<思想・状況>

「北朝鮮問題に関する一考察」:下



反感と敵意に孕む問題とは何か
津吹 純平


 北朝鮮の実態から見て、日本の若者が反感を抱くことそれ自体は致し方ないとは言えても、しかし、北朝鮮に対する反感は、やはり問題を孕んでいるのも事実だ。反感の増長には幾多の危険が伴うと言わざるを得ない。
 まず第一に、在日朝鮮人に対する差別と暴力が問題だ。なかでも、女子高生のチョゴリ服を切り裂く暴力は絶対に容認できない。言うまでもなく、女子高生に、北朝鮮政府の愚行の責任を問うのは不合理だ。彼女らは、北朝鮮国家の動向に些かなりとも、影響を与え得る立場にはいない。北朝鮮の国家政策にいっさい関与してはいないのである。そういう意味で北朝鮮とは無関係な彼女たちに暴力を振るうことは、政治的なテロと同等の卑劣な行為と言わざるを得まい。

 次に問題なのは、過去の植民地支配に対する謝罪の必要性を認めないという事だ。
 たしかに、好意と信頼と敬意を抱く対象ならいざしらず、嫌悪と不信を抱かざるを得ないこんにちの北朝鮮に対して謝罪するというのは感情的にすっきりしないというのも、理解できない話ではない。
 だが、過去に日本が数々の理不尽を行なってきたことは事実だ。それこそ北朝鮮の人々に好意と信頼と敬意を期待するどころではない、嫌悪と不信を抱かれても返す言葉もないほどの非道を行なってきた事実に変わりはない。そのような過去におかした罪悪が、こんにち現在の対象国の失態によって免罪されるわけではないことは明らかだ。蓋し、過ちは率直に謝罪されなければならないのである。       
 ところで、この謝罪に関して、国家賠償問題は解決済みとの主張もある。が、言うまでもなく、北朝鮮との間ではそれは事実ではない。また、中国や韓国の場合も、民意を代表しているとは認め難い独裁政権政府や軍事政権政府との交渉が、ほんらい国民に対して行なわれるべき謝罪と償いという事の性質からみて、真の解決を意味するかという点も問題であろう。日韓条約は国際法上、国家間の正式な取り決めだとして賠償問題は解決済みと主張することには、些か無理がありはしないか。

 北朝鮮への反感を抱くことでもう一つ問題なのは、日米合意に基づく国際紛争に対する日本の積極的な軍事的関与を容認するところにまで感情が及んでしまっていることだ。
 たしかに、東京を射程距離内とするミサイルを保有している北朝鮮に対する防衛は必須であろう。
 尤も、北朝鮮との緊張関係は、過去の歴史を清算していないことや日米韓の軍事網の存在などによって増幅している事実を見落としている点、従って真の緊張緩和のためには、贖罪や平和条約の締結などが必要であるとの認識が欠落している点に、軍事対決派の思考と意識の限界があると言えるのだが、しかし、そうした事情を考慮したとしても、北朝鮮の好戦的な態度は看過できまい。
 殊に、昨今懸念されているのは、食糧問題など国内事情の悪化、国家社会の崩壊の危機と絡んで戦争に活路を見出そうとするのではないかという点だ。
 それが直ちに日本への攻撃をもたらすと恐れるのは若干感情に過ぎると思われるが、万が一の事態に備えることは必要であろう。対立回避のための平和外交の積極的推進を計る一方、専守防衛の原則に立った防衛政策の構築はやむを得ないと思われる。
 だが、今回、日米合意に基づく防衛政策が志向しているのは、専守防衛の範囲を大きく踏み出すものだ。その詳細な分析は他の機会に譲らねばならないが、ここでは、軍事作戦計画が日本周辺の有事を想定している点を指摘しておきたい。
 言うまでもなく、憲法学者の間では圧倒的に違憲との声が高い自衛隊の存在も、日本の主権が侵される危険を回避するためにという意識のもとで、あるいは現実に日本の領空や領海や領土が侵略された場合に軍事行動を起こすという認識のもとで、国民的なコンセンサスに近い形で容認されてきたものである。つまり、想定しているのは、あくまでも日本の有事そのものだ。その一線を、日本は戦後守ってきたのである。保守政権といえども、そのタブーを破ることはできなかった。
 だが、今、日本政府は、アメリカの要請を渡りに船とばかり、戦後平和主義を捨て去り、新たな軍事行動の展開を画策するに至ったのである。
 それは、要するに、他国の領土での戦闘に、ほんらい第三者であるはずの日本が軍事的に関与するという事にほかならない。専守防衛の原則を根底から覆すことになるのである。
 これは、最早、防衛と呼べることではない。防衛の名において許容される問題ではない。
 〈不気味で好戦的な北朝鮮の先制攻撃・侵略から日本の領土と主権を守る防衛〉という枠組みで考える段階を決定的に逸脱してしまうのである。
 換言すれば、北朝鮮との間に戦争が勃発したとして、その際、日本自身が、実際にそうするかどうかは定かではないが、宣戦布告する側に立つことになるのである。防衛の名において、日本自身が戦争状態を作り出す当事者になってしまうのである。

 今、若い世代の間に浸透してきている北朝鮮への反感と敵意が、そうした戦後日本の平和主義と民主主義を根底から葬りかねない〈有事体制の確立〉という状況の容認にまで及んでいるのは、極めて危険な事態であると言わざるを得ない。

 尤も、彼らのほとんどは、〈有事体制の確立〉の実態について、正確な知識を有してはいないようだ。
彼らには、明らかに、〈不気味で好戦的な北朝鮮の先制攻撃・侵略から日本の領土と主権を守る防衛〉という枠組みのなかでの話だとの誤解が存している。如何に北朝鮮が批判をうけるべき国家だとしても、日本と北朝鮮の間での戦争においては、日本が相手国の領土に対して攻撃をしかける事を以って、日本自身が侵略者の汚名を浴びることになってしまうという〈有事体制の確立〉の陥穽について、明確な知識を抱いているとは言い難いのが実情だ。
 また、〈有事体制の確立〉を容認する若者には、あってはならない事だが、北朝鮮との間に全面戦争が勃発した場合、決して、日本領土外の戦地だけで済む話ではない事や、職業軍人としての自衛隊だけで済む話ではなくなる事などの認識が完全に欠落している。最初は義勇兵という名目で、遂には徴兵制によって、戦地に赴かざろう得なくなるであろうとの認識を抱いている若者はほとんどいないのが実情だ。
 従って、彼らが〈有事体制の確立〉の実態を知ればその判断も或いは変更されるかもしれないが、実際には、時が遅れれば、その可能性もなくなるに違いない。そうして、現実には、〈有事体制の確立〉に向けて世論形成上、一定の役割を演じてしまうことになるのである。
 さらに、ここで一つ強く指摘しておかなければならないのは、〈有事体制の確立〉を容認する若者には、集団防衛体制論の立場から日米共同の軍事行動を容認する過激な主張もあるという点だ。北朝鮮が相手なら、湾岸戦争における多国籍軍のようなものに、日本も積極的に参加すべきだとの物騒な認識を抱いている若者も決して例外的ではないという事実が存してある。
 もちろん、この若者たちも、〈有事体制の確立〉の、自らが戦場に赴くことにならざるを得ないという実態を明確に認識した上でそれと主張しているわけではない。
 だが、その事は、自分が犠牲にならないのなら、北朝鮮の民衆は殺傷してもいいという観念を抱いていることを意味しており、それ自体、見逃すことができない危険な観念である。

 いずれにしても、北朝鮮に対する反感と敵意が、こうした誤解や無知をはらみつつ、北朝鮮領土への武力攻撃を意図の一つとした〈有事体制の確立〉を容認するところまで、突き進んで行く状況は、まことに憂慮すべき状況だと言わざるを得ない。
 もちろん、その若者たちの意識には、北朝鮮に対する反感や敵意だけが存するのではあるまい。実は不安や恐怖も存しているに違いない。であればこそ、彼らの主観では「防衛」という位相において事は捉えられているのであろう。
 従って、〈有事体制の確立〉容認という「非」を指摘するだけで事は済まされないだろう。彼らの深刻な意識の闇にこたえることも必要だと思われる。北朝鮮との武力衝突を回避すべしとの立場に身を置く者は、同時に、若者の焦燥にも目を向けるべきであろう。
 その事は、厳に認識しておかなければならない。が、しかし、彼らの考慮すべき心情を以って、その危険で誤った判断と主張を容認するわけにはいかないのも、また当然のことだ。その底に不安や恐怖を潜ませた反感や敵意のもたらす危険は、十分に認識されなければならないし、明確に指摘されなければなるまい。
 蓋し、わたしたちは、今、北朝鮮への正当な批判を抱きつつも、己の心情に巣食う反感や敵意に対しては、努めて理性的に処することが大切であろう。
                                        1997年7月27日

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