<時局:思想>


危険な軍事力優先志向の台頭

                             津吹 純平




 ペルーの日本大使館公邸人質事件は、白昼の武力介入による71人の人質の救出という結果で決着をみた。
 4か月余りに及ぶ長期間、自由を拘束され身の危険に晒されてきた人質は、どんなにこの日を待ち望んでいたことだろう。ご家族の心労も察するにあまりある。とにもかくにも、人質の解放を素直に喜びたい。
 また、その救出の際、まことに残念ながら、人質のひとりペルーの最高裁判事と、兵士ふたりの命が断たれた。彼らの冥福も心より祈りたい。
 ここで、テロリストたちの死にも冥福を祈るべきだろうか。

 それにしても、この武力による強行突入、結果はほぼ成功だったとの声が高いが、ほんとうに、そう言えるのだろうか。
 たしかに、事前のシミュレーションでも人質の7割が死亡するであろうとの予測が出ていたわけだから、最小限の1名の犠牲者にとどまったことは、軍事作戦としては、奇跡的な成功でありほぼ全面的な勝利ということになるのかもしれない。
 だが、事態が明らかになるにつれて、その成功は、悲惨な結末と紙一重のところで得られたものであることが分かってきた。
 この作戦が、人質とテロリストが分離されている僅かな時間帯を狙ったことといい、1階のテロリストたちがサッカーに興じていた部屋の爆撃も2階の人質たちを傷付けまいと火薬の量を調整したことといい、人質の人命に相当の配慮を及ぼしたものであったことは分かる。この種の事件によくありがちな、人質救出よりもテロリスト鎮圧が前面に強く押し出されたものとは異なるものであったといってよいだろう。
 だが、人質全員の無事救出に確固とした裏づけがなされた上での作戦だったかといえば、そうとは言えないのではないか。
 フジモリ大統領の主観においてはともかく、それは危険な賭けだった。
 実際、人質が救出を前に命を落としかねない局面が随所にあったようだ。
 気丈で人間としての威厳も備えていた青木大使も逃げる途中で煙に咽せたことがあったという。また別な人質は直前に重い家具を移動する必要があったという。もしその時、テロリストの監視がいたらそれはできなかったことだろう。
 そしてなにより、2階には数人のテロリストがおり、強行突入がはじまった時に、監視役の兵士が人質に向かって銃を構えたということだ。青木大使の記者会見での「(爆発音を聞いたとき)ああ、これでわたしの人生も終わったな、最初に思った」との発言は、こうした事情を指しての事であったろう。
 もし監視役の兵士が銃の引き金を引いていたら、シミュレーションどおり7割以上の犠牲者が出たかもしれない。少なくとも、人質の犠牲者が1名にとどまるといったわけにはいかなかったに違いない。
 皮肉なことに、人質の助命は、テロリストの人情によって可能となったのである。むろん、これは、テロリストの擁護のために言うのではなく、強行突入というフジモリ大統領の作戦が人質の命を最終的に保証したわけではないことを確認するために言うのである。
 ここで、とにかく結果は良かったではないか、政治は結果だからフジモリ大統領の選択は正しかったのだという意見についてふれておいたほうがよいだろう。この政治=結果論がこの場合においてあてはまるためには、今回のフジモリ大統領の決断が一般性を有したものでなければなるまい。その成功が次回(もちろんあってはならぬことだが)も約束されたものでなければならない。そうでなければ政治は結果だということに説得力が生まれはしないだろう。
 ところが、さきにみたように、今回の成功は、きわめて特殊なものだった。偶然にも良い出来事が重なっての、専門家いうところの「奇跡的」な成功だった。
 ゲリラ鎮圧という位相でいえば前例ともなりえる出来事だったかもしれないが、人質救出という位相でいえば、決して見習うべき前例とは言い難いものであった。政治は結果だなぞとしたり顔で言うべき実態ではなかったのである。

 それにもかかわらず、武力介入こそ平和解決の唯一の効果的な対策であるかのごとき主張がくりひろげられている。人質救出のための話し合い解決など”平和ボケ”した甘いたわごとだといった平和主義批判がしきりである。
 たしかに日常的にテロの脅威に晒されてきたペルー国民が武力解決を求めたとしても、当事者でもないわたしたちが軽々にその非を論じるわけにもいかないだろう。
 しかし、わたしたち日本人においては、テロ対策とは、その防止という位相では最大限の厳重さを求めはするものの、万が一にでも起きてしまった場合には、やはり人質の命を最優先した対応が求められるべきではないか。
 そのとき、武力介入こそが人命尊重の具現だなぞと強弁することは慎むべきである。まして、武力介入による犠牲はやむを得ない、たとえ犠牲が生じても、武力介入を断行すべきだと、軍事優先の主張が叫ばれることなぞ、絶対にあってはならぬことである。

 そしてここで危惧されるのは、こうした軍事優先の主張がテロに対してなされるにとどまらず、紛争一般に対してまで敷衍されているという事実である。湾岸戦争を経験し、今、朝鮮半島の不透明な事態に直面し、尖閣列島問題を抱える我が国が、安易に軍事優先の道に踏み込むことは断じて禁じられなければならない。
 もとより国家・社会の秩序と安定を守ることは時の政府の重大な責務である。だが、軍事力優先の志向にもとづく安易な武力行使は決してその保証とはなるまい。ましてや、国民の人命よりも軍や国家(時の政府や権力者)の威信を優先させた結果としての武力行使は、さきの大戦の前例をみるまでもなく、国民を取り返しのつかない悲惨な状況に追い込むだけである。 
 わたしたちは、ペルーの武力介入による人質救出の出来事から、軍事優先の考え方を学び取るのではなく、改めて、平和主義の大切さとその徹底した追求の必要性を学び取るべきであろう。



「新・八ヶ岳おろし」 「八ヶ岳高原だより」