変革することなど殆ど不可能であろう。彼らの「考え」を真摯に受け止めた上で、私たちの「考え」を伝え、彼らの疑問・疑念を氷解させなければ、決して民意の変革は成就できないであろう。
 その<論争・対話>を通して、認識や思考の上での国民的コンセンサスの形成を成就することが、真の「反戦平和」の誓いを日本人の魂に宿すに至る道ではないか――。
 がもちろん、他方、もとよりそうした認識や思考の位相のみで、反戦平和の誓いが成り立つものではない。
 結局のところ、「禁じられた遊び」に感動する魂を原点として、そこに、知性や理性や悟性などの精神の位相に於ける合理的得心が備わったとき、「反戦平和」の志は真に、現状を<超克>し得るのではないか――、そう私は確信する。





1月3日「新・晩鐘抄録」掲載
 私が観るたびに慟哭を避けられないフランス映画「禁じられた遊び」が、「絶対平和主義」ならぬ私の「平和主義」の位相に絡んでくる二つの問題。一つは昨日取り上げた「論理と言語」――通俗的に言えば「理屈」――で反戦平和を訴える問題だが、今日はもう一つの問題、「絶対平和主義」の問題を考えてみたい。
 もしこの反戦映画に於ける「戦争反対」の叫びが「絶対平和主義」に基づく場合、今その立場に身を置かない私は感動する資格を失うことになるのだろうか、それとも、現実に感動し涙する以上、むしろ私の「平和主義」を捨て、やはり「絶対平和主義」の立場に身を置くべきなのだろうか――。この問いが私の意識の中に生まれ、その答えを求めている。 果たして、「禁じられた遊び」の反戦平和は、如何なる思想を原理としているのか?

 実は、ルネ・クレマン監督は、「鉄路の闘い」という、これも記念碑的な名画を作っている。これはドイツ・ナチに挑んだ勇敢な鉄道マンたちのレジスタンス運動を描いた作品だ。この事実を考えると、ルネ・クレマン監督は、「絶対平和主義者」だったわけではないことになる。だが、制作年度をみると、「鉄路の闘い」が1932年で、「禁じられた遊び」が1939年と、7年間の年月の差がある。「鉄路の闘い」というレジスタンス運動を賛美する映画を作ってから7年という歳月が流れて、「禁じられた遊び」という反戦映画を作ったわけだ。
 一般的に言って「絶対平和主義者」から「平和主義者」への変化は珍しくないと思われるが、その逆、「平和主義者」から「絶対平和主義者」への変化は稀だろう。となれば、「鉄路の闘い」を「平和主義」の立場から描いたルネ・クレマン監督が、「禁じられた遊び」を「絶対平和主義」の立場から描いたとは考えにくい。
 だが、と私の心の中の声が言う。「鉄路の闘い」を制作した時期はまだドイツ・ナチスへの敵意が強烈にあっただろうし、鮮烈な戦火の中での精神の高揚があったことだろう。その点、7年の歳月は、「今、この時」という実存的な極限状況の中での思考を、より普遍的で理性的な思考を生み出す可能性が存する。いわば、主体が、「私もしくは私たち」から「人間は、人類は」と意識変化を遂げたということも有り得ない話ではないだろう。
 こうして考えてみると、「禁じられた遊び」が、「絶対平和主義」または「平和主義」のいずれかで描かれたと断定することは甚だ難しい。

 この問題の証明は、ルネ・クレマン監督作品の全容にもっと精通しておられる方の判断を仰ぐこととして、今、私は、両者いずれの場合に於ける制作として考察してみよう。
 まず、「禁じられた遊び」の主題――反戦平和への希求――が「平和主義」の立場から描かれたとした場合だが、その場合には、私の感動との間に乖離はないと言える。ただ、もう一度ここで確認しておきたいが、「平和主義」とはいわば「正当防衛」の形で武力闘争を行うことを容認するも、決して「戦争も一つの政治的政策だ」なぞとうそぶく「戦争肯定論」ではない。原点には、「人から殺されるも嫌だし、人を殺すのも嫌だ」という人間的感情が存してあり、ポーレットのような不幸を、平時に於いて平和への努力を徹底し、また開戦回避の交渉をぎりぎりまで徹底するという形で、生み出すまいと最大限尽力する意識が存してある。
 つまり、「禁じられた遊び」は、「平和主義」の立場からも制作し得るし、感動し肯定することが出来るのである。

 次に当初の自問――私は感動する資格を失うことになるのか、それとも、感動し涙する事実から、むしろ私の「平和主義」を捨て、「絶対平和主義」の立場に身を置くべきなのか――について考察しよう。
 ここで考えなければならないのは、ポーレットの悲劇は、あのドイツ・ナチズムから、あの独裁者ヒットラーから如何にして回避し得たかという問題だ。開戦遙か以前の時点、ヒットラーへの支持がまだ国民のごく一部であった時点での話ではない。オーストリアを併合し、ポーランドを侵略し、ユダヤ人への残虐な殺戮行為を繰り返す、その直前の時点だ。その時点で、ヒットラーに対して、「絶対平和主義」からの和平交渉は果たして有効だったろうか。「絶対平和主義者」の呼びかけに、ヒットラーは、誠意を以て応えただろうか。ポーレットの悲劇を回避することに同意しただろうか。400万人とも言われるユダヤ人虐殺は、その殆ど全てが非戦闘員であり、もちろんポーレットのような無抵抗な幼い子供も数多含まれていたのである。
 この冷徹な事実を考えるとき、もし「禁じられた遊び」が「絶対平和主義」の立場から描かれたのだとしたら、その反戦平和のメッセージは、空虚なものとなってしまうだろう。「戦争は残酷なものだ。勝者だって大変な犠牲を伴う。不条理な悲劇が数多発生する。もう2度と戦争はしてはいけない。ポーレットのような少女を作り出してはいけない」――この心の痛み、魂の叫びは、決して「絶対平和主義者」だけのものではない。平和主義者とてそう本心から願っていることだが、しかし、ヒットラーは、そうした人間の尊厳をあざ笑いながら残忍きわまる殺戮を繰り返していく。何人ものポーレットを作り出していく。ファシストには、「無抵抗主義」は殆ど無意味だろう。ひょっとしたらどこかでその凶暴な殺戮は止まるかもしれない(私自身は、ヒットラーにそうした良心は皆無だと思っているが)としても、それまでに何人ものポーレットを作り出すことか。こうして考えてみると、レジスタンス運動を容認する「平和主義」の立場を、この作品が「絶対平和主義」の立場から描かれていたとしても、否として改める必要はないものと、私は考える。
 また、「平和主義」の立場にたつ私が、「絶対平和主義」の立場から反戦平和を訴える映画に感動することも、何度も言っているように、ポーレットのような悲劇を作り出してはいけないとの思いは共通であり、決して矛盾しているわけでもなければ、資格がないということにもならないと、私は考える。


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