<思 想>

「日本と日本人への愛を語ろう」
     ―――<過去の歴史>批判の精神的根拠として

                           津吹 純平




 従軍慰安婦問題を中学校の教科書に載せることに反対している人々は、「自虐的」という言葉をさかんに口にする。今までも、日本の〈過去の歴史〉を否定的に捉える人々に対して「自虐的」という言葉で批判を浴びせることが度々行なわれてきた。
 「自虐的」という批判が正当なのは、次の三つの場合だろう。
 第一に、日本に対して事実に反した否定的な認識を抱いた場合である。
 第二に、日本が犯した罪悪に比して、相当以上の否定的見解を抱いた場合である。
 第三に、まだ確たる証拠を示し得ない段階で日本に対して否定的なスタンスをとる場合である。
 それでは、当の従軍慰安婦問題はどうかといえば、そのいずれでもないだろう。もちろん、「自虐的」と批判する人々によれば、そのいずれか、または全てと言うだろうが、日本人として「朝鮮併合」という侵略行為そのものに違いない事実に、さらに恥の上塗りをすることがないことを切実に望むわたし自身、かれらの言い分を注意深く聞き・読んでいるが、いまだ、心を安堵させてくれる事実や論理に出会ってはいない。
 業者がやった事で軍は関与していないという指摘も、当時の軍国主義国家としての国家形態・社会形態にたいする無知を示す表面的で一面的な主張に過ぎないし、商行為だとして、「金をもらったか」と生き証人に詰め寄る政治家の論法も、古代ローマ時代の奴隷制度やナチ時代のアウシュヴィッツやスターリン時代の強制収容所の事実さえ商行為と見做すに等しい詭弁である。
 かれらが、「自虐的」と口にするのは、逆に「自己尊大」の極みであろう。こうした偏狭で独善的で主観的なナショナリズムは、過去の忌わしい歴史に通底していると言うべきである。
 
 ただ、日本と日本人の〈過去の歴史〉を断罪する立場の人々にも、ひとつだけ、反省すべき点があるのではないか。
 それは、これらの人々が、日本と日本人を批判し否定することに性急で、日本と日本人を評価する考え、日本と日本人を愛する心情を、ほとんど明らかにしないできたことだ。
 現代に生き、未来に生きようとしているわたしたちが目を背けることなく、逃げることなく真正面から立ち向かうべきは、もちろん〈過去の歴史〉の罪悪に対してである。わたしたちが批判し否定すべきは、そうした罪悪を犯した日本と日本人である。
 だが、言うまでもなく、過去の歴史とは、全てが罪悪に覆われているそれであるわけではない。また、日本と日本人のすべてが、そうした罪悪を犯したというわけでもない。
 過去の歴史の中にも、罪悪とは無縁の時代があり、罪悪の時代においても、評価すべき、愛すべき点が多々存してあった。日本と日本人の中にも、罪悪と無縁の姿が確かにみられた。(もちろん、これは、つい最近もあった政治家の「日本も良いこともした」という類の話では、断じてない)。
 従って、〈過去の歴史〉のみならず、過去の歴史までを総否定したり、日本と日本人を総否定することは、謙虚さと反省の度を越していると言わなければならないだろう。

 戦後日本の〈過去の歴史〉に対する断罪と日本と日本人に対する批判と否定には、そう解釈されても致し方ないところがあったのではないか。〈過去の歴史〉の醜悪さとそれを恥じない戦後の歴史のゆえに、時を、一点に限定し過ぎたところがあったのではないか。日本と日本人の救い難い側面にばかり意識が傾き過ぎたところがあったのではないか。
 わたしたちの良心と負い目が、自己の全否定にまで自身を追い詰めていったということなのであろう。
 その事は、健全なナショナリズムの形成を損なうことになるかもしれない。また、ほんらい健全で素朴なナショナリズムの位相にある者を、偏狭なそれに追いやったかもしれない。あるいはまた、元々偏狭なナショナリズムの位相にある確信犯的な者に、己のナショナリズムを正当なそれと錯覚させ確信させることにもつながったかもしれない。
 
 わたしたちは、〈過去の歴史〉に目を塞ぐことなく、その罪悪を直視しつつ、同時に、過去の歴史の全体像も視野に入れ、日本と日本人の総体をもしかと認めていくことが今必要なのではないか。
 そこに発見し得る真実と美徳を、わたしたちは、率直に認め、語るべきであろう。過去の歴史、日本と日本人の中に確かに存する真実と美徳を評価し、それへの愛を証すべきであろう。

 その事は、〈過去の歴史〉とそれを具現した日本と日本人に対する批判と断罪が、決して、「自虐的」なものではなく、反ナショナリズムでもないことを示すことになるだろう。
 むしろ、批判と断罪は、より高次元での祖国の歴史に対する評価と愛、日本と日本人に対する評価と愛を根拠としていることを明らかにするであろう。
 実際、そうした高次元での評価と愛ゆえにこそ、歴史と日本および日本人の値打ちを下げてしまう忌わしい〈過去の歴史〉を批判し断罪するのである。
 それに対して、〈過去の歴史〉の罪悪の事実を認めず、謝罪の念を抱かないことこそは、より高次元での評価と愛の欠如を示すことになると言わざるを得まい。
 今、「自虐的」と非難する者は祖国への愛を抱く者たちであって、批判し断罪する者は祖国に唾を吐く者たちであるという図式があるし、前者自身にそうした意識が存していようが、実は、〈過去の歴史〉を批判し断罪することを「自虐的」なぞと非難する者たちこそ、真実と美徳を宿した過去の歴史および日本と日本人に対して、冒涜の罪を犯していると言わなければならないのである。
 また、かれらは、〈過去の歴史〉を批判し断罪することによって、「このままでは、日本人としての誇りを失う。日本は滅びてしまう」と危機感を抱くが、かれらのような偏狭で独善的で主観的なナショナリズムこそ、日本人としての真の誇りを失わせるに至るものであり、歴史を共有するアジアの中で、日本を孤立させ滅ぼすに至らしめるものである。

 実際、そうした不当に歪んだナショナリズムが打破されたとしても、換言すれば、たとえ〈過去の歴史〉を批判し断罪したとしても、日本と日本人は、決して、滅びることはあるまい。
 わたしたちには、罪過があってもなお消すことのできない、消すべきではない先人の優れた営みが存しており、また、誇りという点で言えば、その営みを誇りとすることができる上に、わたしたち日本と日本人が、こんにち〈過去の歴史〉の罪を率直に認める勇気をもち、償いを果たす誠実さと謙虚さをもち得ることを証すことによって、さらに真の誇りを抱くことに至り得るのである。

 そうした先人の営みへの認識と誇りを抱く上でも、また勇気と誠実さと謙虚さを生み出すよりどころとしても、〈過去の歴史〉を批判し断罪する者は、同時に、祖国と人々への評価と愛を語ることにしようではないか。

                                              了


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