処女作。キリスト教の成立を、神の超自然的介入を前提しなくても、仏教の成立と同様な人間の新生の出来事として説明できると主張する(ここには仏教はキリスト教と同じ根底に立つ、キリスト教の姉妹宗教だという理解があり、この点で私は滝沢克己と全く一致する)。 イエスの思想と原始教団の思想を分析して比較。両者を宗教的実存論の立場で統一的に叙述。中心に「純粋経験」と我執の克服があるとする。 イエスの墓が空だったという伝承と、復活者顕現の伝承を分析、仏教の聖者伝説(空虚な棺)と比較。空虚な墓の物語は聖者伝説であり、復活者の顕現は以下のような新生の宗教的解釈であると結論。 生前のイエスを理解できなかった弟子達が、イエスの死を「贖罪」と解釈した結果、律法主義から解放され、新生してイエスと同様に生きることができるようになり、彼らの新生を担う力「復活のキリスト」と理解した。こう考えると新約聖書の全体が何の無理もなく理解できるが、伝統的信仰にとっては都合わるいので、教会・無教会には受け入れられていない。 この理解は以降の著作で、次のように単純化される。イエスが登場すると人々が、悲劇的なを遂げたイエスの師、洗礼者ヨハネが復活して、「その力がイエスのなかで働いている」と言った事実(マルコ6.14以下)をイエスと弟子達の関係に適用。弟子達が新生したとき、彼らは新生を担う力を、悲劇的な死を遂げて復活した師イエスの働きだと解釈した。これが復活信仰にほかならないとする。イエスは霊的超越的復活体と同一視されたので、以後、神格化されてゆくことになった。 九州大学の滝沢克己教授がこの著作を『聖書のイエスの現代の思惟』(新教出版社、1965)という一著をもって論評、それによって私は「新約聖書学は単なる解釈で真理中立的である」という見解を撤回した。他方、私が宗教経験の中心と考える「直接経験」(西田幾多郎は純粋経験ともいう)を、滝沢が単なる心理と理解することには異論があり、以降この点をめぐって滝沢の死まで論争が続くことになった(西田と純粋経験については、現在のところ、純粋経験は西田の哲学の中心に位置することが認められる傾向にある)。 なお、私はとりあえず滝沢に反論する形で『聖書のイエスと実存』(新教出版社、1967)を書き、これを副論文として、主論文『新約思想の成立』とともに博士論文として九州大学に提出、文博の学位を受領した。この後の著作は全体として処女作の内容を展開したものである。
新約思想研究のまとめ。新約聖書には複数の神学があることと、それぞれの内容とを、分析して明示しようと試みた。 特に従来と比べて新しい点は、人格主義的神学と場所論的神学(※「私の基本思想」参照)を区別し、場所論的神学の全体像を取り出して、その内容を述べたことである。 ただ、場所論的神学の思考過程は記号化すると正確かつ簡単に叙述できるので、その試みとしたのだが、理系の人には評判がいいのに対して、文系の人には馴染み難いようである。
イエスの思想の解釈。イエスの言葉を個人としての人間の生き方(我執からの解放)、対人関係における生き方(愛)、共同体関係における生き方(律法主義からの解放)に分析、それらの生き方を担う働きがイエスのいう「神の支配」であり、この貫徹が終末-神の国の到来として望まれた、としてイエスの思想の全体像を提供。
『仏教とキリスト教』研究の分野での、私のそれまでの研究のまとめ。 仏教とキリスト教をいきなり比較するのは無理で、パウロと比較できるのは親鸞、イエスの比較されるのは禅である、として比較を遂行、さらに「パウロ・親鸞」と「イエス・禅」を比較対比したもの。
パウロの生涯と思想の概説。生涯については特に新しい見解はない。 パウロの思想を、 1)彼が原始教団から受け継いだ贖罪論中心の神学(これは「律法違反が罪である」ことを前提する)と、 2)「うちなるキリスト」の働きの自覚表出としての神学とに分析。両者の矛盾と関係を論じた。 2)の神学は、「律法主義が罪である、律法を守ってもそれだけでは救われない」ことを洞察するもので、律法主義の形をとるエゴの自己主張を捨て、自分をキリストにゆだねる信仰によって成り立つ。両者をつなぐものは、「わがうちに生きるキリスト」の自覚である。
統合というカテゴリー(これについては※「私の基本思想」参照)を設定し、仏教思想とキリスト教思想がこの点で一致することを論じた。そのために仏教思想の概観とキリスト教教義の歴史の概観が為されている。 この考えはこの後、統合作用の座としての身体と、統合作用の自覚的実践としての宗教という理解に発展してゆくことになる。
久松真一との対話。滝沢克己が直接経験を認めないので、それをめぐって久松と対話したもの。この際、久松の「私」(無相の自己)がイエスの「私」と等価であることに気付き、宗教的に生きる「自分」を「自己・自我」として明確化する始まりとなった。 人間をただ自我(エゴ)としてとらえたのでは宗教は理解されない。身体は超越の働との作用的一(実体的一ではない)であり、自己はそれを自我に媒介する、自我の真の主体である(※「私の基本思想」参照)。
キリスト教から禅に入った禅者秋月老師と私は仏教とキリスト教をめぐる対話を行ない、数冊の本を刊行してきた。本書は『無心と神の国』とともに、最も重要な対話であると思う。 ダンマとは要するに存在、生、人格を担う超越的・内在的な働きのこと。これは自我に覆われているが、それを破って露わとなることがある。それが仏教では悟りといわれ、キリスト教が「キリストが私のちに現われた」と表現したことである。 ダンマが露わになったとき、本来「超個の個」(「自己・自我」、・「私の基本思想」参照)である人間が自分を「超個の個」(自己・自我)と自覚して、宗教的生が成立する。 この対話で秋月老師と私は、「超個」と「自己」(これは新約聖書が「わがうちに生きるキリスト」と呼んだものである)が一致することに同意した。
禅者秋月老師と私の、仏教とキリスト教をめぐる最後の対話。 宗教的自覚には無条件的受容のレベル、統合作用が妥当するレベル(ここで宗教的共同体形成がなされる)と、一般的文化的レベル(思想、芸術、倫理)の三層があることを指摘、その関係を論じたものである。 本書は『ダンマが露になるとき』とともに、最も重要な対話であると思う。
「宗教と言語」の部分は、言語が断たれる直接経験を踏まえなければ宗教は理解されないと説く。言語化された世界(通念が支配する世界)は文字通り「仮想現実」だからである。 「宗教の言語」の部分では、キリスト教においては神も、神がキリストをこの世に派遣したことも、イエスの復活も、イエスの世界支配と終末の到来も、すべて「客観的事実」とされ、それを受け入れるのが信仰とされている状況にかんがみ、また二十世紀の人文科学の一中心が言語論であることにかんがみ、新約聖書の言語は全体として客観的事実を叙述する記述言語ではなく、宗教的自覚を投影し表出する表現言語であることを明らかにしようとした。 聖書は客観的事実の叙述であると主張するのは無理で、これでは世の信用を失うだけで、それを世の不信仰とばかり非難してはいられない。他方、表現言語として理解すれば、新約聖書は自我と通念が神になった現代に欠け、現代にこそ必要な真理を語り伝えるものである。 しかし本書は伝統的キリスト教界にははなはだ都合が悪いに違いない。
宗教論。 第一章は現代哲学を概観して、現代哲学の問題が自我と言語にあることを指摘。 第二章は倫理学の観点から自我が現代倫理の問題であることを指摘。 第三章以下で、宗教に自我の問題の解決があることを示唆する。 第三章は宗教一般について論じ、世俗化と自然科学の発達によって消滅する宗教があること、他方、それによって消滅することのない宗教があることを論じ、この宗教の特質を語る。 第四章は宗教言語の性質を明らかにして宗教に対する誤解を防ぎ、 第五章では全体をイエスの宗教からまとめる。 著者の説明が行き届かなかったため、読者には全体の構成が解りにくい点があるようで、申し訳ないことである。
直接経験、経験の言語化、新約聖書における場所論、仏教と場所論、場所論の論理、言語、内容、構成を述べたもの。 私の宗教哲学的研究のまとめとなっている。
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