『杞憂論』との対話       ――――「新・晩鐘抄録」より

杞憂論との対話1――戦争を好きな者はいない

01/28 (火)
 私が1987年に執筆活動を始めるようになり、「平和と民主主義」の「危機」の到来を訴えると、たくさんの人たち――著名な学者や評論家やジャーナリストも含めて――から、「それは<杞憂>ですよ。誰も戦争を好きな者はいないでしょう。
 自民党の政治家たちだって、一部のタカ派以外は、戦争する気はないでしょう」と、まともに受け止めて貰えなかったものだ。
 果たして、私の懸念はこんにち<杞憂>ではなかったことが実証されつつ――実は湾岸戦争に於ける戦費拠出や後方支援など既に参戦状態にあるが、先の発言は、例えば、アメリカ軍と一緒に、自衛隊の戦闘機や戦艦から武力攻撃するような場合を戦争と認識してのものだろう。その意味でここでは敢えて<実証されつつ>と表現することにする――あるが、戦争を好きな者はいないから、戦争する気は起きないというこの言葉は今もなお耳にする。そこで、その真偽について、私の認識を述べてみたい。

 この言葉を口にする人たちは、<戦争>を、過去の東京大空襲や広島・長崎の原爆投下やベトナム戦争の於ける北爆のような状態を想起して、あのような悲惨で何の利益もない愚かなことは今の政治家はしないだろうと考えているのだと思われる。
 確かに、政治家をはじめ国民皆が、<戦争>という言葉から、先のような事実を想起してくれれば、それでも戦争も「政治的政策の一つだ」なぞと桝添要一のような暴言を吐く人物は極く稀になることだろう。
 おいしい鍋物を囲んで一家団欒の食卓についている家族の家に砲弾が浴びせかけられ、一瞬のうちに修羅場と化してしまう光景、或いは病院の産婦人科室のあちこちでまだ生まれて間もないあかちゃんが若い母親のお乳を吸っていたり、おぎゃあ、おぎゃあと命の息吹を体中に漲らせて高らかに泣いているその真上にミサイルが撃ち込まれて瞬時にしてたくさんの母子ともども判別もつかぬほどに破壊される光景、多くの子供達が机に向かっている折り、戦闘機からの爆弾投下により校舎全体が火の海に包まれて逃げ場を失った子供達が熱さと痛みと恐怖の中で逃げまどう光景――、こうした戦争の悲惨で残酷極まりない実態を自らの心にイメージして、戦争もやむなしと考える政治家はなるほど稀かもしれない。

 だが、<戦争>という言葉から、全く異なったイメージを想起する人間たちも決して少なくないと私は懸念する。<戦争>に於ける戦闘を好む人は確かに存在すると私は認識している。
 戦闘機から砲弾の嵐を地上に向けて落下させ、あちこちで炎が立ち上がる光景に快感をもつ兵士、狙った該当物を寸分の狂いなく的中させることに快感を抱く者、昔「コンバット」というアメリカのテレビ映画が放送されたが、戦友仲間と一緒に敵軍に対峙し、綿密で機敏な作戦を遂行して敵を攪乱し、撃退するというヒーローになることを望む者……。
 暴力と武力による戦いは、男の闘争本能によるもので、男の花道だという戦闘に対するイメージを抱く人たちがいる。「戦争は絶対になくならない。なぜなら人間には<戦争>欲求があるからだ。殺し合いを好む本能があるからだ」と私に公言した人もいる。
 実際、私には理解し難いことだが、「禁じられた遊び」のように橋の上で逃げまどう人たちを低空飛行した戦闘機から銃弾を浴びせてわざわざ人殺しをする者も存在する。そうした残虐な行為に快感を抱く輩もいるのだ。

 が、戦争を積極的に遂行しまたは容認する者は、上記の如き戦争そのものが好きという人間性が著しく欠如した連中ばかりではない。
 相手の国家や民族に対する嫌悪感や敵意や憎悪の感情が自らの胸中を支配し、理性や知性では制御できなくなって、その感情のはけ口として戦争行為を求める者たちの存在がある。彼らにあっては、戦争とは、己の観念と心情の積もり積もったストレスを暴力という形に転換させて完全燃焼させてくれる代償行為というイメージとして自覚されるだろう。

 また、「きれい事を言っているだけじゃ、相手は譲歩しない。あとは力づくでも譲歩させなければ」と、話し合いの膠着状態に痺れを切らせて、武力による解決を求める人たちの存在がある。彼らにあっては、戦争とは、なかなかラチのあかない話し合い、協議――彼らの主観にそって言えば、こちらの正当な言い分を頑なに拒み続けたり、理不尽な主張を撤回しない道理に悖る相手に対する説得の限界――に決着をつける唯一の手段だという事になる。

 さらに殊に戦中派の政治家たちは、戦争とは、生死の境をさまよいながら闇夜を過ごした亡き戦友のイメージが胸中深くに宿るものとして存してあるかもしれない。その友への熱い思いから、彼らの無念を晴らすという意味合いで、戦争を遂行することに奮い立つことがあるかもしれない。
 いや、戦後派の場合でも、たとえば大好きだった戦死したお祖父様や父親への思慕として、その墓標への弔いとしてのイメージを戦争に抱いているかもしれない。

 ――こうして、<戦争>と言っても、人様々なイメージをもち、観念を抱いていることであろう。
 「戦争を好きな者はいない。自民党の政治家だって、戦争を本気でする人はまずいないでしょう」といった感慨は、<戦争>を、いわば「被害者」の目でその修羅場を見た人の抱くものであって、「加害者」としての目、またとにかく生死を賭けて戦うことへの美意識もしくは燃えたぎる激情、戦死した友や肉親をもつ人の怨念といった様々な要素をもつ人たちに於いては、また異なった<戦争>のイメージが存してあると、私は考える。
 殊に、自民党をはじめとした保守的な政治家たちの心情には、そうした<戦争>のイメージを抱いている者が一般国民の間でのそれと比較して、格段に多いはずだと、私は断言して憚らない。(1月23日、記す)



杞憂論との対話2――自民党のハト派が黙っていない

01/29 (水)
 私は、近い将来、日本が戦費拠出や後方支援から大きく踏み込んで、アメリカの戦闘機と列をなして、どこかの国に空爆を行うようになるのではないか、或いは海上から戦艦での砲撃を行うようになるのではないかと懸念している。
 そうした戦争政策が自民党単独政権ではもちろん、今の自民党連立政権の下でも取る危険が大きいと私は考えている。
 しかし、以前から、私の懸念に対して、「自民党にはハト派がいるから、そんな戦争政策を遂行しようとすれば、自民党自体が分裂して、結局、戦争は起きない」と、楽観的な見解を述べる有識者たちがいた。
 本当に、ハト派にそれほどの期待をしていいものだろうか? 彼らをそこまで信用していいものだろうか? 彼らにそれほどの党内に於ける力が存してあるだろうか?

 ハト派の歴史は古い。かつて僅か2ヶ月間という短期だが首相をつとめたこともある石橋湛山氏あたりを源泉として三木武夫元首相、赤城宗徳氏、宇都宮徳馬氏、鈴木善幸元首相、海部俊樹元首相、宮沢喜一元首相、羽田孜元首相、河野洋平氏、そして最近では白川勝彦氏などがその代表的な人物だ。こうして改めて並べてみると、結構、首相経験者や自民党総裁経験者が多いのに驚く。これだけみれば、自民党は一貫してハト派がその権力の中枢にいたように思えるではないか。
 だが、時の政治状況を知る者にとっては、上記の政治家の殆どは自民党が国民の支持率を大きく減らした際に人気回復の切り札として抜擢されたものであって、自民党全体として彼らの護憲平和主義を遂行する意志があったとは認め難いのが実態だ。
 実際、鈴木善幸首相時代に於いても、アメリカとこんにちの有事立法のさきがけとなる「シーレーン防衛」(1981年)の契約を交わしている。それ以外でも、ハト派政権の時に、「日米安保」を柱とする軍事同盟の強化が計られている。海部首相時代の自衛隊の海外派遣もその一例だ。つまりハト派政権が樹立したからといって、決して護憲平和主義を一歩二歩と前進させる政治が展開されたわけではないのだ。むしろ、「傀儡政権」とまで言えば失礼に当たるかもしれないが、国民へのカモフラージュとしてハト派は利用されてきたという歴史的事実が存してある。
 せっかくその自民党の中枢の思惑がどこにあったにせよ、最高権力者の地位に就いたのだから、持論の「護憲平和主義」に基づく政治を徹底的に実践し、タカ派的なきな臭いシステムや法案や政策を一掃するほどのことを為せばそのハト派としての存在も、「反戦平和」を願う人々にとって、信頼し期待し得るものとなったであろう。
 が、事実は、そうした強い覚悟と決断――そんな事をすればすぐに、首相の座から引きずり落とされたであろう――をもったハト派政治家は殆ど皆無だった。革新的な有識者の間でもかなり人気を博していた――彼のような人物が自民党の中枢にいる限り、自民党は改憲も戦争もできないとまで言われた――宮沢喜一首相なども、「日本が再び国際紛争に軍事的に関与し得る国家体制の確立に向けて動き出した」以降、それと真正面から対峙し、それを制止させ消滅させるような政策は全く取らなかった。
 ハト派の人物が党と国の最高権力者の地位に就いたにも拘わらず、ハト派の人たちはそれを支えきれなかったのだ。
 かの人ならばと期待し得た正真正銘のハト派の宇都宮徳馬氏などは、従って、党の中枢には一度も入れなかった。最近では白川勝彦氏なども、党を離れてしまった。

 ――こうした数々の事実、実態をみるとき、自民党内のハト派に過大な期待をもつわけにはいかないと私は考える。それどころか、ハト派が前面に出てきた時こそ、特に注意と監視の目を向けなければならないと、私は認識しているのである。(記・1月24日)



杞憂論との対話3――平和憲法がある

01/30 (木)
 私の状況の危機論を一部聞いた人が必ず言うことは、「今は昔と違って、<平和憲法>があるから、戦争することはできない」というものだ。
 「護憲平和主義」の立場にたつ人たちの認識では、「平和憲法」はその<第九条>により、戦争放棄と戦力の不保持を宣言しており、もしこれが守られていたなら確かに<戦争>は起きないだろう。
 だが、実際には自衛隊という紛れもない戦力が存在する。そして、平和的で民主的な憲法が存するにも拘わらず、戦費拠出を行い、シーレーン防衛を決め、後方支援を強行し、国内的には盗聴法やメディア規制法や有事立法という戦時体制下を成立せしめる悪法が次から次へと出てきており、その一部は既に国会を通っている。
 「平和憲法」が戦後果たしてきた役割は決して小さなものではなく、殊に日本が加害者となってしまう朝鮮戦争やベトナム戦争の際に、アメリカ軍に同盟軍として自衛隊を全面的に派遣することを回避させたのはやはり「平和憲法」の存在あっての事であったろう。もちろんその「平和憲法」を支持する広範な国民の存在が決定的であったわけだが、その国民の意識を戦争から遠ざける働きを、「平和憲法」が果たしていたのもまた事実であっったろう。
 こんにちの視点でみると、日本はその「平和憲法」の理念を具現化するために、積極的に且つ全力を以て政治を遂行してきたとはとても言えないが、とにもかくにも、全面戦争を回避し得た「平和憲法」の功績はやはり大きいと言わねばならない。

 だが、戦後の或る時期から始まったいわゆる「解釈改憲論」によって、「平和憲法」は徐々に骨抜きにされてきた。そしてこんにち、自衛隊の海外派遣や後方支援を許したばかりではなく、実は、今日の国会答弁で、川口外相が重大発言を行っているのだ。
 それは「自衛のために、敵の基地への攻撃を加えることも自衛の範囲内だ」という発言である。
 今までは「専守防衛」に徹するとしてきた日本政府の防衛政策が、自衛のためならば、敵の基地、つまり相手国の領土への攻撃も憲法上問題ないと、大きく軌道修正したことになる。
 この事は極めて重大だ。一見、先に攻撃を受けた場合、それを我が領土内から撃退するだけでは効力がないだろうから、やはり敵陣地を報復攻撃してこそ「自衛」の意味があるという見解は正当に思える人も少なくないだろうが、しかし、問題はその先に存する。日本にとって「自衛」だとしても、そして確かに先制攻撃を受けたあとの報復攻撃だとしても、とにかく相手国の基地とはいえ領土を攻撃するとなれば、その事を先制攻撃した相手国が怒る資格があるなしは別にして、実際には、さらなる反撃を行ってくるだろう。つまり、「全面戦争」の勃発という事態に発展する危険が極めて大きいと覚悟すべき行為なのだ。
 勿論、「全面戦争」ともなれば、一部の自衛隊員だけの話では済まなくなり、まさに有事立法による国民総動員態勢の政策が強行されることになるだろう。
 世界に先駆けた理想を掲げた「平和憲法」が存在しているにも拘わらず、こうした「全面戦争」に悪路を開く川口外相の発言は、「平和憲法」を形骸化し、ないがしろにすること、遂にここに極まれりといった暴言である。ここに至って、「平和憲法」は戦争の<歯止め>としての役割すら果たせなくなってしまうのだ。
 「平和憲法があるから、日本は戦争できない、戦争しない」という戦争を嫌い、平和を望む国民の声は、今や圧殺されようとしている。本当に残念なことだが、これが「平和憲法」の効力のこんにちただいまのリアルタイムの実態である。(1月24日・記)



杞憂論との対話4――これだけ豊かな国を壊すことはしない

01/31 (金)
 私の「戦争の時代が到来する」との警告に帰ってくる言葉として、「これだけ豊かな国を壊すことはしない。せっかくあの敗戦直後の破壊され尽くしてやっとここまで経済発展を遂げたのだからこれをまた灰と化すような愚かな事はしないだろう」というものがある。

 バブルが崩壊して何年も経つが一向に出口の見えない状態が続いている日本経済だが、とにもかくにも国民生活が戦後の荒廃期からみれば奇跡的な発展を遂げたのは事実だ。
 日本が馬鹿にしがちなヨーロッパの小国の国民生活と比較して心の豊かさは勿論、物質的な豊かさの点でも優るとは言えない実態ではあるが、それなりに豊かな物を数多の国民が所有している。東京・新宿の高層ビルは言うまでもないが、ニュースなどで見る地方都市の発展もめざましいものがある。
 昨夜のCNNだったかで、アメリカがイラクと戦争をやった場合の戦費が2000億ドルにものぼるような話をしていたが、日本もどこかの国と全面戦争をやることにでもなれば、相当の出費を覚悟しなければならない。経済不況のなかでさらに深刻な経済不況をまねくことになるだろう。
 常識で考えれば、そんな国益に反するような事をやるはずがない。今の日本はたとえ戦争をしたくてもできる状態にはない、というのが妥当な結論だろう。

 が、しかし、戦争は一部の商人を儲けさせる有力なビジネスともなるのが実態だ。「死の商人」と呼ばれるように、彼らにあっては、国益よりも己の利益を優先する意識が強い。これこそ「売国奴」と非難すべき輩だと思うが、とにかくそうした商人(勿論、現在の日本では企業がその主体となる場合が殆どだろうが)が存在する事実は忘れてはいけない。
 それに、戦争という事になれば、いろんな兵器をはじめいろいろな軍事物資が必要となり、生産高が落ちている産業に活気がよみがえると期待したり、戦後の復興でやはり産業が活性化すると期待し、そう主張する経済人や経済の専門家と称する人物も出てくるだろう。
 さらにまた、ここでもやはり、理性を失った感情に支配される政治家やメディアやメディアに登場する評論家たちや国民の存在が問題となる。
 万が一、戦争相手国が北朝鮮だった場合に、「あんな言いたい放題、やりたい放題にしている国、テロや拉致や言論統制や独裁体制をして開き直っている国、日本を舐めてかかって威嚇する国をそのまま放置していていいのか。あそこまで誇りを傷つけられ屈辱的な事を言われても黙って我慢しなければならないのか。朝鮮人なんかに舐められてたまるか」といった差別感情も入り混じった嫌悪と敵意と憎悪を募らせる国民は決して少数ではないだろう。
 ワールドカップで日韓共同開催を成功させ、特に若者たちの間で親近感が増しているとはいえ、まだまだ国民全体としては朝鮮人への感情は決して好ましいものではないうえ、相手が韓国ではなく北朝鮮であるということで、やはり日本人に於ける過剰なナショナリズムの噴出が心配されるだろう。

 もう一つ忘れてはならないことは、日本の参戦の相手国がイラクのような国――日本本土が直接攻撃される危険のない国――だった場合には、それでも多額の戦費が必要となるにしても、国内の近代都市が攻撃され破壊され廃墟と化すという心配のない場合には、なおのこと、戦争の危険が増すだろう。
 「せっかくここまで豊かに発展したものをまたゼロ、いやマイナスにまでしてしまう戦争などできるはずがない」という楽観論は、やはり戦争回避にとって、それほどリアリティのある根拠とはならないと、私は考える。(1月25日・記)



杞憂論との対話5――マスコミが反対する

02/02 (日)
 「今は昔と違って言論の自由があり、マスコミも発達しているので、戦争ということになれば、マスコミが反対するだろうから、政府は戦争を起こせない」
 これも、私が「戦争と戦時体制」到来の危機を訴えると必ずと言っていいほど、「それは杞憂だ」と反応する人が持ち出す根拠となる言葉だ。
 しかし、私は不思議に思うのだが、今のマスコミをみていて、どうしてそんなに楽観的になれるのだろう?

 なるほど、現在も連日アメリカによるイラク攻撃や北朝鮮への威嚇に対して批判の声をあげている。イラク攻撃には反対の立場を取るも、アラブ・イスラムの世界に深い疑念を抱いている私などからみれば、その余りにも勧善懲悪的な反米一辺倒のキャンペーンにはついていけないほどだが、こうした報道の実態をみて、かの「杞憂論・楽観論」の立場に身を置く人たちは、マスコミの反戦平和への営みに大きな期待と全幅の信頼を寄せているのであろう。
 
 だが、実際問題として日本のマスコミがどう対処しているかなど殆どその国策に影響を及ぼさないアメリカに対する反戦平和のアピール――従って、アメリカから特に抑圧や強制など不当干渉もない――など、或る意味では単なるパフォーマンスにしかならない報道ではなく、メディア規制を考えている日本政府や事あらばテロにも走りかねない一部の民族派の抑圧や攻撃に晒される日本の戦争行為の危険に対して、どうマスコミが対処しているのか。
 特に常日頃から左翼的というより反権力のスタンスから政府与党批判を展開している久米宏氏や筑紫哲也氏など代表的なキャスターたちの言動、その番組制作はどのようなものになっているか。
 昨日も書いたことだが、川口外相の「自衛のために、相手国の基地に報復攻撃を致すことは憲法上問題ない」といった重大発言に機敏に反応することもなく見過ごしてしまった彼らに如何ほどの期待が持てるというのだろう。

 イージス艦派遣の際も、相変わらず戦後護憲平和主義の立場から、単にそれが憲法違反か否かという観点のみで捉え、問題の核心は、それによって日本がアメリカと一体化して戦争行為に踏み込む危険が生じたという点にある、仮想敵国と世界各国にそう認識されることを想像し得ず――従ってその観点から国民に是非を問うことも果たせず――といった、どこの国の話ではないまさにわが日本の<戦争と戦時体制>の危険性についての現象に全くと言って過言ではないほど鈍感な対応に終始している現実は、今やマスコミに「平和の砦」を期待するのは幻想に過ぎないと私は考える。
 勿論、私のマスコミ・ジャーナリスト・キャスターたちへの不信感は上記の2例のみによって生じているわけではない。今までも、ダグラス・ラミス氏への手紙の中でも詳細に書いたように、様々な問題点を見出しているのだ。

 マスコミが連日力を入れて取材し報道しているのは、現実の政局のみであって、マスコミ自身が主体となって、時代状況の問題点を探り出し、そこに於ける論点を考察して、国民の前に明確に提示するということなど殆ど実践していない。
 たとえば、有事立法に関しても、その論点を報じるに当たって、国会の内外で為される実際の政党間や政治家たちの言動を追いかけるだけに終始し、具体的に言えば、例えば自衛隊の海外派遣は国会の事前承認が必要か否かといった政府与党と民主党との間で為される議論をさも重大事であるかのごとく連日報じるだけで――そもそも現在の政治家たちの大半が「絶対平和主義」という「平和憲法」を無視するばかりか、アメリカとの同盟関係を絶対視して、川口発言が出るほど<戦争容認>に傾斜しているなど「反戦平和」の位相から言えば決定的な限界をもつ政党・政治家同士の不毛の議論を評論家という肩書きの政界情報通に過ぎない人物まで出演のさせて詳細に解説させるだけで――実際問題としてアメリカへの軍事協力はどこまでやるのか、アメリカへの軍事協力を拒否した場合の予想される事態はどんなものであり、それにどう対処するのか、また川口外相の暴言にみられるごとく、日本の全面戦争に発展しかねない軍事行動まで起こす覚悟をもつのか、国民はそれを認めるべきかどうか等々、マスコミ自身が事態を考察して問題の核心に迫る争点を国民の前に詳細に分かりやすく報じるという事ができていないのが日本のキャスターなど個人の限界も含めてマスコミ・ジャーナリズムの実態だ。

 イラク問題にみられる如く、一方の立場にたって――或る意味で問題の当事者の立場から――特定の主張をキャンペーンとして展開する、そういうラジカルさは結構日常的にやっているのだが、先に述べたような、実際の政局や、はっきり言って、認識力や思考力の不足や価値観からの志向性の枠の中で行っている政党間、政治家間で交わされている議論ではなく、ジャーナリスト・ジャーナリズムに価する、現象の奥に潜む問題の核心をえぐり出し、問題点を分析し、論点を明確にする思考の営みに於いて、現在の彼らには殆ど期待できないと、私は考えている。

 さらに付加して言えば、経済的ビジネスの利益を至上主義としている現在のマスコミでは、先のような国家の平和と安全の維持にとって、また国民の日常生活の平安と楽しみの維持にとって極めて重大な問題に対する報道の量自体も著しく少ないという点も指摘しておかなければならない。
 どの俳優が結婚したの、どのタレントが離婚したのといった芸能関係等娯楽に関わる情報や人気俳優のトレンディドラマなどは夥しい量の企画が為されているが、国民がそうした娯楽に興じることのできるために絶対不可欠な平和と民主主義といったハードな問題は、実に少ない量に抑えられている。
 文化と文明の発展に貢献することよりビジネス産業として利益を優先させるテレビなど視聴率至上主義に陥っており、結果、<戦争と戦時体制>に向けた現状容認の意識や観念の深まる世相を憂い、「反戦平和」の闘いを希求する私たちにとっては、まことに腹立たしい限りの状態にあると言えよう。

 事ほどさように、「マスコミがあるから、戦争にはならない」という期待と楽観は、殆ど幻想と言わねばならないというのが、私の正直な思いである。(1月26日・記)



杞憂論との対話6――国民が反対するpart1

02/03 (月)
 私の「戦争と戦時体制」到来の危機を唱えることに対して、それは「杞憂だよ」と楽観的な発言をする多くの方がその根拠として口にするのが「今は、昔と違って<言論の自由>がある。それに国民も賢くなっているから、戦争には反対する」というものがある。
 果たして、この見解は妥当なものであろうか?

 確かに、今の国民の大半は50年前とは大きく異なった価値観や観念をもっており、かつてのような植民地支配と侵略戦争を容認する危険は皆無と言えるだろう。平和と民主主義に対する信頼と支持は殆ど絶対的なものがあると私もそう認識している。
 その健全な感覚と良識に私も期待すればこそ、こうして、絶望的な思いに囚われながらも、<状況変革>に向けて孤軍奮闘しているわけだ。「今の国民なら、実態を知れば、状況の真相を知れば、ものの道理を明らかにして提示すれば、必ず反戦平和の志に目覚めてくれるはずだ」と己を鼓舞してメッセージを伝えているのである。

 だが、その期待し得る国民も、実態を的確に把握できなければ、結局、現状容認に流れてしまうだろう。現状はまさにそう動いているではないか。
 戦争そのものは好ましいとは考えていなくても、テロや大量殺戮兵器と関わりをもち、また自国内に於いても個人崇拝と言論統制の独裁国家として、国内矛盾の隠蔽や民衆に飢えや貧困や搾取といった犠牲を強いているような国家の存在に対して、国際社会の平和と安全を求め、罪のない善良な民衆の窮地を救済するために、頑なにして高圧的な国家主義を貫く独裁政権を転覆するためには最後の手段として武力攻撃もやむなしとし、日本もアメリカとの同盟関係の絆を維持する必要上、それ相応の義務と責任を果たすべきだろうと考える国民も数多い。
 マスコミでは連日イラク攻撃反対のキャンペーンを展開して、その意向に沿った世界各国の戦争反対の集会やデモなどを報じているが、なぜか、イラク攻撃に対する賛否やアメリカ軍が行動を起こした際には日本もそれなりの協力をすべきか否かといった重要な民意を問う世論調査などは行っていない。

 勿論殆どの国民は戦争が勃発すること自体は望んでいないだろうし、アメリカ・ブッシュ政権の好戦的な姿勢にも同意しかねるものを感じているだろうが、しかしイラクや北朝鮮への疑念や不安も同時に抱いており、それが明確に解消されることを強く願っているだろう。イラクや北朝鮮に、国際社会を揺るがすような危険な軍事開発や国策は絶対にしてほしくないと強く求めてもいるだろう。その疑念や不安が解消されない以上、危険が小さなうちにその芽を摘むんでしまったようがよいかもしれないと、そして上記のようにアメリカとの同盟関係や国際貢献という意識の中で、日本の軍事協力も或る程度は仕方がないという、平和と戦争その両者の間で心情が日々揺れているというのが実態ではないだろうか。

 そこで、私が再三問題にしているのは、日本の協力といった場合に、「専守防衛」といった枠から大きく逸脱する方向で事態は急激に進んでいるわけだが、いまだ国民の過半はその実態を的確に認識していないということだ。
 また、薄々そういう印象を抱いている国民もアメリカとの同盟関係や国際貢献という観点に於いて妥当な認識判断を持ち得ていないがために、結局、日本が全面戦争に巻き込まれるほどの危険な事態に向かいつつある現状に対して否の声をあげていないということだ。

 これはマスコミの問題でも言った事だが、だからこそ、マスコミは、実態を的確に分析し、国民の前に、いま日本国民が選択を迫られている事態とはどういうものなのか、現状の推移の先にあるものは、日本人にどういう事態に対する覚悟を求めるものであるのか、また、それならば、アメリカとの同盟関係や国際貢献についてどう考えるべきか、どう日本の責任と役割を果たすべきかについて、的確な思想によるメッセージを明らかにする責任と役割が存するのだが、その期待も殆どあてにならないのが現状だとすれば、国民の平和への希求――改憲論が過半を超えたとはいえ、<憲法九条>は変えるべきではないと答える世論がまだかなり優勢だそうだ――も、残念だが、<平和の砦>足り得ないだろうと、私は考える。(1月29日・記)



杞憂論との対話7――国民が反対するpart2

02/04 (火)
 私の「戦争と戦時体制」到来の危機という警告に、「昔とは違って言論の自由があるので国民が反対する」という楽観論が、現状をみる限り、残念ながら適切な認識・判断ではないことを昨日書いた。
 今日は少し位相を変えて国民世論の問題を考えてみたい。

 二つの状況が考えられるだろう。一つは、国民自身が戦争と戦時体制へ傾斜していく状況だ。
 敵国となる国家による日本そのものへの犯罪行為や国際的な犯罪行為があった場合に、それを実態以上に拡大し、マスコミなども反復報道することによって、日常的な現象であるかのように印象づけるだろう。
 また、昨年の9月11日のニューヨークへの同時多発自爆テロ以来、テロへの恐怖心は高まっており、その国家が関わっている場合は当然だが、そうでなくても、他の国家によるテロが発生した場合にも、テロへの恐怖と不安を募り募らせて、日本の「防衛意識」を高めるだろう。
 そして上記の現象を通して、国民自身の中から自然に生じるであろう反感や嫌悪感をさらに増長させるような事実を付加し時に演出して、強い敵愾心を煽るという事もあるだろう。
 その結果として、相手国との紛争に於いては、日本の「正当防衛」が強調され、客観的には正義と国際秩序を守るための正当且つ必要な戦いであり、俗に言う「戦争」という如きものではないことが政府とそれに同調するマスコミによって強調されるだろう。
 勿論、政府によって、「これから日本はどこそこと戦争をします」などとは国民に向かって宣言するわけはなく、あくまでも、「正当防衛」や「正義」や「国際秩序の維持」や「自由と民主主義の擁護」といった言葉が飛び交い、また国民自身もそういう意識に支配されていくだろう。
 そこでは「国際貢献」という大義名分と、アメリカとの同盟関係の絆という大義名分が唱えられ、日本人の意識を、勃発しつつある全面戦争に傾斜させていくものと思われる。
 勿論、そうした建前と胸中で併存する意識として、「既得権益」の確保に対する強い意識も見出せると私は考える。

 二つの状況のもう一つは、「戦争反対」を口にできない雰囲気が作り出されるという状況だ。
 上記の現象が生じてくれば日本人の民族性として、異論・反論を認め難いところがあるため、自然に「反戦平和」を唱えることは憚れる状況になるだろうが、それを政府や同調するマスコミ等の画策によって、より徹底的に封じ込める状況が醸し出されるに違いない。
 スポーツなども利用して折に触れてナショナリズムを刺激し、愛国心と憂国の情を煽り、世論を形成していくだろう。
 また企業・会社などでも、経営者の陣頭指揮のもと、そこでの人間関係に於ける力関係を利用し、「愛国・憂国キャンペーン」が日常的に展開され、半ば強制的に状況を容認することが求められるだろう。

 勿論、さらに強圧的な事態も予測される。国家による「言論統制」だ。そこでは、国家機密法やメディア規制法や盗聴法や、そして有事立法などの法制化が進み、国策に反対する者を厳しく監視し、威圧し、逮捕し、弾圧することも有り得ると、私は考える。
 そうした国家権力の発動に連動して、民間では、いわゆる右翼によるテロも発生することだろう。ここでは、既存の右翼とは異なる「民族派」と称すべき人たちの存在があり、彼らが既存の右翼のテロにどういう反応を示すか非常に注目されるが、テロに対する恐怖は、善良なる一般市民の「反戦意識」に大きな動揺をもたらすだろう。
 
 以上、「戦争と戦時体制」の到来に際して、二つの状況から起き得る現象を考察したが、こうしてみてきただけでも、ある異様な世論が形成され、世情が醸し出されることは明白に思われる。
 そうした状況の中で、「戦争反対」を口にできる国民がどれほど存在するのか、「非国民」という言葉も復活するような世相の中で、命がけで「戦争反対」の声を発する人々が如何ほど存在するのか、存在し得るのか――、私は、大変に悲観的な思いを抱かざるを得ない。
 「今の国民は昔と違って言論の自由もあり、賢くもなっているので、政府が戦争しようとしても、それに反対するはずだ」という認識は、状況の実態に照らして、余りにも甘い見方であると私は考える。(1月29日・記) 



杞憂論との対話8――今の若者は協力しない

02/05 (水)
 「戦争と戦時体制」到来の危機と若者の関係については、ダグラス・ラミス氏への手紙の中のほか、随所で私見を述べているが、「杞憂論との対話」と題したここで改めて考察してみたい。
 「若者が戦争に反対する。少なくとも協力はしない」と、全面崩壊に近い「平和の砦」の中で若者に期待する人たちがその根拠としてあげるのは主に次の5つだ。
1.国家の事には関心がない。日本人としての自覚はあるものの、国というものには関心が殆どない。
2.国家や天皇への使命感や忠誠心など全くない。
3.自分の興味関心が湧く物事しかやろうとしない。
4.損得勘定で動く。善悪とか、奉仕・貢献などでは動かない。
5.楽な事しかやらない。苦役は避ける。

 なるほど、日頃目にし、耳にする機会の多いこんにちの若者像とはこういうものかもしれない。勿論、神戸の震災時にみられた如く、ボランティアに参加する若者も少なくないし、サッカーに熱狂する若者も数多いるし、ただただ利己的で無気力な若者と断定したら偏見になろう。
 が、事、政治的なことに関してはほぼ上記のような事が言えるだろう。私自身、何人もの若者自身から上記のようなことを言われ、「だから、戦争なんか、日本はできませんよ」と、私の危機論に異を唱えられたことがある。

 だが、私は上記の事象から若者の反戦・厭戦意識を見、「戦争不成立」を想起するのは、やはり大きな間違いだと考える。
 そこには、「戦争と戦時体制」に向かうときの国家権力の在りようと社会状況、及び人間の「エゴ」の働きに対する大きな認識の欠如が存すると言わざるを得ない。
 私が良く出す事例だが、東大生に「もし、徴兵制度ができて、召集されたら、あなたはどうするか?」という記者の問いに「徴兵カードを焼き捨てる」と答えた場面がテレビに映し出されたことがあったが、これなど、日本を、戦時中でも野球やフットボールやバスケットに熱狂するアメリカと同一視しているが如き非現実的な観念論である。日本が戦争に向かう時、何が起こるか――、国民に対し、若者に対し、国家権力はどのように動いてくるのか、またその国家権力に同調したマスコミや民間反動勢力がどのような動きをみせるか――、そうした事へのリアルな認識が欠如した非現実的な認識だと言っても過言ではないだろう。

 国家機密法、盗聴法、メディア規制法、有事立法などの戦時体制下を形成する法が整備され、国民総動員令まで発令されるなど「法」という国家権力の正当な行使が遂行される中で、戦争の対象国となる国への恐怖心や反感が増長させられる報道が連日連夜マスコミによって為されるに及んで、若者の国家・天皇への「無関心」と、自己満足と打算という「エゴ」がどのような動きを見せるだろか、いやどのような動き方が可能であろうか。
 平時に於いてこそ、国民が国家権力の動向を支配しているかにみえるが、非常時に於いては、逆に、国家権力が国民を支配する事態が露骨に具現化される中で、若者はどうそれに対処できるというのだろう。「俺には関係ない」なぞという言葉が国家権力を拒否する力を持ち得るとでも言うのだろうか。

 また、天皇への忠誠心の問題にしても、過日、「天皇制」について述べた際も言ったが、こんにち戦時下に於いて国家権力にとって最低限必要なのは、天皇ご自身に対する若者たち心底の忠誠心の有無ではない。
 天皇の存在が日本国家の中枢であり超越的な存在であり、それを拒否することは、「非国民」の汚名を浴びせかけられ、命をも狙われるほどの危険な行為であると知らされた場合に、それに服従する姿勢を示させることができればそれでもいいのだ。
 若者たちの「損得勘定」や「楽を求める」や「自己愛」など「エゴ」の働きは、国策に対する平時に於ける選択と非常時に於ける選択とでは、180度も異なるものになるに違いないと、私は断言して憚らない。
 若者が端的に言ってしまえば「エゴ」で動くと言うのであれば、まさにそれゆえにこそ、「法」を盾にした「戦時体制」が成立するに及んで、国策に従順に従うだろうと私は考える。
 その時点で若者が国家権力に抵抗することを期待するのは殆ど幻想に近いと私は正直思う。
 勿論、一部の政治的にラジカルな若者たちの間ではそれこそ武装闘争をも辞さない反国家権力の動きがみられるかもしれないが、過半を遙かに越える一般の若者たちは、皆、その「エゴ」ゆえに、今この時、自分を守る、自分の利益となる行動はどちらを選択することなのかと自らに問い、国策への協力、国家権力への服従を選択することになるだろうと、私は考える。
 「他者」との関係を客観的に的確に見定めた「自我」とは異なり、他者が見えていない自分自身の「主観」のみでできている「エゴ」の働きとはそうしたものだろう。

 実は、私が懸念するのは、若者が、そうした戦時体制の成立以降、消極的に、「自己保身」のために、国策に協力し、国家権力に迎合するばかりか、むしろ、ナチスではないが、積極的に時流の先頭を突っ走る危険すら大きいという事だ。
 たとえば事態が、いきなり相手国の先制攻撃から始まり、日本の領土から戦火が立ち上った光景を目の当たりにし、実際に家族や友達の中に犠牲者が出たりなどした場合、国中が異常な騒乱状態に陥った情勢の中で、自警団が組織され、志願兵の募集が行われたりした場合、果たして、それでもサッカーやコンピュータゲームに熱中していられるのか。
 「絶対平和主義」を唱えることは考えられなくも、せめて私の「平和主義」を遵守する立場を貫き得るのか――、私は極めて悲観的な予測しかできないのである。

 尤も、事態は目覚めた朝突然に「戦争状態に入れり」という形で起きるとは限らない。徐々に国際関係が悪化していく状況も考えられよう。さればこそ、私は、まだこんにちの時点では「反戦平和」の闘いは有効だと信じ、メッセージを伝えねばと心しているわけだ。平時に於いて、平時であるうちに、若者の「無関心」と「エゴ」に、良い意味でのプレッシャーをかけて、こんにちただいまの客観的事態に対する的確な認識を生ましめると同時に、非常事態に於ける抵抗には大きな限界が存するとの認識も育み、今がラストチャンスであることを訴えたいと、私は考えているのである。
 しかし、私の試みが単に私個人の営みに終わるならば、そうして事態が戦時体制の確立にまで及んだ場合には、多くの有識者でさえ期待している若者たちの反戦なり国策への非協力なりによる「戦争不成立」という事態はまず起きることはあるまいと、私は考えざるを得ない。(1月30日・記)



杞憂論との対話9――周辺諸国が反対する

02/06 (木)
 私の危機感に同意しない人は言う。「日本が戦争しようとしたら、中国や韓国をはじめアジアの周辺諸国が反対するだろう。昔と違って今の日本は外圧を気にするから、反対を無視してまで戦争を起こすことはできない」と。

 この指摘は、実は私も少なからず期待している現象ではある。加害者であった日本は過去に触れたがらないというか、もう遙か過去の出来事だとして相手の痛みへの配慮に欠ける――また小泉首相は靖国参拝を強行した――が、被害を受けた国は、その痛みを昨日の事のように覚えているだろう。
 日本が単独でなら勿論だが、アメリカに同調して、アジアの国を相手に戦争しようということにでもなったら、事前に一斉に反発の声をあげるに違いない――、そう私も予測し、そこに期待をかけざるを得ない心境を抱いていることを否定はしない。

 だが――と、私の内なる声は言う。反発するとしても、どの程度の反発か。それによって、日本政府が本当にアメリカの要請を断って、参戦拒否に至るほどの反発はあるのか。
 或いは、観点を変えて、日本がさほどにアジア周辺諸国の意向を真摯に受け止めるであろか、アメリカとの同盟関係にヒビが入ってでも、アジア周辺諸国の声を受け入れるだろうか。
 私は、そのいずれにも期待できないと考えている。

 アジア周辺諸国の反発と言っても、各国の首脳部にも世代交代が生じていよう。日本が終戦当時まだ乳児に過ぎなかった人物が首相の座についているように、アジア諸国もまた、直接的には自ら日本の蛮行を体験していない世代が権力の座についているのではないか。
 また、各国の経済状況の問題もある。日本の援助や日本との貿易を期待する国にとっては、自国が攻撃の対象にでもならない限り、建前としての反発と抗議を示すだけに終わるのではないか、決して日本と国交断絶するほどの、或いは日本に攻撃される国に荷担するほどの行為までには至らないのではないか。
 その経済状況に関連して、各国の経済人の動向も政府首脳に大きな影響をもたらすことだろう。その経済人たちが、日本との決定的な断絶を望むであろうか。
 こうした事を考えると、周辺諸国の「戦争反対」の圧力にも限界があると言わざるを得ない。

 そして、そうした各国の建前としての反発と抗議の裏を読んで、当の日本も、外交上、経済を中心に何らかの譲歩はするかもしれないが、アメリカとの同盟関係にヒビが入るほどの決断は下さないものと、私は考える。
 いや、実を言えば、日本の参戦は、確かにアメリカとの同盟関係の上から発生するという現実を抱えているのだとしても、日本の本音として、日本自らが、国際的な武力紛争に軍事的に関与し、それを通して、日本の覇権を拡大したいという国家主義・ナショナリズムが底に存してあると、私は考えている。
 如何にもアメリカの外圧に追従しているかのようにみせながら、実は、日本自身が、軍事国家としての実績を上げて国際的地位を高めよう、軍事大国として国際舞台で発言権を増大させたいとの本音が存してあると、私は推察しているのである。

 以上の二つの観点により、私は、アジア周辺諸国の反対、とりわけ、中国と韓国が反対した場合が大きな影響を与え得る事態であって、私もひょっとしたらと期待を抱く気持ちもないではないのだが、特にアメリカが裏舞台で何らかの合意を中国との間に取り付けた場合には、中国の日本への反発や批判も、表舞台の儀式的なものに留まってしまうのではないか――、という憂慮の念を抱かざるを得ないのである。
 それにしても、考えてみれば、そうした他者依存に日本の平和と民主主義の擁護を頼るというのも情けない話だが、その情けない話も、有効性に乏しいというのが私の考えである。(1月31日・記)


杞憂論との対話10――環境問題と国際化の時代

02/07 (金)
 「戦争と戦時体制」到来の危機を1987年以降唱えてきた私に、「それは杞憂ですよ」と楽観的な言葉を返した人たちの見解を連日みてきたが、最後に、次の二つの問題についても触れておきたい。

 「今世界的に一番問題なのは環境破壊ですよ。日本も例外ではないですから。環境問題こそ今最大の問題ですよ」
 「今世界は国際化が重要なテーマになっている。日本も国際化の時代に対応しなければならない。日本の課題はそこにありますよ」
 
 この「環境破壊」と「国際化」と異なった二つの問題を「杞憂論との対話」の最後にまとめて論じるには訳がある。
 実は、どちらの主張も、客観的事象と主観的事象を混同している点で共通しているからだ。或いは本質と現象を混同していると言い換えてもよい。
 
 たしかに、「環境破壊」も「国際化」も、今、日本が緊急に取り組まなければならないテーマだ。しかも、「環境破壊」問題では、日本単独だけで解決できるものではなく、まさに国際的な協力も必要不可欠だ。その上、「環境破壊」の最たるものの一つに「戦争」がある。
 もし、非武装・非暴力・無抵抗主義という「絶対平和主義」によって、環境被害が最小限にとどまる保証があるのであれば、私は、その点だけでも、「絶対平和主義者」になるかもしれない。本当に、人間同士の諍いで、全く関係のない自然――山や森や川や犬や猫や野鳥たち――が破壊され殺されるのは、誠にもって、不条理だ。
 わが家には現在7匹の猫がいるが、人間の醜い争いごとで、彼女たちの命を奪うことは絶対に許せないと、彼女たちのけなげな姿を見ているとそう心から思う。ただ、実際には、こちらが「絶対平和主義」を遵守しても、いきなりミサイルが飛んでくるのでは、わが家の猫の命を守る保証もなくなってしまうわけだが。
 ともかく、「環境破壊」は、私に「絶対平和主義」を考えさせるほどに重要な問題であることは否めない事実だ。
 
 勿論、「国際化」とて同様だ。気象が世界的な規模で動いている事や、経済の動きや、それこそ環境問題も含めて、今や一国がどうのこうの、一民族がどうのこうのという世界ではない。その意味で地球に住む人類は一つにならなければならない時代に入ってきたと言えよう。
 事実としての民族意識・国民意識も安易に否定すると逆に反動的な潮流が激しくなるきらいがあるし、またそれぞれの民族・国家に独自の文化や伝統や生活様式や能力等、守るべき大切な価値も存する。
 ただ、それを踏まえたうえで、人は、日本人であるとの意識と同様に、もう一つ、ひとりの人間だという意識――その意味で世界各国の人皆に共通の普遍的意識――をもつ必要がますます高まってきている時代だとも言えよう。

 まさに、「環境破壊」と「国際化」の二つの問題は、今21世紀に生きる私たちが、真正面からかつ緊急に向かい合うべき課題である。
 その事に、私は些かも異を唱えるものではない。殊に「環境破壊」に対する関心は、東京から高原へと移住した事実を以ても、その深さが証明できるだろう。
 
 ――だが、その二つの課題の存在が、どうして私の「戦争と戦時体制」到来の危機を唱えることに対する異論・反論たりえるのだろう。どうして、その二つの問題があるからと言って、私の危機感が「杞憂だ」という事になるのだろう。
 世界と日本に於いてこんにち客観的に存在する重要問題は確かにその二つだとしても、だから、世界と日本――とりわけ、この日本がその客観的な事象に対応して動いていく保証など全くないではないか。
 客観的にそうだ、本質はそうだという事と、主観的に事実として突き進む、現象として顕在化するという事は、全く別問題である。

 実際問題として、確かに、日本は今更「戦争と戦時体制」に邁進すべき歴史の地点に立っているわけではない。立つべきではない。
 だが、日本がどう進むべきかは、かの人たちに明確に言えても、実際に日本がどう進むかについては、かの人たちの意識や言動に保証がもてるものではあるまい。
 私が危機感を抱いている対象は、日本が<客観的>にどの課題に真っ先に取り組むべきかという「本質」という位相に於ける話ではなく、<主観的>に日本が突き進みつつある「現象・現実」という位相に於ける問題なのだ。
 その<主観的且つ現象的>問題は、<客観的且つ本質的>課題の存在によって、自然消滅するのであれば彼らの「杞憂だ」の主張は正当性を持ち得るが、そうした現実が見えてこない以上、私の<状況>に於ける「問題意識」=「危機感」は、根拠のある正当なものとして、彼らも認めるべきであろうと、私は考える。(1月31日・記)

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