人間は身体である。より正確にいえば、身体としての人格、人格としての身体である。まず私(自我)があって、その私が肉体を持っているのではない。「この身体が私である」というのが正しい。 自我は身体の一機能(特定の状況のなかで諸情報を処理し、しかるべき選択をおこなう)であって、身体の中心でもなければ主でもない。身体は自我を生かす装置でもなく、自我の単なる道具でもない。しかし自我が自我自身にのみ関心を抱き、自我だけが自我を動かす唯一の現実となるとき、単なる自我とそのエゴイズムが成立する。さらに自我が身体を対象化して支配しようとするとき、身体は肉体すなわち自我の装置ないし道具におとしめられる。しかし自我は身体を支配できるものではないから、自我と肉体の分裂が起こり、逆に自我が肉体性に支配されるようになる。肉体を通じて世界も自我を脅かす力となり、自我は世界をも生命をも支配しようとして(例。遺伝子操作などの現代技術)これらを破壊し、自分自身も滅びることになろう。肉体を支配しようとする自我は肉体の奴隷になる。 身体は物質世界の一部であり、生命の一環であり、かつ人格である。人間は、この地球上上で、生態系の一部として、人格共同体を形成しつつ、生きるものである。 なお人格とは、コミュニケーションのネットワークのなかで自覚的に自分の仕事を遂行する責任主体のことである。 身体は極である。古典的アトム(原子)のような、バラバラな個ではない。他者とのかかわりのなかで自己同一性を保つ極である。 ところで「かかわり」の現実性はコミュニケーションである。コミュニケ-ション(ラテン語ではcommunicatio)の原意は互いに必要なものを分かち合う共同体の形成である。人間はもともと働いて生きるために必要なものを作り、それを互いに分かち合って、共同生活を営むものである。必要なものとは、ものであり、愛情ないしサービスであり、情報であり、その他もろもろで、コミュニケーションとは相互理解でもあり、意思の伝達でもあるが、単にそれだけのことではなく、生活のあらゆるレベルで与え合い、分かち合う共同体を形成することである。それは自然界にまで及ばなくてはならない。
人間は身体だから、生死があり、性があり、家族がある。必要なものを作って分かち合うために社会生活を営む。だから経済があり、法律があり、政治がある。認識と自覚を表現する文化がある。さて、多くの極からなる、ひとつのまとまりを、統合体と呼ぶ。太陽系、生体、芸術作品(この場合、古典音楽や禅の庭園が代表的)などはその類比である。 たとえば健康とは統合された身体のことである。統合体は複数の個(部分)から成るが、あらゆる個に共通する要素を統一と呼ぶ。我々の社会では統一(言語、貨幣、秩序、法律、制度、伝統など)が統合に優越して、しばしばし個を圧殺し、結局は統合を歪めている。 エゴイズムとは、単なる自我およびその集団が他者(自然と人間)を自分達の下に、自分達の都合がいいように、統一(支配)しようとする志向であって、これは互いに合う結果を招き、統合の破壊に導くのみではない。エゴイズム自身が人間の本質を破壊するというべきだ。 ちなみに単なる自我とは、統合作用(つまり他者との原関係)という基盤から遊離し、自分自身にだけ関心を抱き、自分自身にだけ現実性を認めるようになった自我のことである。 身体-人格は個だが、個は、上述のように、かかわりのなかで自己同一性をもつもの、すなわち極である。極とは、磁石の両極のように対極とは区別されるが、対極なしては存立できないものである。原子的な個が結合して極になるのではない。個ははじめから極となるようにできている。極と対極は同時に成立するものだ。 ところで個は統合作用の場のなかにあり、極として互いにかかわりながら、統合作用によって統合体を形成する。だから、まず個があって、しかる後に与え合うのではない。極同士の関係が与え合い(コミュニケ-ション)だということである。これは生体のなかでの器官同士の関係を考えるとわかりやすい。実際、人間は性として異性存在を前提とし、また言葉を使う相手の存在を前提して生まれてくる(言語能力、発音器官、耳、さらに目、手も含めて)。言葉の使用を考えただけでも、言葉を使うのが自分ならば、自分とは言葉を交わす相手、むろん言葉を作ってきた人間の社会、歴史、文化なしには自分でありえないことは全く明瞭である。 人格としての身体は、みずから統合体でありつつ、身体-人格の統合体(人格共同体)の形成を求める。統合体とは、あらゆる構成要素のあいだに妨げられずコミュニケ-ションが成り立ちうるような共同体のことだといってもよい。生体内の神経やホルモンによるコミュニケーションのネットワ-クはその類比である。 物質世界のなかに複雑な化合物が現れ、生命という統合体が出きた。生命の世界のなかから「身体-人格」である人間が出現した。これらのプロセスはより高次の統合への歩みと考えられる。 しかし、統合作用は存在するが、それはいわば現実に与えられている方向性(自己組織の傾向性)であって、統合の現実化は必然ではない。第一すべての多細胞生物には死がある。個は死ぬ。生きているうちの統合現成の確率は決して大きくはない。生命の出現は自然的諸作用の結果だったといえようが、これは極めて小さい確率で起こったことである。 人間の場合、統合はそれへの作用を認識した人格によって自覚的に形成される。 一般に統合体は放っておいて成立つものではない。放っておけば破壊の確率の方が高いだろう。世には災害も病気も戦争もある。死もある。しかし、せっかくこの地球上で、はなはだ稀なことに違いない統合化が進み、生命という統合体が現れ、進化がなされ、人格共同体の可能性までがあるのだから、人間は自覚的に統合体成立のための諸条件を整えるべきである。 我々は破壊より統合を選ぶほうが当然だ。宗教は統合実現のための道の一つである。
宗教が神(超越)の働きと呼んできたものは、結局のところ、統合作用である。物質を生命へ、生命を人格へ、人格を人格共同体へと統合する作用である。万物を貫いてこの統合作用がある(ロゴス、ダルマ)。しかしこの統合形成は必然でも強制でもない。人格としての人間の場合、統合作用は、それを自覚的に実現する人間を通してしか働かない。パウロは、自分の伝道について、それはキリストがパウロを通して遂行したことだという(ローマ15:18)。伝道は「キリスト」(超越的統合力)だけでは遂行されない。統合は、その作用をみずからの身体-人格のうちに見出だし、それを自覚的に表出する人格を通してなされるのである。愛は神から出る、愛する者は神を知る(・ヨハネ4:7)と言われる通りである。実際に愛することによって愛の共同体が形成される。愛は深い意味で人性の自然だが(統合作用によることは自然である)、必然ではない。この意味で統合された共同体形成は人間の責任だといえる面がある。換言すれば統合論(場所論)には神義論(神がいるのになぜ悪や不幸があるか)の余地がない。 個は統合作用の「場」のなかに置かれている。他方、個は統合作用がそこに宿り働く場所である。統合は場のなかで実現する。 統合とは「場所論」の主題である。個とは、人間の場合、身体-人格である。 身体は超越と個の作用的一である。その中心を「自己」と呼ぶ。自己は-おそらくは自我が成立して以来-意識から隠れてしまった。その結果、自我は単なる自我となり、エゴイズムの座となった。しかし、自己が自我に対して、また自我のなかに、現れる出来事があり、このとき自我は自己の働きを表出するから、人間は単なる自我ではなく「自己・自我」となって身体-人格の本質(統合形成作用)を自覚的に現実化する。仏教はその統合作用の自覚を「悟り」と称し、キリスト教は「キリストが私のなかに生きている」と表現した。宗教的自覚とは、もともと「自己-自我」であるべき人間が、実際に「自己-自我」となり、それを自覚しつつ、統合作用の実現者となることである。そして統合作用の現実性はあらゆるレベルでの-自然界にも及ぶ-コミュニケ-ションである。類比と提供するなら、身体が船体なら、自己は船長、自我は舵手である。船長は船内で船会社を代表する(超越の比喩)。
人間(身体-人格)はこの地球上に住んで、働いて必要なものを作り、それを互いに分かち合う共同体的存在、一言でいえばコミュニカント(コミュニケートする者)である。要するにあらゆるレベルでコミュニケートする身体だ。実際、幸福とは妨げられぬコミュニケ-ションの場にあるではないか。健康も、内外のコミュニケーションがうまくいっているからだのことだ。 このような人間存在に超越的根拠があることを自覚し、人間性を肯定し、個の死を受容しつつ人類の存続(ここに家族の役割がある)を意志し、人類的共同体の形成を願うのが宗教心である。我々の問題は、いかにして我々がこのような「本心」に立ち帰るか、その道を、宗教の伝統に学びつつ、改めて明らかにすることだ。 自由な与え合いが社会生活のなかで交換として制度化され、さらに貨幣経済が成立するとき、所有権、契約、違反への罰など(つまり法律)が社会的現実となる。貨幣そのものが価値とみなされ、富が求められる。以上は歴史の示すところだ。 これは単なる自我達の社会的現実(秩序)の世界だが、この世界は人間が自我で有る限り、むろん否定されうるものではない。しかし、このような社会的現実(言語化された世界、仮想現実としての人為的秩序)の根本に統合化(根源的コミュニケ-ションの世界)の働きを認めなければ、人間は肉体からすら浮き上がり、影のように実在性を欠いた単なる自我となって、欲と計算に明け暮れ、世界を収奪・破壊し、膨大な富をかかえたまま枯渇するだろう――人類はこの地球上でせっかくここまで宇宙的にみても極めて稀に違いない歩みを進めてきたというのに。